第六手 動変
「ただいま。」
父親の声に、奥から軽い足音が聞こえてきた。
「お父さん‼ どうしたの?
お昼には帰ってくるって言ってたから、心配したんだよ⁉ 」
父親は、思わず「しまった。」と口にしていた。由紀への連絡を忘れていたのだ。
「ま、まぁ………ご飯は、夜に食べれば良い事だけど
………事故とかに遭ってないか………本当に心配したんだよ? 」
「ごめんな、由紀。ちょっと仕事…………関係の人と飯を食う事になってね………今度からはちゃんと連絡するからね。」
その父親の声に、由紀は笑った。
「………じゃあ…………お腹空いたから………
晩ご飯、ちょっと早めにしていい? 」
「え? 食べてなかったのかい? 」
由紀は台所へ向かいながら、首だけ振り向いた。
「パパが心配だったから、忘れてた。」
彼の胸にじわっと、懐かしい温かさが滲んだ。
「パパ………」
そう父親が繰り返したので、由紀は気付いた。そして、そう言ってしまった事を誤魔化す様に顔を真っ赤にして足早に向こうに行ってしまった。
そんな由紀を。父親は、ただただ愛おしく思った。
「いってらっしゃい。お父さん。」
「うん、いってきます。」
結局、昨夜由紀の父親は、話を切り出さなかった。
そして、同時に由紀にあの話は聞かせない事に決めた。
――生活が、困窮している訳じゃない。
それに…………
それに、僕には………由紀が居なきゃ……
由紀が居てくれなきゃ……頑張れない……――
親として。
子を想う気持ちは、それこそ十人十色だろう。
この時の彼の決断が、果たして正しかったのか?
それとも、間違っていたのか。
それが、はっきりと見えるのは、まだまだ、先の話であった。
「ひそひそひそ………」
「くすくすくす…………」
青白い顔で、由紀は固まったまま動きを止めていた。
場所は、教室。丁度、現代社会の授業。
教科の担当の教師は、定年間近。と思われる。頭の禿げた老年の男性。
その男が、禿げ頭に、雷の様に血管を浮かばせ、由紀に睨みを利かせていた。
「何故、教科書を出さん‼ 」そう唾を撒き散らせながら、彼は由紀の机を丸めた自分の教科書で叩いた。
それに、由紀は身体を「ビクッ」と強張らせ、小さく震えた。
「何故、何も言わん‼ 」
そうやって、脅える行為に、彼は更に怒りを憶えた様だ。
「名前は⁉ 担任に、しっかりと、お前の授業態度は抗議させてもらう‼ 」
怒りで震えるその、社会の教師に、由紀はギュッと食いしばっていた唇を震わせながら紐解いた。
「と………苫米地………です………」
「苫米地か‼ 憶えたぞ‼ 」
また、教室に響く様な大声が放たれた。
由紀が、教科書を出さなかったのは。
由紀は、震える手で机の中の教科書を力いっぱい握った。
その教科書には、油性マジックでほとんど全てのページに、心もとない言葉や、下品な落書きがまみれていた。
泣きそうになるのを、歯を食いしばって。由紀は真直ぐにその教師を見た。
「な………なんぞ⁉ そ、その目は⁉ 」
それは別に、反抗の意思表示ではなく。ただ、ここで本当の事を言って………涙を溢す訳にはいかなかった。ただ、それだけの事だが。
今まで、静かに黙り込んでいた由紀のその行為に、教師は反抗を恐れたのだ。
「と、とにかく、今日は近くの席のもんに借りて、授業を受けなさい‼ 」もう、それ以上は何も言わず、彼は授業に戻る。
由紀は、ゆっくりと着席すると、もう一度歯を折れそうな程食いしばった。
「苫米地さん…………ちょっといい? 」
その日の放課後、帰りのHRを終えた後、紀藤が重々しい雰囲気で、由紀に声を掛ける。
「…………今日、社会の授業の時に……
……
先生から直接訊いたんだけど……? ちょっと、この後、話をしてもいい? 」
由紀は、悲しそうに眉を顰めると、小さく頷いた。
「どうして…………? 渡辺先生の話だと………
苫米地さんが取り付く島もない程、授業を聞く態度じゃなかった。
と聞いたわ。」
教室のある棟の階段付近。そこに、ひっそりとある生徒指導室。由紀は、まさか自分がここに教師に呼ばれる日が来るだなんて、思ってもいなかった。
「…………」
己の問い掛けに、沈黙で応える由紀を、じっと待つ。
由紀は、考えていた。
この問い掛け。自分が授業を受ける気が無かったと思われた原因。その誤解を解く為に、話さなければならない『それ』を言った時。
先には、どういった展開になるのか。
まるで、将棋の読みの様だな。と思うと、乾いた笑いが一瞬漏れそうになった。
「ごめんなさい………教科書を………忘れてしまって……それで……」
そう言うと、紀藤の目が、まるで裏を読むかのように、こちらの視線を真直ぐ捉えた。
嘘をついた罪悪感で、由紀は思わず目を反らす。
「………そう………わかった………渡辺先生には私からも謝っておくわ……
勿論、明後日の授業の時に、苫米地さんからも、ちゃんと、謝るのよ? 」
そう言うと、紀藤は優しく笑みを浮かべた。
由紀は、一度小さくお辞儀をすると、その部屋を後にする。
一人になった部屋で、紀藤は溜息を吐いた。
渡辺に、鬼気迫る勢いでこの話をされた時、彼女は思わず否定した。
それ程に信じられない話だった。苫米地由紀という生徒が、そんな事をするはずが無い。
だが、ここで二人きりで……彼女に尋ねて、確信があった。
何か、理由があるにせよ。彼女は、自分の視線に瞳を反らした。つまり。渡辺の言った事の通りが、確かに起きたのだ。
彼女は、頭を抱える。
どうやって話せば、由紀から話してもらえるか。それが解らなかったのだ。
「う………うう……」
由紀は、今にも泣きだしそうな自分を必死で抑えながら、階段を降りる。
「ドン」
その為、注意力が散漫していた。階段をあがろうとしていた男子生徒にぶつかってしまう。
「痛ぇ‼ なんだ。気をつけろよ。」
体の大きな男子だった。顔も見覚えが無いので、由紀はすぐに上級生だと思い、怯えながら謝った。
「ごめんなさいごめんなさい。」
その男子は、由紀の顔を見て、驚いた様に表情を変えた。
「お、おい………いいよ……もうそんな事より、お前も大丈夫か? 」
「え? 」
その返答に、由紀は困惑した。
「めっちゃ、泣いてんじゃん。どっか、怪我したんか? 」
その男子の言葉で、由紀は気付いた。我慢出来ずに、目から涙が零れ落ちていた事に。
「あ、ああ……」スカートのポケットから、ハンカチを出し、瞳を拭うが、それは一向に止めどなく出てくる。
「ご、ごめんなさい………ごめんなさいっ‼ 」
「お、おいっ⁉ 」
その男子生徒が、心配そうに伸ばした手をすり抜けて、由紀は一目散に女子トイレに駆け込んでいった。
「な、何なんだよ………」
彼が、呆れた様に呟いた時、階段の上から、声が聞こえる。
「あれ? どうしたの? 学くん……」
その言葉にホッとした様子で、彼は階段の上を見上げた。
「あっ⁉ やだ‼ パンツ覗いてるでしょ‼ 」
「見てねぇよ‼ 」
そんな事を言いながら、駆け足で階段を降りて来たのは、小柄な可愛らしい女子生徒だった。派手。という程ではないが、しっかりと茶色に長い髪を染めて、バッチリとメイクも決まり、膝程に短く折ったスカートが、眩しい大腿をチラチラと見せる。
「ん? いや、何か泣いてる女の子に、ぶつかられた。」
学と呼ばれた彼は、興味も無さそうに、そう答えた。
「なぁに? まさか、女の子を泣かせたんじゃないでしょうね? 」
学は、面倒そうに頭を掻いて、瞳を落した。
「ん? 」
そこには、先程は無かったハンカチが落ちていた。
「さっきの子が、落したんかな? 」
それを拾うと広げて見せる。
「苫米地………さっきの子の名前かな? 広島でも珍しい名字だな。」
そう言って「なぁ? 」と、同意を求めたが、相手は全く予想していなかった様子を見せていた。
「どうした? エミ………」
はっきりと、動揺した様子で、エミと呼ばれた彼女も途切れ途切れに返答した。
「その子………どっち行ったの? 」
「え………多分、この階の………職員用トイレの方に向かってったかな? 」
「ごめん‼ 学くん、先帰ってて。」
聞くと同時に、彼女は足早に、その場から離れようとする。
「おいっ‼ 待っててって、お前から言っといて……くそっ……何だよ。」
学の声も聞こえない様に、エミはそこに真剣な表情で向かった。
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