時代小説掌編集 桜の精
泡沫恋歌
其の一 お伽噺 桜の精
深い山である。
わけ入っても、わけ入っても、更に深い森が続く。かつてこの森には平家の落ち武者たちの住む隠れ里があった。
若者は爺さまと雉を射止めにきて、沢ではぐれてしまった。山に不慣れなため方向がわからず、彷徨い歩いて、とうとう深い森に迷い込んでしまった。
「ここはいったいどこだろう?」
皆目見当がつかない……。
先ほどから頭上を、ひらひらと薄桃色のものが舞っている。
「これは桜か?」
頬に張り付いた花びらを摘まんでみた。
ほどなく、山桜が群生する森に入り込んだ。そこは山桜が満開に咲き誇り、眼を奪うばかりの美しさ、まるで桃源郷のような処だった。
「なんときれいな桜の木だろう」
男は道に迷ったことも忘れ感歎の声をあげた。
桜の森を進むうちに何やら奥の方でちらちらと動くものが見えた。この辺りの山には凶暴な猿が出ると聞いていたので、男は脅えて身構えたが――。
しかし、それは白い着物を着た人の姿のようだった、まさか、こんな山奥に人が住んでいようとは……もしや、ここがあの平家の隠れ里なのか。
満開の桜の木の下、うら若き乙女が扇を手に優美に舞っていた。
単衣の薄物の衣から、女の白い脚や豊かな乳房が透けて見えて、若者の目を奪う。その美しい肢体を見ているうちに、桜の狂気にあてられてか、若い男の肉体は劣情した。
どうしても欲望を抑えきれず、じりじりと男は近づいていく、ぼきっと小枝を踏んでしまった物音に振り向いた女は、見知らぬ男に驚愕して、
逃げ出した女を捕食する虎のように男も追いかけた。追って追って、追って……。
ついに桜の木の根元に足を取られ転んだ女に、男は覆いかぶさって押さえつけた。
女は手足をばたつかせて必死で抵抗するが、みぞおちに一撃をくらわせると「うっ!」と呻いて静かになった。
「ううっ……」
女は苦しそうもがき、のけ反ったが、構わず突いた。――そのまま男は女の中に精を放った。
空中を雨のように桜の花びらが舞っている……。
女は泣いていた、両足の間から男の精と交ざり赤い血が流れていた。
「すまない……」
正気に戻って男は女に謝った。
「何故このような無体なことをする」
怒りに震える声で女が云う。
「吾は神仏に仕える巫女である。山の神々に舞いを奉納しておったのじゃ」
「おまえがあまりに美しいので……」
「そなたによって吾は穢された! もはや神仏に仕えることもままならず、
「すまぬ……里に下りて、わしの嫁になってくれ!」
「勝手を申すな、男はけだものじゃあ!」
女の悲痛な叫び声が木霊して、桜の森に
「待ってくれ……」
茫然と立ち上がろうとして、男は意識を失くした。
沢の近くで気を失って倒れていた若者を、探しにきた爺さまと村の人たちが見つけて助けあげた。
里に帰った若者は山里で美しい娘にあった話を爺さまにしたが、あの村はずっと昔に村人が死に絶えて、今は誰もおらんといわれた。
「あの女は桜の精だったのか?」
だが、自分の身体にはあの女の感触や匂いも残っていて夢とも思えない。
しかも何故か、懐には女の扇が入っていたのだ。扇には平家の家紋である『丸に揚羽蝶』が描かれていた。
不思議なことだと若者は首を捻った。
――夜半に春の嵐が吹き荒れて、あっという間に山が燃えた。
季節外れの山火事で山頂あたりは見事に丸裸になってしまった。
「きっと、あの女も火に巻かれて焼け死んだのだろう」
桜の精のような女との契りを想いだして、切なさに、男は胸が痛くなった。
山火事がおさまった翌日から、何日も何日も激しい大雨が降り続いた、丸裸になっていた山頂が崩れ、一夜にして麓の村が濁流にのまれ土砂で埋まってしまった。
何者か桜の精と契ったがため、山の神々の怒りに触れたのだと生き残った人々は噂した。
ひらひらと何処からか飛んできた桜の花びらが空を舞っていた。
あの若者も今は土砂の下に眠る。
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