Chapter 4: Super Psycho Love

I.

 早朝七時、いつもよりも早い時間にアラームをセットした。

 というのも、マナは料理ができない。僕は朝のまかないで済ませたら良いが、彼女はそうもいかない。

 適当に朝食を用意してやってから出かけるつもりだった。



 ベッドはマナに譲り、僕はソファに毛布だけかけて眠ることにしていた。

 あまり広くはないが、一週間我慢すれば済む話だ。それ以上居座ろうものなら、床で寝るよう言うつもりだ。



 彼女はよく寝坊をする。

 目覚めたら僕はすでに出勤していて、朝食だけがちょこんと置いてある。そういう穏やかな朝を期待していた。

 しかし、そうはならなかった。



 六時半の事だった。ほとんど目覚めてはいたのだが、流石に早すぎるから、と僕は目を閉じてぼうっと時間を潰そうとしていた。

 突如として、ロビー・ウィリアムズの『Kids』が爆音で鳴り出した。

 激しいロックではないが、普段ジョーン・バエズやカーペンターズ、サイモン&ガーファンクルで目を覚ます僕からすれば、爆発音に近いやかましさだった。

 いや、何より音量設定が大きすぎた。


「うるさい」


 乾燥しきった目をこすりながら、マナの携帯に手を伸ばした。それと同時に、彼女も毛布から腕だけ出して止めようとしている。

 携帯は僕が持ってしまった。あるはずの場所に携帯がなく、その腕はうろうろと空中を彷徨っている。

 音が止んだのだから、僕が代わりに止めたのだと気づきそうなものだが、寝ぼけているのだろう。



 しばらく、気味の悪い触手のような動きを眺め、やがてその手を軽く叩いてやった。


「もう少し小さい音にしてくれ」


 何でこんな早朝に鳴らしたのかは分からないが、せめて近所迷惑にならないよう、そう忠告した。

 うー、と返事なのか寝言なのか分からない声がして、また動かなくなった。



 簡単に朝食の用意をしてやったが、それを見ていて僕もお腹が空いてきてしまった。

 いつもより少し早いが、出発することにした。

 万が一、店長より先に着いてしまっても、まあ良いだろう。ジュリアが先に来ることも絶対に無い。

 あいつは遅刻こそしないが、どれだけ早くても五分前が関の山だ。



 店の前に着いたのが、開店よりも一時間以上早い八時半と少し前。

 流石にシャッターも開いていない。恐らく九時手前には店長が到着するだろうから、それまで時間を潰すしかない。

 そんなこともあろうかと、僕は本を一冊持ってきていた。



 芥川龍之介、『奉教人の死』。

 それほど長くないし、他にもいくつか短編が入っている。丁度いい長さだろう。

 読むのは二回目だが、僕はこの物語が強く印象に残っている。



 ぱらり、ぱらり……と、しばし静寂と紙の擦れる音だけが漂う時間が続いた。

 通りから、誰かが歩いてくる音に気づく。店長だろう、と顔をあげると、そこには。


「ノラ?」


 細いほそいPコートに身を包んだノラが、いつもと変わらぬ仏頂面で立っている。

 ポケットに手を入れたまま、じっと僕を見ている。


「おはようございます、開店はまだまだ先ですよ」


 彼女は、おはよう、と小さな声で返した後、視線を移す。

 僕の目から、手に持っている文庫へ。そして脚元へ。またすうっと上に戻ってきて、再び顔を見る。


「寒くないの?」


「いえ、平気です……あっ、それより」


 昨日のことを思い出した。彼女は来店したけれど、僕がいないと知ってすぐに帰ってしまったのだった。


「昨日はすみませんでした。休みなのを失念していて」


 言い訳じみた言葉になってしまって、余計だったかな、と小さく後悔をする。

 しかし彼女は全く表情を変えず、


「気にしなくていい」


 とだけ。

 すぐに帰ったと訊いたものだから、僕に対して多少なりとも興味があるのかと思っていたが、存外そうでもないのか。少しがっかり。

 彼女から口を開くことは殆ど無い。僕が話題を振って、彼女が一言か二言返す。その繰り返しだ。


 やがて店長がやって来て、僕と、特別にノラも中へ入れてもらえる事になった。



 朝食のトーストを二つ置いて、僕とノラとはカウンター席の隣同士に腰掛けた。

 しかし彼女は、本を読んでいる状態から、ぴくりとも動こうとしない。

 今日は太宰治の『人間失格』。

 どうしてこうも、暗くて救いのない話ばかり好んでいるのか。心配になってくる。


「あの」


 肩をつついて、目の前にあるトーストを指差す。

 つられて彼女もそちらを見て、一瞬だが、目を丸くした。驚いたのだろう。


「これ、私の?」


「サービスです。昨日のお詫びもかねて」


 まかないを客に出してしまうのは好ましくないが、しかしそれをもらう権利のある者、つまり店員は二人いる。しかもその片割れは未だ到着していないし、どうせ時間ギリギリにカロリーメイトを咥えながらやってくることだろう。


 したがって、「ジュリアの分を出した」に過ぎない、という僕の中での苦しい言い訳。

 別に怒られやしないけれど。そう思うことにすれば、自分の中の真面目な声も大人しくなるのだ。


「でも私、朝は食べない……」


 昼も、じゃないかな。と心の中で思いつつも、


「夜はまだしも、朝食は摂っておいたほうが良いですよ」


 ほら、と手で促す。彼女は唇を噛み、微かに戸惑いの表情を浮かべながらも、恐る恐る一口齧った。

 もぐり、もぐり。そしてもう一口。

 かなりゆっくりではあるが、無事にトースト一枚、平らげた。

 おしぼりで唇を拭い、


「ごちそうさま」


 ぼそりと呟いたきり、また本の世界に引きこもり始めた。

 しかしまあ、大きな収穫だ。

 ようやく、彼女がご飯を食べてくれた。それだけでも何よりだ。

 皿を片付け、ノラが食後の一服と煙草――今日はダンヒルだ――に火を灯したと同時、ジュリアが予想通りの格好で飛び込んできた。


「おはようっす――あれ、ノラさん。もういたんですかい」


 開店三分前。説明は後回しに、まずは彼に向かってエプロンを渡してやった。

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