コーヒー・ドロップ

砂部岩延

「先輩」

 通りに面した大きなガラス窓からは店内の様子がよく見えた。

 手前のスツールにはよく見知った少女が腰掛けていた。

 カウンターの流し台に立つ若い男性店員と、会話に花を咲かせている。彼女の横顔には誰が見たって疑いようのない好意が見て取れた。


 落ち着いたクラシックのBGMがガラス窓越しに漏れ聞こえている。

 窓枠に縁取られた二人の姿は、さながら美術館の壁にかかる小さな絵画か、街中のディスプレイに流れる映画のワンシーンのようでさえあった。


 店の扉に向きかけていた足が、すすけたアスファルトの路面に縫い付けられた。

 幸せそうな横顔をただ黙って見つめる。

 根の生え始めた足を引き剥がして、一歩、足を踏み出す。

 そのまま店の先を素通りして、素知らぬ顔で、路地の向こうへと歩いて行く。

 弦楽器の引きつるような音色が、背中越しにしばらく鳴っていた。






「高屋さん」


 声をかけられて、はっとした。

 ぼんやりと入り口の扉に向けていた視線を切って、高屋直之は、目の前のスツールに腰掛ける少女に向き直った。


「ごめん、お客様かと思って」


 念のためもう一度、直之は入り口の扉と、ガラス窓の向こうを伺ってみたが、誰かが入ってくるような気配はなかった。


「すみません、お仕事、邪魔してますよね」


 少女がすまなそうに眉尻を下げる。


「女の子を悲しませちゃァいかんよ」

「世の中には仕事より大切なことだってある」


 奥側のカウンター席に並んで腰掛けていた壮年の男性二人が、もったいぶって頷いた。年相応に育った太鼓腹も豊かに揺れた。


「そいつは困るな」


 向かいで食器を磨いていたマスターが、しかめつらしい顔をして言う。

 混じりけのない白髪をオールバックにまとめて、白いシャツに黒のベストとスラックスを着こなす長身痩躯の立ち姿は、東京都渋谷区の一等地に店を構えて三十余年も守り続けてきた貫禄にふさわしいと、常連たちの間でも評判だ。ただし、黙っていれば、という注釈がつく。


「だから、お嬢ちゃんはおじさんと話そう」


 深みのある相貌をだらしなく崩して、カウンターから身を乗り出す。

 少女がひきつった笑みを浮かべていると、店の奥からやってきた小柄な人影が、腰に手をあてて隣りに立つ。白いひっつめ髪に分厚い眼鏡をかけたおかみさんが、注文伝票を突き出しながら、叱咤の声を上げる。


「およしなさいよ。老い先短いアンタたちと違って、先の長い大事なお客様なんだから」


 虫眼鏡のような分厚いレンズの向こうから、大粒の黒目に睨まれて、男三人は揃って首をすくめた。


「オマエも変わらん歳だろうに」と往生際悪くぼやいたマスターは、さらに鋭い視線を浴びて、あたふたと食器棚に向かった。

 若い店員と少女は視線を交わして、忍び笑いを漏らした。

 壁掛けの古い振り子時計が鐘を五つ打った。

 少女が顔を上げて、残念そうに呟く。


「そろそろ帰らないと。もうすぐ期末試験なんです」

「高校生は大変だ」

「大学は試験とかないんですか」

「もう終わって、今は春休み」


 いいなぁ、と少女がカウンターに突っ伏す。


「あと一年もすれば、イヤでもこういう生活になるよ」

「それを言わないで下さい」


 少女は悶えるように体を揺すった。


「勉強なら、それこそ教えてもらえばいいじゃないか」

「坂の向こうの良い大学に通ってんだから」


 常連たちが口を揃えて言うと、「良いも悪いも。偏差値高いってレベルじゃないですよ」と少女が恨めしげに呟いた。

 カウンターの上で一度、ぺしゃりとつぶれた後で、意を決したように立ち上がった。


「ごちそうさまでした」と一言添えて、カウンターの上にカップを上げる。

 それを受け取ってから、彼女が荷物を整えている間に、濡れた手を拭いて、一足先にレジ横まで移動した。

 ハンガーから彼女の上着を手に取って待っていると、心なしか少女は嬉しそうに歩み寄って、コートに袖を通した。


「ブレンド1杯で、540円です」


 財布を開いた彼女は、ほんの一瞬、難しい顔を浮かべてから、小銭をかき集めて受け皿に並べた。

 金額を確認して、レシートを手渡す。


「いつもありがとう」


 レジ横のストックから飴を取り出して添えると、彼女はほんのり顔を赤らめて微笑んだ。


「ごちそうさまでした」


 と、会釈して、入り口に向かう。

 店を出る前に、もう一度振り向いて頭を下げる。店を出てからも、帰りしなに窓の向こうから遠慮がちに手を振っていた。

 それを店員一同とカウンターの中年二人でにこやかに見送る。


「健気だねェ」


 常連の一人がしみじみと呟く。


「付き合ってあげればいいじゃないか」

「あんなに若くて可愛いのに」

「高屋より絶対オレのほうがイケてると思うんだが」


 口々に勝手なことを言う三人を無視して、カウンターの流しに戻ると、

「あの年頃の女の子と付き合うのは大変よぉ」


 瓶底のような眼鏡を押し上げて、おかみさんが含蓄たっぷりに言った。

 カウンター越しに男三人が顔を寄せて「また始まった」とひそめくと、それを眼光で射竦めてから、おかみさんが振り返って「分かってるわね」と視線で問いかけてくる。


「喫茶店の店員じゃない時の、高屋直之は、あんまり好かれそうにありませんね。ただのオタクってやつです」


 と、直之は小さく肩をすくめた。意図せず口元に苦みが浮かぶ。

 おかみさんは満足そうに頷いていたが、カウンター奥の三人は怪訝な顔を見せ合っていた。

 しょうのない男どもだ、とおかみさんが嘆息する。


「恋に恋した女の子に、本気になればこっちが傷つく。遊びのつもりなら、あっちを傷つける。どっちにしても、茨の道だわ」


 自分の言葉に頷くおかみさんを横目で見て、マスターはうんざりした顔を浮かべていた。



「お疲れ様でした」


 入り口の扉を閉めながら、直之が店内に声をかける。道すがら窓越しに頭を下げると、店内のマスター夫妻と常連たちが応じてくれた。

 店の前の路地を抜けて、往来に出た。

 緩やかな坂道は上がればキャンパスに、下れば駅へと続いている。

 大学の図書館に寄ろうかと、一時、考えてから、やがて踵を返した。

 あまり気分ではない。

 人の流れに沿って、坂道を下っていった。

 人の往来は駅に近づくにつれて、他の通りや往来と合流して、指数関数的に増えてくる。

 歩道の流れが滞り始めたところで、脇道に逸れた。

 渋谷の駅前は、休日ともなれば、縁日もかくやというほどに混み合う。近隣の学生なら、各々、独自の迂回ルートを持っているものだ。

 雑居ビルとラブホとライブハウスの合間を縫って、狭い路地を右に左にと駅へと向かう。

 日の光はほんのり暖かったが、日陰に入ると一気に冷え込む。肌に触れる空気は冷たく、春にはまだ少し遠いようだ。

 道の先でひっついた団子のように歩くカップルの背を、足早に追い越す。この界隈でそぞろ歩く男女の目的ともなれば、推して知るべきだろう。日も高い内から盛んなことだ。

 直之はコートの裾から這い上がる寒さに身を震わせた。

 早く帰って温かいものが飲みたい気分だった。店で廃棄前のブラジル豆を沢山もらったから、カフェオレにしようか。

 機械的に足を動かして、日当たりの悪い狭い道を突き進む。一度、大通りを横切って、また路地に入る。大きな商業ビルの裏をすり抜けるようにして、やがて駅前の高架下に出た。

 信号を待つ沢山の男女の群れの中で、首を竦めて佇む。

 青と同時に足を差し出す。

 文字通り渋谷の顔となった顔面岩の前を横切り、数多交わされる逢瀬の隙間を抜けて、地上駅の構内へと入る。

 改札が見えたところで、ポケットに手を突っ込んだ。

 定期券を取り出そうとして意識が手元に向いたところを、柱の陰から矢のように人影が飛び出してくる。

 あわやがっぷり四つに組みかけたところで、なんとか身をひるがえしてかわした。


「すみません」


 すれ違う横顔に声をかけようとして、直之はぎょっとした。

 鬼の形相だった。

 ゆるくウェーブのかかった栗色の軽やかな髪をかき乱して、アイラインがにじんだおどろおどろしい眼尻を裂けんばかりに釣り上げて、血のしたたるような紅い口唇を剥き、形の良い犬歯を苦々しく食いしばっていた。

 幸いだったのは、その瞳が何も見ていないことだった。

 足先数メートルの地面を親の仇のように睨んで、足早に通り過ぎていく。

 鬼の瞳には、涙があった。

 頬のファンデーションにはいくつもの跡が刻まれていた。

 すれ違った直之の足が、はたと止まった。

 まさに今、目に焼き付いた横顔に、記憶の中の横顔がぴたりと重なった。

 振り返って、遠ざかる後ろ姿に声をかける。


「先輩」


 道往く数多の先輩たちが振り向く中で、彼女はただひとり、背をむけたままだった。

 しかし、足は止まっていた。

 ファーの付いたピンクのコート、むき出しのナマ足は白くまぶしく、黒のロングブーツのヒールはいったい何センチあるのか。

 記憶の中の格好とは似ても似つかなかったが、その姿形を直之が見間違えるはずはなかった。

 ゆっくりと振り向いた彼女の表情には、最初、怪訝な色が浮かんでいたが、やがてそれは驚きに変わった。


「高屋」


 またひとつ、雫が頬の上をこぼれた。

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