【短編集】天井裏のウロボロス
夙多史
恥物語 ~秋幡紘也編~
本当に馬鹿だったと思う。
小学校一年生――まだ魔術を捨てていない頃に出会った一人の女。
彼女の姿はフィルターがかかったように薄ぼんやりとしか記憶に残っていないが、その出来事だけは忘れたくても忘れられない。痛いほど心に刻み込まれている。
なぜ見つけてしまったのだろう?
なぜ話しかけてしまったのだろう?
あんな風になるなら、出会わなければよかったのだ。
彼女と過ごした時間はとても短くて――
思い返すだけで、苛立ちで胃が捻じ切れそうになった。
∞
「……まいったなぁ」
深緑の森の中、ひっそりと隠れるように存在する獣道を少年――秋幡紘也は一人で歩いていた。澄み渡った青空から温かな陽光が木漏れ日となって降り注ぎ、薄暗いながらも神秘的な空間がどこまでも広がっている。
もっとも、その広がりこそが紘也を不安にさせていたのだが。
「迷った」
小学校の毎年恒例の行事で、学年ごとに行われる夏のキャンプ大会に紘也は参加していた。一年生の紘也たちは山麓の川原にあるキャンプ場を使用していたのだが……薪拾いの途中で紘也は班から逸れてしまったのだ。気がつけば自分が来た道すらわからなくなっていた。
「どうしようか」
迷った時は方角を確認することが大事、となんかのテレビ番組でやっていた気がする。でも紘也は方位磁石なんてものは持ち合わせていない。冒険に来たわけじゃないのだ。
かくなる上は――
「しょうがないか。誰も見てないし」
紘也は集めた薪の束から手ごろな棒を一本引き抜いた。それからなにかと役に立つと言われて班長の諫早孝一から持たされた簡易ナイフを取り出す(どうして子供が持つには危ない道具を孝一が人数分用意していたのかは謎)。
ナイフで木の棒に何本も切り込みを入れ、文字を刻む。だが日本語ではない。アルファベットに近い形状をしているが、一般的なそれと違って単純な直線のみで組み合わされている文字だ。
ルーン文字。
ゲルマン語の表記に用いられた文字体系で、『神秘』や『儀』などを意味する音素文字のことだ。文字一つ一つに魔術的な意味があり、装飾品などに刻むだけでも魔除けとして機能する。戦いでの勝利、災いからの保護、相手への呪い。様々な効果を生み出せるルーン文字は、北欧を中心に数々の術式の基礎を確立してきた。
そのルーンを刻み終えると、紘也は意識を集中させて木の棒に魔力を注ぎ込んだ。
それからざっと辺りを見回し、最も年季の入った大木を見つけて歩み寄る。
木の棒を横薙ぎに振るい、大木に思いっ切り叩きつけた。
パキッ! 呆気なく折れる木の棒。
だが大木の方も無事ではなかった。居合の達人が藁を斬ったように切断線が引かれ、紘也が軽く手で押しただけで盛大に倒れたのだ。
轟音が鳴り響き、小鳥たちが我先にと飛び逃げる。
「まあ、こんなもんかな」
倒れた大木を見て紘也は満足げに呟いた。大魔術師を父に持ち、将来はその父と並ぶあるいは越えると期待されている紘也にとって、齢七歳と言えどこの程度の魔術は朝飯前だった。
「次は……」
綺麗に切断された切り株の上に小石を置いていく。年輪を囲うように均等に四つ。それからナイフで小石と小石を結ぶように幾何学的な模様を刻み、魔力を流す。
と、一つの小石がカタカタと揺れ始めた。
年輪を見れば方角がわかる、というのはガセだ。けれど、これはそのガセネタを元にした『本当に方角を知ることのできる魔術』である。今揺れている小石が北を意味する。
「よかった、ちゃんと動いた」
小石よりも磁石とかの方が成功率も高いし正確なのだ。本来は方位が関係する魔術を使うための下準備的な術式なのだが、こういう地味なものでも知ってて損はないってことか。
北は小石が震えている方角だ。
北は向こう。
北は……。
「……」
ふと、紘也は気づいた。
方角がわかっても、戻りたいキャンプ場がどの方角にあるのかわからない。
「意味なっ!?」
紘也は衝動的に並べた小石を蹴散らした。特定人物や場所を探知する魔術もあるにはあるが、今の紘也には少々荷が重い。そもそも紘也の手持ちの道具だけではあまり高度で緻密な魔術は使えなかったりする。
結局、自分の足でどうにかするしかなかった。
∞
一時間ほど彷徨った頃だろうか。急に視界が白くなってきた。
霧だ。
「うわぁ、どうしよう……」
歩き疲れた上にこう視界が悪くなっては敵わない。紘也は水も食料も携帯していないので本気で遭難してしまうと高確率で死ねる。魔術の知識と技術はあっても、サバイバルの知識や経験は皆無な七歳児である。
「どっかに休めそうなとこないかなぁ……あれ?」
へとへとでもう一歩も歩けなさそうになったその時、紘也は腰掛けるには丁度いい具合の切り株を発見した。助かったと一瞬思ったが――
――あの切り株、まさかね。
込み上がってきた嫌な予感に突き動かされ、紘也は切り株の下まで走った。
――う、やっぱり。
見つけた切り株は、一時間前に紘也が無駄な魔術に使用したものだった。近くに転がる小石。切り株に刻んだ模様。……間違いない。
「同じとこ、回ってた?」
ふざけている。どこの迷宮だ。
苛立ちと共に不安が深まる。二度と抜け出せないのではないか? 冗談半分でそう思ってしまった。
もっとも、冗談では済まなかったことをすぐに紘也は思い知ることとなる。
さらに二時間、紘也は休憩を挟みつつ彷徨い続けたが、どこをどんなルートで通っても必ず同じ切り株の場所へと戻ってしまうのだ。霧は濃くなる一方で、もはや一メートル先すら見えなくなっていた。
「……変だ」
明らかにおかしい。
ここまで来ると普通の子供でも理解できる。
なにか不思議な力が働いているのではないか、と。
――探ってみるか。
目を閉じ、感覚を研ぎ澄ませる。
空間に溶け込んだ魔術的要素を肌で感じ取る。
すると魔術的要素というわけではないが、どこからか人の声が聞こえた。
「こんな山奥に、人?」
不安から来る幻聴か? それとも風の音を聞き間違えたのか?
――そんなわけない!
自分を信じ、紘也は声がしたと思われる方向へと足を進める。
すぐに開けた場所に出た。不自然に霧が晴れて行き、まるで台風の目のようにそこだけ視界が鮮明になる。
川原だった。
これを辿って行けばキャンプ場に帰れるかもしれない。そう思って紘也が喜んだのも束の間、周囲の霧は晴れていないことに気づく。もう一度あの中に入ってしまえば、また例の切り株とご対面することになるだろう。しばらく切り株は見たくない。
普通の子供なら大泣きしてしかるべきところ、魔術師の合理的思考に染まりつつある紘也は溜息だけに留めるのだった。
とそこに、山の静寂さを一瞬で吹き飛ばすような大声が響き渡る。
「いよっしゃあああああああああ今日の晩ご飯ゲェエエエエエエット!!」
「――ッ!?」
ビクリと肩を跳ねさせた紘也は無意識的にそちらを振り向き――唖然とした。
清流の比較的流れが穏やかな深場から、ザバアッ! と飛び出してきたのだ。
一メートル近い岩魚を抱き枕のように抱いた、全裸の女の人が。
「なっ!? はっ!? ええっ!?」
突然の事態に混乱し戸惑う紘也は奇妙な声しか発せられなかった。
「あん? ホワッツ? なんで子供があたしの結界内にいるんですか?」
紘也の存在に気づいた彼女が迷惑そうに眉を顰めた。外国人だろうか? 年齢は紘也よりも十歳ほど年上と思われる。緩く波打った金髪に青く大きな瞳、肌は健康的に白く、黄金比的に整った体の凹凸は誰が見ても美しいと評価するだろう。
綺麗な人だ。
精霊か妖精にでも出会ったかのように紘也は呆けてしまっていた。
「あたしは今からこの川の主を美味しく頂くのです。どうやってここに辿り着いたのかは知りませんが、クソガキは目障りですからさっさと帰ってママのオッパイでも吸ってなさい!」
不審者を見るような目で睨まれるや否や散々な物言いを受けた。しっしっと野良犬を払う仕草で追い返そうとする彼女に、まだ動揺から立ち直れていない紘也は指差して告げる。
「裸族?」
「誰が裸族ですかっ!?」
怒られた。
「じゃあ変質者?」
「首傾げんじゃねーですよ!? あたしは裸族でも変態でもない、ドラゴンです! いいですか? ド ラ ゴ ン です! まったく、最近のクソガキは妙な単語ばかり知ってますね」
意味のさっぱりわからないことを叫ぶ金髪美女。しかも大事なのか二回言った。とりあえず、頭沸いた人だということはよくわかった紘也である。
それと、普通の人間じゃないということも。そもそも本人が『ドラゴン』を自称する通り、人間じゃないのかもしれない。
だが彼女の正体が人間だろうとそうでなかろうと、一つだけ確実に言えることがある。
紘也の目のやり場が行方不明になっていることだ。
「なに目ぇ逸らしてんですか! ……ん? ああ、ガキにはちょいと刺激が強過ぎましたかね」
納得した様子の彼女は捕獲した岩魚をそこら辺に放り、代わりに大きな岩の上に畳んであった服とタオルを手に取った。「あたしの体に欲情するのは十年早いんですよ」とかなんとかぶつぶつ呟きながら着替える。
着替えは一分もかからず終わった。クロスホルターのタンクトップにミニスカートといったラフな格好になった彼女は、再び紘也に視線を向けて嫌そうに息を吐く。
「まだいたんですか? そんなに美少女の生着替えを見たかったんですか? まったくマセたガキですね」
「こいつ……」
彼女の態度にブチキレそうになる紘也だったが、そこはどうにか我慢して握り締めた拳を解く。彼女には聞きたいことがあるのだ。
「一つ教えてくれませんか? 麓のキャンプ場へはどうやったら行けますか?」
腸がよじ切れそうになるのを必死に抑えて紘也は敬語を使う。彼女だけが現在の紘也の希望だから、怒らせないように、慎重に。
「ああ、そうか、やっとわかりましたよ。あんた迷子ですね? ぷぷっ。ダサ過ぎワロタ」
ブチン。
紘也の堪忍袋は一瞬でズタズタに引き裂かれた。
「うがーっ!!」
紘也はズボンのポケットに手を突っ込み、そこからルーンの刻まれた小石を掴み取った。もしもイノシシなどに出くわした時のために用意していた代物だ。それを握った拳の人差し指と親指が重なる部分に乗せ、コインを弾く要領で射出する。
ズキュン!
小石は彼女の腕を掠め、背後の大岩を貫通した。
すぅ、と彼女が両目を細める。
「ふん。やっぱり魔術師でしたか。そんなに魔力駄々漏れにして気づかれないとでも思ってたんですか?」
彼女の腕からつーっと赤い液体が流れたが、その傷口が瞬時に塞がるのを紘也は見た。もう間違いなく只者じゃない。
濃霧と同じ場所を回るループはたぶん彼女の仕業だ。なら彼女を倒せば解決する可能性は高い。
「あたしを討滅しに来たってんならそうは問屋が卸しませんよ!」
彼女が地面を蹴った。向こうも戦る気だ。手加減してはいられない。
紘也はナイフを抜き、魔力を込めて地面に突き刺した。次の瞬間、川原の石ころが不自然に並び変わって魔法陣を描いた。
「オゥ?」
石ころの魔法陣が輝く。陣の中心に彼女が侵入した刹那、爆発と共に地下の岩盤を引っ繰り返したように地面が隆起する。その盛り上がった地塊に彼女は呑み込まれた。
だが――バゴォオン!!
地塊を内部から壮絶に爆散させて無傷の彼女が飛び出してくる。そして紘也が次の手を打つ前に距離を詰められ――
「あぐっ」
喉を掴まれて押し倒された。
「ガキんちょのくせになんちゅう魔術使うんですか。とんでもないですね。でもたかが人間がこの――――さんに勝てると思ったら大間違いです」
一瞬紘也は意識を失っていた。恐らく名乗ったであろう部分が聞き取れなかったが、そんなことはどうだっていい。
このままでは、死ぬ。殺される……。
「まあ、子供を容赦なくぶっ殺すほどあたしも鬼じゃあありません。大人しく帰るってんなら見逃してあげてもいいですよ?」
最後のチャンスとでも言うように、彼女は紘也の喉を掴む力を緩めた。それでも喋れないほど圧迫されていたので、紘也は大きく頷くことにした。
「割と聞き分けのいい子みたいですね」
満足そうに笑って彼女は紘也から離れる。新鮮な空気が一気に肺に流れ込み、紘也は激しく噎せ返った。
「ゲホッ! ゴホッ! だから、帰りたくても帰り道がわからないんだよ」
言うと、彼女は訝しげに紘也を睨めつける。
「本当ですか? そんなこと言って油断させて刺す気じゃあないでしょうね? まあどうせ〝再生〟するので無駄ですが」
「違う! ホントにわからないんだよ!」
紘也は懸命に訴える。このまま彼女に逆らい続けても、大人しく従って濃霧の中に戻っても、結局紘也の命の灯は消えることになるだろう。彼女にわかってもらうことが唯一生き残れる道……最終手段なのだ。
真剣に、まっすぐに、紘也は彼女の青い目を見詰め続ける。
どれくらい睨み合っていただろう。やがて彼女は肩の力を抜いた。
「ふむ、どうやら嘘じゃあないようですね」
そう言うと――ニヤリ。彼女はなにか悪いことでも思いついたかのような嫌らしい笑みを浮かべた。
「あたしの下僕になりなさい。そうすれば帰る方法を教えてあげますよ」
∞
「んじゃあ、まずは薪を拾ってきてください。できるだけ沢山あった方がいいですね」
紘也は二度目の薪拾いをやらされていた。最初に拾っていた薪は彷徨っている途中で捨ててしまったのだが、こんなことになるなら持っていた方がよかったと後悔する。
「ダイジョーブです。あんまり遠くに行かなければ無限ループに突入したりしませんから」
そう言われたものの、紘也は念のため川原周辺の霧が薄い場所だけを歩くことにした。
開始直後は落ちている枝がなければ魔術を使って切り落とす方法で集めていたのだが、それでは彼女が指定した『できるだけ沢山』に達するまでに日が沈んでしまう。
億劫になってきた。
――どうせ見られちゃマズい人なんていないんだ。
適当な木を切り倒し、風の魔術で薪に加工する。そうやった方が断然早い。
効率よくある程度の薪を川原へと運び終えると、彼女が次の指示を出してきた。
「これ一杯に湯を沸かすのです」
ドン、と。
一体どこから持ってきたのか、大きなドラム缶を地面に置いた。
「は? なにこれ?」
「ドラム缶風呂ですよドラム缶風呂。川で泳いで体が冷えてるあたしはホッカホカになりたいんです」
「そ、そんなの自分でやればいいだろ」
こっちは薪拾いと歩き詰めで疲れているというのに。紘也の魔力はまだまだ余裕あるが、体力は普通の子供に毛が生えた程度のなのだ。
「まあ、別にいいんですけどね。山中で野垂れ死にたければ」
「……わかった、やるよ」
紘也には従う以外選択肢がないのも事実だった。
かまど状に組み立てた石にドラム缶を乗せ、川で汲んだ水を入れる。流石に子供の腕力じゃ厳しいのでそこも魔術で補填した。
「あっ」
薪をかまどに焼べたところで、マッチもライターも火打石も持ち合わせていないことを思い出した。仕方ないので魔術で点火する。
「あふぅ~、いい湯ですねぇ~。ふっふ~ん♪」
お湯が沸くと彼女は一瞬で服を脱ぎ捨ててドラム缶に飛び込んだ。頭にタオルを乗せた寛ぎ顔で鼻歌などを歌っている。紘也はというと、お湯の温度を調節するために絶えず火の番だった。
――こんなことをするために魔術を覚えたんじゃないのに!
内心、凄まじく悔しかった。
「でもまだ微妙に温いですね。クソガキさんクソガキさん、もうちょっと温度上げてくださいな」
ついでに、彼女に対する怒りが目の前の炎よりも熱く滾ってきた。
「うあっつ!? ちょ、火ぃ強過ぎですって熱湯になってますから!? 茹で蛇にする気ですか!?」
だから、つい手が滑って火力を上げ過ぎてしまったのは不幸な事故なのだ。ところで茹で蛇ってなんだろう?
「もうお風呂はいいです! 充分温まりましたから!」
溜まらず彼女はドラム缶風呂から出た。生まれたばかりの雅な肢体が露わになる。白くきめ細かい肌はお湯に濡れて艶々で、金色の長い髪からはいい匂いが漂っていた。
本当に綺麗だ、と紘也は思わず見惚れてしまそうになって顔を背けた。頬の辺りが真っ赤に火照る。ずっと火の番をやっていたからに違いない。
タオルで体を拭いていた彼女がニタァと笑う。
「あはん、このマセガキ」
「だ、誰が!」
「あたしの裸に興味津々なんですよね?」
「そ、そんなわけない!」
「またまた強がっちゃって。将来は逞しいムッツリスケベに育ちそうですね」
「……早く服着てよ」
「にゅふふ、もうちょいこのまま涼んじゃおうかなぁ。あたしは子供に見られてもなんとも思いませんし」
「こっちが困るんだって」
紘也は服を強引に押しつけるようにして渡し、後ろを向く。そして脳内で呪文を連呼する。
――あいつは人外あいつは人外あいつは人外あいつは人外あいつは人外あいつは人外あいつは人外あいつは人外あいつは人外あいつは人外あいつは人外っ!
なんか段々とどうでもよくなってきた。不思議。
「じゃあ次はなにしてもらいましょうかね?」
「なっ、まだあるのか! そろそろ教えてくれたっていいじゃん!」
「まーだですよー。そうですねぇ、肩でも揉んでもらいましょうか」
「この……」
紘也はぐっと拳を我慢する。そもそも彼女が妙な結界を張らなければ紘也が迷うこともなかったのではないか? とはいえ、今その結界を解いてもらっても帰り道がわからないことには変わりない。それを教えてもらわないことには帰れない。
「あん! そこ、いいです。んん、子供のくせになかなか上手ですね。ああん、ふわ、んあ」
「……変な声出さないでほしい」
なんにしても、彼女の気が済むまで付き合うしかないのである。
∞
炎の中に焼べられた薪がパキパキと弾けるような音を立てる。
あれからも奴隷のように扱き使われた紘也は、最後に彼女が採ってきた川魚を焚き火で炙ったところで体力の限界に達してしまった。小学一年生にしては頑張ったと思う。いや本当に。どこかの少年探偵団には敵わないだろうけれど。
「このまま死ぬのかな……」
目を閉じてしまうと違う川が見えてきそうで恐かった。
「まったくもって情けないですね。それでも男ですか? おっと、その前に子供でしたね」
彼女は突っ伏す紘也に容赦ない言葉を投げつつ、一メートル級の岩魚の塩焼きにかぶりついていた。もう怒る気力もない。
「ほれ」
と、彼女が別の焼き魚を紘也に差し出した。
「え?」
「あんたの分ですよ。薪拾わせてる間に採っておいたんです」
意外だった。全力でだらけ切っているとばかり思っていた。
「いいの?」
恐る恐る訊ねる。
「腹減ってんでしょ? 子供は子供らしく遠慮なんかせず食べてりゃいいんです」
言い方は相変わらず癪に障るが――きゅるるるぅ。焼き魚の芳しい香りが鼻腔をくすぐり、紘也の腹の虫が悲鳴を上げた。
「……くぅ」
恥ずかしさで顔が赤くなる紘也。ぷっと吹き出す彼女から引っ手繰るように焼き魚を受け取る。一口齧ると全身に力が漲るような感覚がした。塩味がよく効いていてめちゃくちゃ美味しい(自分で作った物だが、子供が作ったにしては上出来過ぎる)。
後はもう止まらなかった。堰を切ったように夢中で焼き魚を頬張り続ける紘也である。
「よっぽど疲れてたんですね。疲れさせたの、あたしですけど」
微笑ましく紘也を見詰める彼女はそんなことを呟いていたが、悪びれている様子はこれっぽっちもなかった。
「あと三匹ほどありますから好きなだけ食べるといいですよ。あっ、この川の主はあたしんのですよ! いいですか? 一メートル級の岩魚なんて普通は三平くんとかじゃないとエンカウントしない大物なんですよ? 超貴重なんですよ? わかってんですか?」
「盗らないよ……」
それになに言ってるのかさっぱりわからない。紘也が子供だからだろうか? 魔術師として知識はけっこう詰め込んでいるはずなのに。
あはは、と彼女はからかうわけではない純粋な笑いを零した。
「なんか、こうして誰かとご飯食べるのって久し振りです」
昔を思い出すような哀愁漂う表情をし、彼女は天を仰いだ。空はとっくに日が沈み、青黒さの中で星々の小さな煌めきが瞬いている。
「あたしはずっと一人でしたから」
「なんかあったの?」
興味本意に紘也は訊く。彼女は苦笑し、
「ちょっと盛大に失恋した、とでも言っておきます」
一瞬、とても寂しそうな目をしてそう告げた。
あまり傷は突かない方がいいだろうと子供ながらに察しつつも、紘也は自分の知的好奇心に負けて質問を続ける。
「好きな人にフラれたから、山籠もり?」
「え? いえこれはただの一人キャンプです」
普通に寂しい人だった。
「ていうかフラれたのって三百年くらい前ですからねぇ。正直もうどうでもいいんですよあんなやつ。とっくにくたばってるでしょうし」
「……お姉さん、何歳?」
「女性に年齢を訊くのは大罪だとママに教わらなかったんですか? まあ今は許してあげますけど、普通なら懲役十年または一千万円以下の罰金ですよ?」
罪重過ぎ。
年齢はすこぶる気になったが、絶対言わなそうなので仕方なく紘也は諦めることにした。
「ふいぃ~、食った食った」
気づけば一メートル級の岩魚が骨も残さず消えていた。彼女は爪楊枝で満足そうにシーハーしている。一体あの体のどこに入ったのか? きっと彼女の胃袋は四次元ポケットなのだ。
「さて、お腹いっぱい食べたことですし……」
「!」
紘也は身を強張らせた。今度はどんな労働をさせられるのか内心ビクビクだった。
だが、彼女が次に放った言葉は予想外のものだった。
「帰るとしますか」
彼女はおもむろに立ち上がり、紘也に背を向けた。
「え?」
「ガキんちょとはいえ、キャンプの相棒としてはまあまあ楽しかったですよ」
それだけ言い残して彼女は立ち去ろうとする。
――なにを、言ってるんだこの人?
「ちょっと待ってよ! 話が違う! 満足したなら帰る方法教えてよ!」
紘也が知りたいのはそんな感想なんかではない。これほど彼女のために働いたってのに、見返りが自分で焼いた川魚だけとか酷過ぎる。報酬は情報だったはずだ。
「ん~、まあ、なんとかなるんじゃないですか?」
振り返らずに彼女は答える。そんなのは無責任だ。
――もしかして、本当は帰り道なんて知らなかったんじゃ……?
消沈していた怒りの炎が再び燃え上がってくる。少しはいい人なんじゃないかと思っていたが取り消す。最悪だこの人。
「じゃあ、あたしはこれでさよならです。また縁があったらどこかで巡り合うかもしれませんね」
彼女が霧の向こうに消えていく。
途端、紘也は怒りよりも一人残される心細さと不安、恐怖の感情が湧き上がってきた。
「ちょっと待って! 置いてかないで!」
こんな場所に置き去りなんて嫌だ。嫌だ嫌だ嫌だ。
「一人にしないで!」
彼女は立ち止まらない。振り向きもしない。追いかけようにも疲労で足が思うように動かない。
「お願い……だから……」
掠れる声で訴え、紘也は地面に膝を落とした。
「うぇ……」
視界が涙で滲む。悲しみが溢れ、紘也の全身を支配する。
そして――
「ふわぁああああああああああああああああああああああああん!!」
紘也は泣いた。迷ってからずっと溜め込んでいた素直な気持ちがついに爆発したのだ。
魔術師といえども所詮は子供。自分自身に強がっていられるのもとっくに限界を超えていた。
彼女がいたことで、そういう想いをどうにか抑えつけられていただけなのだ。
「ふわぁああああああああああああああああああああああああん!!」
紘也は泣く。
ただひたすらに、無意味と理解していても泣くことをやめられない。
泣いて。
泣いて。
泣いて。
「ヒロくぅん、どうしたのぉ? お腹いたいのぉ?」
幼い女の子の声が耳に届いた。
「は?」
紘也はポカンとして周囲を見た。川原を包囲していた霧は完全に消え去っており――目の前、川を挟んだ向こう岸に紘也の帰りたかったキャンプ場があった。
「え?」
近くに架かっている橋を渡ってきたらしい女の子が「よしよし、もう痛くないよぅ」とほんわかした笑顔で紘也の頭を撫でる。
「あ、あいさちゃん?」
クラスメイトで紘也と同じ班の女子――鷺嶋愛沙だった。そしてもう一人、こちら側に渡っていた男子が大きな声で叫ぶ。
「せんせー! ひろやくんいましたぁーっ!」
紘也の班の班長――諫早孝一である。
向こう岸では、担任の先生やクラスメイトの面々が心配そうな顔でこちらに注目していた。
……。
…………。
………………。
「えーと」
要点をまとめると、紘也はずっとキャンプ場の眼前であの女と過ごしていたことになる。そして彼女は目の前にキャンプ場があることを知っていて、紘也を放置して去った。
結界を解けば、紘也はその瞬間に帰ることができたのだ。しかも最悪なことに、大泣きしていた場面をクラスメイト全員に目撃されてしまった。
そこまでの思考を終えると――かぁあああああっ。
この上ない恥ずかしさで、顔から火が出そうだった。
「よかった、紘也くん。さっき捜索願を出したとこだったのよ。あ、早く見つかったって連絡しなきゃ」
担任の女教師がこちら側に来てなんか言っているが、紘也の耳には入らない。
――あいつ……あの女……。
ブチリ。紘也の額に青筋が何本も浮かぶ。もはや子供の顔ではなかった。
(――また縁があったらどこかで巡り合うかもしれませんね――)
決めた。
今度会うまでに、あいつを完全に滅殺できる魔術を完成させてやる!
それは静かな怒りを孕ませた決意。
しかし数ヶ月後に発生する事故をきっかけとして、その決意や彼女と過ごした記憶は魔術の技術と共に忘れ去られてしまうのだった。
記憶と心にはっきりと刻まれた、恥ずかしい思い出だけを残して。
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