最終手 息を止めた我が家
「はっ。はっ。」
長い階段を登りきった由紀は、そこに長谷川の姿を見つける。
「おつかれ。由紀ちゃん。」
にっこりと微笑むと、息の切れた由紀の手を引き、達川家のチャイムを鳴らす。
「ほ~い」と達川の声が聴こえ、間もなく。ドアが開かれる。
そして、出て来た達川は、一重の目を見開いて、
居ると聞いていなかった由紀を見る。
途端。
「ガシャン」
凄い勢いで戸が閉められる。
「なっ‼ 」その対応に、長谷川は怒り、猛然と戸をノックした。
「愛ちゃん‼ なんで、逃げるの⁉ 隠れるの⁉
愛ちゃんだって、由紀ちゃんに謝りたいんでしょ⁉
このままじゃ、本当に私達バラバラになっちゃうよ⁉ 」
しかし、戸の向こうから返事は無い。
その反応に長谷川は肩を震わせ、叫んだ。
「私達は、チームじゃないの⁉
盤上の戦乙女【ワルキューレ】じゃなかったの⁉ 」
その叫びは、あまりに悲痛なものだった。
「愛ちゃん‼ 」
その長谷川の呼び声の直後。
まるで、泳ぐ様に……それは、揺れ落ちてきた。その一欠けらが、由紀の瞳に入ると、体温でゆっくりと溶かされ、一筋の水となり。落ちる。
「5四桂……
「‼ 」
「⁉ 」
戸を挟んだ二人が、同時にそう言った由紀に視線を送った。
すりガラスの向こうから、達川は……その言葉の意味をすぐに受け取る。
それは、あの対局の続き。
そして、その手は。達川が望んだ。由紀が指さなかった。本当の一手。
「5三銀、
「4二桂……成。」即座に由紀が呟きながら戸の前にゆっくりと進んだ。
「………同銀……」達川の声に渋みが加わってきた。
長谷川は、二人のそのやりとりに………言葉に表せない絆を見た。
二人とも、互いの顔も……将棋盤もないその景色で。
確かに将棋を指しているのだ。
――ちぇ……目隠し将棋なんて……ずるいよ………――
「5二歩、打。」
一層、強く由紀は、戸に向かってその手を伝えた。
…………沈黙が続いていた。
その沈黙が破られたのは……直後。
二人の間に張られていた。
すりガラスの戸が開く音。
「ほらな。やっぱりうちの負けじゃったろが。」
そう言うと、達川は難しそうに笑ってみせた。
「あ…………」
由紀は、何かを言おうと、口を開いた。
言葉は出ない。
だが、大きなその眼から、それ以上に語る物が、流れ落ちた…………
「ごめんなさいっ‼ 愛子ちゃんっ! 」
その言葉がようやっと口から出た時、由紀は達川の胸に飛び込んでいた。
「なんで、あんたが謝るんだよ。
ごめんな、由紀。
怪我………さぜで………
ぼんどうにごめんなぁああああ! 」
達川も顔をグシャグシャにして、涙が止まらなかった。
本当は、本当はもっと早く。もっともっと早く。その言葉が言いたかった。
長谷川が、そんな二人に、感化されて、涙を浮かべる。
が、すぐに首を振るって二人に駆け寄った。
「いつまで、泣いてんのっ⁉ ほらっ、雪が降ってきたし。外にいつまでも居ると、風邪ひいちゃうよ! 中、入ろ! 」
そう言って、抱き合って泣きじゃくる二人の肩をぽんぽんと叩いた。
「なんだよぉおお………ないでなんが………いねぇええよぉお。」達川は強がろうとするが言葉にならない。
「さ、中でさっきの対局、どんなだったか、教えてよ! 」
今、こそ、別れめ。
――――――
すっかりと、遅くなってしまった。
時刻は十六時前、由紀は、嬉しさで溢れる胸を抑えながら、長谷川と帰路に着く。
「今日は………ありがとう………クマちゃん………」
由紀の言葉に、長谷川は笑顔で返す。
「ん? 何の事? 」
わざと、そう言って、こちらに気をつかわせまいとする。優しいお姉さん。
由紀は、思いっきりその身体を抱き締めた。
「つぉっ‼ きゅ、急に、どしたの⁉ 由紀ちゃん⁉
キャハハハ、くすぐったいって。」
「いつものお返しです! 」
その時。
後ろを通り抜けていった車の残り香が。
由紀の鼻腔を揺らした。
――………? ――
その嗅いだ憶えのある匂いを、目で追ったが。
その車は、もう遥か彼方にあった。
首を傾げていると、長谷川が蜘蛛の如く身体に絡まってきた。
「きゃー。」
「キャハハ。おっかえしーー」
その違和感は、この長谷川の温もりであっという間に消え去った。
「じゃあね、由紀ちゃん。」
マンションの前で、長谷川が手を振る。
「将棋教室‼ 来ますよね? 」
由紀の言葉に、彼女は頷く。
「うん。二人っきりになっちゃったけど、宜しくね。由紀ちゃん。」
その返事を聞くと、由紀は満面の笑みを浮かべて、長谷川が見えなくなるまでその手を振り続けた。
それも、あったのか。いや。恐らくは先にあった出来事の全てのおかげだろう。
「ただいまーー! 」
まるで、その心はこたつに包まったかの様にあたたかだった。
しかし。
「…………? パパ、ママ? 」
いつも、帰りを告げると、迎えに来てくれる二人が来ない。
――約束、破っちゃったからかな…… ――
由紀の胸に、不安が、小さく蠢いた。
しかし、おかしい。
冬の夕方は、短く。そして冷たい。
それを防いでくれる我が家は、まるで息を止めたかのように。それを、由紀に直接浴びせる。
――電気、ついてない? ――
まるで、留守の様な、その状態。だが、先の事を思い返すと、家には施錠がされていなかった。
由紀の両親が、カギをつけ忘れたのか? いや、それは、由紀自身『ない』考えだと理解していた。
「パパ? 」
リビングに入った時、ようやっと見慣れた後姿を見つけた。
その後姿は静かに。その声に振り向きもせず。食卓のテーブルに座っていた。
「パパ? 」
由紀は、もう一度呼ぶ。
しかし、反応はやはり、ない。
彼女は、不安になり、先程までの胸の熱さを忘れ、その後姿に駆け寄った。
「⁉ 」
父親は、まるで心を失ったかの様に、俯いて何かを見ていた。
テーブル。
父親の視線の先にあったのは。
由紀は見た事も無い。
緑色の、用紙だった。
いざ、さらば。
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