第10話 魔窟の底
洞窟の闇に、人面犬の苦鳴が響き渡った。
無毛で茶色い肌をした犬の巨躯に、禿頭の男の顔が張り付いたような気味の悪い犬が、派手に悲鳴をあげながら横倒しに倒れる。その鼻面を細剣が突き破っていた。
回り込むように動いた人面犬が同じように顔面を貫かれて、けたたましい悲鳴をあげた。
洞窟がちょっと狭くなり、大人が5人くらい並んで歩けるほどの通路になっている。撃てば当たる状況だった。
トリアンは一人だった。
乗っていた飛行船が墜落したのだ。
墜落の中、トリアンの命を護るだめに、スイレンがかなり無理をやったらしい。呼びかけに答えずに沈黙していた。
荒い呼吸を繰り返しながら、トリアンは細剣の握りを確かめつつ物陰から様子を眺めていた。
(なんだ、こいつら・・)
恐怖を押し殺すように呼吸を深く繰り返しながら、震える自分の右手を見て眉をしかめる。
(くそっ、なんの悪夢だ)
このような化け物など生まれてこのかた見たことが無い。
これが、居てはいけない、異常な生き物であることは肌で感じていた。
(・・まずい)
人面犬の来る方へ抜けなければ洞窟の外に出られない。
だが、顔を撃ち抜かれた2頭の他に、5頭の人面犬が追ってきている。ただの犬では無い。体格は大型犬くらいなのだが、体の力が強く頑丈だった。特に、頭蓋骨は細剣の切っ先を時々弾いていた。
左手の傷は深くは無いが悪寒を感じていた。毒が含まれていそうだ。
(とにかく奥へ逃げるしかないか)
トリアンは床を嗅ぎながら近づいてくる人面犬から遠ざかるように音を忍ばせて走った。
行く手を岩壁が塞ぎ、少し上方に狭い穴が空いている。跳び上がって横穴によじ登ると、熱をもって疼く左腕を庇いつつ、這うようにして狭い穴を進んだ。すぐに前方に亀裂のような裂け目が見えてくる。まさか、ここまで登っては来れないだろうと思いつつも、後ろを気にしながら急いで前方の岩の裂け目を抜けて向こう側へと降り立った。
(・・ぅわっ!)
おのれの迂闊さを罵った。
そこに、待ち伏せている可能性をなぜ考えなかったのか。
飛来した槍のような棒を、トリアンは身を丸め姿勢を低くして回避した。
(なんだ・・こいつら?)
トリアンは、闇の中で恐怖に眼を見開いた。
犬とは違う。
山なりに尖った禿頭、背を丸めているのにトリアンと同じくらいの背丈をした怪人達が居た。腕が異様に長く、脚は短い。前へ突き出した口元には、涎が粘り着いた黄色い牙が並んでいた。背から腰にかけて赤茶色の剛毛が生え茂っている。股間は剥き出しで歪な男根がぶら下がっていた。。
トリアンは、震える脚を両手で掴み抑えながら、荒くなる呼気を鎮めるように大きく息を吸い、できるだけ静かに吐き出した。
威嚇をする訳でも無く、いきなり鬼が殴りかかってきた。
恐怖で体の反応が鈍い。
鬼の手が肩先を掠め、爪が衣服越しに肌を抉り裂いた。
その太い手首を咄嗟の動きで手刀で打ち払い、トリアンは岩肌を蹴って脇へ逃れた。
いや、逃れようとした、そちら側から別の奴が抱きつくようにして掴まえにきた。
下へ、地面へ飛び込むようにして股をくぐりに行く。
(・・っ、あ・・)
横から蹴り足が飛んで来た。
蹴られて宙を飛ぶのは、ゴルダーンに蹴られて以来だ。
仰け反りながら宙を回転して岩肌に叩きつけられる。あまりの威力で、遠くまで飛ばされたのが幸いだろうか。負けるとは思わないが、これを相手にしていると人面犬が追いついて来る。右腕に受けた毒の治療もしたかった。
トリアンは、素早く走って壁沿いに人喰い鬼達の奥にある通路を目指した。
全力で走れば、人喰い鬼達よりもトリアンの方が速い。
トリアンは、後ろを振り向きもせず、痛む右腕を左腕で支えながら走った。
ぐんぐんと引き離して、重たい足音が遠退いたのを背後に聞きながら、トリアンはちらと肩越しに背後を見た。
(・・・諦めたか?)
背後の闇中に、あの怪異な姿は見当たらない。
ほっと小さく安堵の息をついた瞬間、
(あっ・・?)
足下の感覚が消え去った。
慌てて身を捻って無事な左手を伸ばすが間に合わない。
いきなり通路が消えて闇が広がっていた。走ってきた勢いのまま、トリアンは闇の中を落下していた。
恐らくは縦穴だ。
(おれは・・・本当に運が無いな)
暗くて上も下も見えない。
酷く頼りないような、何か腹からすり抜けてゆくような浮遊感に襲われた。
衣服が激しい風鳴りをしている。
いったい何処まで落ちるのか。
酷く長く感じる。
トリアンは落ちる先へと視線を凝らしていた。
この下が岩なら即死、水溜まりでも即死、樹や草でも即死だ。
(・・ちぇっ)
トリアンは苦く笑った。
もう、どうやっても助からない。
何も見えないまま、その死はいきなり起こるのだ。
その時は突然だった。
何かに体が叩きつけられたと感じたのも一瞬、粘る液体が口から押し入り、鼻を口を埋め尽くした。激しい衝撃の後、体ごと呑まれるようにして粘液の中へと沈んでゆく。
意識は保っていた。
トリアンは眼を見開いていたが何も見えなかった。
粘る液体は眼も包んでいる。
そのまま数十秒もの間、ゆるゆると沈み込んで行き、硬い物の上に落ちてから滑るようにして、さらに下へと沈み落ちる。
不思議と呼吸は出来た。
飲み込んだ粘る物がすうっと溶けるようにして喉で消える。
(・・あれ?)
気づくと、左手が動かなくなっていた。
(肩をやったか・・)
ゴルダーンとの訓練で手を着き損なって肩を外したことがある。あの痛みだった。左肩を脱臼をしているらしい。肘か手首も痛めたかもしれない。
(ぅぎっ・・)
トリアンは苦鳴をかみ殺した。
灼けるような痛みが全身を貫いて走っていた。
骨という骨が砕かれ、肉という肉が溶け落ちるような喪失感に襲われて、トリアンは声にならない苦鳴をあげてのたうち回った。
ざわざわと虫が這い寄ってくるような嫌な音が耳を擦る。
音だけじゃない。
本当に、何かの小さな虫がトリアンの身体を喰っているようだ。
微細な鋭い痛みが身体中を刺した。
耳からも鼻からも、ぞろりと細長いものが潜り混んできた。眼を食い破ったやつも居た。
トリアンは、声にならない絶叫をあげて仰け反った。
開いた口からも喜々として虫達が喉の奥へと侵入してきた。
痛みは食道で、鼻孔で、胃で弾けた。トリアンは身を折ってのたうち回り、涎と共に虫を吐き捨てながら歯を食いしばって耐えていた。
まだ狂わずに居られたのは奇跡だ。
「がぁっ・・」
トリアンは身を跳ねるように痙攣した。
いつしか口元に微笑すら浮かんでいる。
(・・っあ?)
いきなり身体の重さが蘇り、腹腔をくすぐるような浮遊感が襲った。
(虫は・・幻覚?)
いつの間にか、体を蝕まれる感覚が消え失せている。
直後に、背中から硬い岩肌に叩きつけられていた。
一瞬、息を詰まらせてトリアンは顔をしかめた。
気づかない内に右手は肩からねじ折られ、左手は肩を脱臼してしまっている。
両腕が動かせない。
(どうしようもないな)
トリアンは、岩肌に仰向けに寝転がったまま動こうとしなかった。
何も無い、真っ暗な闇を見上げていた。
何も見えない。
もしかしたら、眼が無くなったのかもしれない。
トリアンは真上を向いたまま静かに溜息をついた。
ぎょっ・・と身を固くしたのは次の瞬間だ。
何も無かったはずの視界に、いきなり巨大な顔が現れたのだ。
巨大な人を想わせる顔、その真ん中を巨大な鉤鼻が割っている。左右に2つずつ眼が開いていた。比喩で無く、耳まで裂けた口には短いが尖った牙が並んでいた。肌は濃い紫色をして血の管らしきものが皮膚の下で淡く光っているようだった。
そうした造形がはっきりと見て取れる。
この怪物の血管から漏れ出る薄明かりが周囲を照らしているようだった。
驚愕に大きく眼を見開いたまま、トリアンは固まっていた。
顔だけでも馬車より大きい。いや、町で見た2階建の金物屋よりも大きな顔であった。
顔だけじゃない。
やけに細い首があり、細くて長い腕がある。人ならば幼い少年のような頼りない身体で、どうやらしゃがみ込んで、トリアンを眺めているらしかった。
笑っているのか、威嚇しているのか。
半月状に開かれた口元に、ぞろりと並んだ牙を覗かせている。
トリアンは徐々に落ち着きを取り戻すと、仰向けに倒れたまま巨大な生き物を見つめ返した。
今更、泣いても喚いても、どうにもならないのだ。
どこかでリンゴを囓るような、シャクシャクという音が聴こえた。
トリアンは音の在り処を捜して視線を巡らせた。
(・・こいつ、笑ってるのか)
四つ目の巨人が笑っているらしかった。
トリアンを観察する四つ目が赤黒い光を帯びて闇中に浮かび上がって見える。
(最期は、四つ目の巨人に喰われてお終いか・・)
トリアンは淡く笑った。
四つ目の巨人がしゃがみ込んだまま、長い手を伸ばしてトリアンを掴み上げた。
ぬるりとした冷たい細い指だった。
(8本もあるのか・・)
自分を掴んだ巨人の指を数えながら、トリアンはいよいよ最期の時かと覚悟を決めた。
ぐんぐんと高くなり、トリアンは巨人の顔前まで持ち上げられた。
「よう」
トリアンは壊れた人形のような姿のまま挨拶を口にした。
いきなり、右腕を引きちぎられた。
「がっ!」
トリアンは、身を震わせて苦鳴を漏らした。
引きちぎった小さな右手を指に摘んで、四つ目の巨人がシャクシャクと笑い声をたてた。
どうやら、人形を壊すように、手足をもがれ嬲られて死ぬ事になるらしい。
大量の血を失いながら、トリアンは脂汗の滲む顔で巨人の四つ目を見つめ返していた。
最期の意地だ。
(どうやって殺すか見てやる)
子供っぽい意地だ。最期まで眼を逸らさずにいようと、トリアンは巨人の赤黒い四つ目を食い入るように見た。
耳障りなシャクシャクという音が止み、四つ目の巨人はトリアンの頭を摘まんだ。
(ふん・・)
これでお終いか。
トリアンは薄らとした笑みを浮かべた。
HPの残量が40を切っていた。
もう死んでいるに等しい。
「・・さっさとやってくれ」
トリアンは、赤黒い四つ目を眺めながら呟いた。
そんなトリアンを間近に見つめながら、四つ目の巨人がニッ・・と口角を吊り上げた。
直後に、四つ目の巨人は、ゴミでも捨てるように、トリアンをポイッ・・と放り捨てた。
ケェェェェェ・・
四つ目の巨人が、耳をつんざく叫び声をあげ、虫のような黒ずんだ羽根を背に拡げた。
虫の羽音のような小刻みな振動音が闇中を揺るがし、すぐに高周波の異様な羽音に変じていった。
トリアンは壊れた人形のように手足を投げ出して仰向けに倒れている。すでに視力を失い何も見えないまま音だけを聞いていた。
すでに血の気を失って意識も混濁を始めている。
巨人の四つ目がトリアンを見下ろした。
しばらく見つめていたが、牙の並んだ口元が三日月のように引き裂けた。
不意に倒れているトリアンを中心に漆黒の円模様が出現した。イソギンチャクの触手のような不気味な物が、円模様から無数に生え伸びてトリアンの体に巻き付いた。
シャクシャク・・
耳に触る擦れた音が闇中に響き、四つ目の巨人が触手に埋もれたトリアンを8本の指で指し示した。
直後に、赤黒い光が巨人の手元から放たれてトリアンの額に突き刺さった。
シャクシャク・・
赤黒く光る四つ目を細めるようにして笑うと、巨人は両腕で自身の体を抱くようにして溶けるように闇に消え去って行った。
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