短編集
立津テト
【約三千字】アメアガリ(出会いの物語)
雨。
雨が降る。
少女の世界に雨が降る。
独りぼっちの少女の狭い世界に、たくさんの雨が、静かに降る。
平日の昼間。制服を着た少女が寂れた商店街の、潰れた喫茶店の軒先に一人。小柄な背中には真っ赤なギターケース。
量の多い猫ッ毛は湿気の多い時期になるとごわごわとして鬱陶しかったが、ふわふわした自分の髪が気に入っている彼女がそれを切ろうと考えた事はない。
少女はそこで時間を持て余していた。徒労だとわかっていながら、手櫛で髪の毛を整えることくらいしかやることがないほど暇だった。
そこに駆け込んできたのは灰色のスーツを着た男。何食わぬ顔で先客がいる軒先で水滴を払い落とし始めた。
知らない男に親切にできるほど、少女の人生に余裕はない。胡乱気に男を睨みつけていると、男はそこでようやく少女の存在に気が付いたように目を丸くした。
気まずそうに愛想笑いを浮かべて、水滴を拭っていたハンカチをぐしゃりとポケットに突っ込む。
少女は驚いた。この男はこのままここに居座るつもりらしい。
世界が煙る篠突く雨。軒下はまるで雨水の壁に囲まれたようで、気分はもはや密室にいるのと変わらない。
そんな空間に知らない男と二人きり。年若い少女であればなおさら、落ち着かない気持ちになること請け合いの状況。
しかし彼女はそういった不快感を我慢するような性格ではなかった。
「なんでここにいんのよ。よそにいけばいいでしょ」
強気な少女は自分が移動する必要を全く感じていない。後から来たこの男が出て行くのが順序だと考えていた。
男は少女を発見した時と同じびっくり顔で少女を見て、笑った。
少女はその笑みが不愉快だった。
「なに笑ってんのよ、通報――」
「音楽、やってるんだね」
男の声に、少女は吐き出しかけていた言葉を飲み込んだ。
その声があまりにも優しくて、苛立ちが引っ込んだ。引っ込んだ苛立ちにつられて言葉まで引っ込んだ。
「……関係ないでしょ、あんたには」
そっぽを向いてそう毒づくのが精一杯だった。
「何か聞かせてもらえないかな」
少女は目を瞠った。
男の言葉が信じ難かった。
もっと具体的に言えば男の正気を疑った。
こんな状況で一曲無心する輩の考えなんて想像もできない。
「だって暇でしょ。僕も、君も」
少女の怪訝顔に男はニコニコと答える。
「だからってあんたに聞かせなきゃいけない意味が分かんないし。っていうか暇じゃないし」
手持無沙汰にするのが忙しいのだと言わんばかりにスマホを取り出すが、そこにはなんの通知もない。
昨日もなかったし一昨日もなかったし先週も、先月も。
一年前はあった。
でも、もうない。きっと明日もない。明後日もない。来年もないだろう。
「君は音楽を奏でるのが好きなんだろう?」
少女は応えない。無視する。見るだけ無駄なスマホの画面に視線を落としたまま。
「僕も音楽を聴くのが好きだ。そして今、演奏が好きな君と聞くのが好きな僕が、ちょうど同じ時間を持て余してる。これって運命じゃないかな?」
思わず鼻で笑っていた。
「運命とか……安っぽ」
「じゃあ、君なら何て表現する?」
表現。ついこの間まではなんの苦労もなく出来ていた。考える暇もなく言いたいことが溢れてきていた。
今は出来ない。疑問を持ってしまった。自分の想いが上滑りしていたのだと気付いてしまった。
誰も自分と同じ気持ちでいなかったのだと知ってしまった。
自分が世界に一人ぼっちなのだと思い知らされてしまった。
「……不運」
「ふぅん」
「…………」
「ああ、ごめん、冗談だからそんなに怒らないで」
こんな小娘に取り縋る男が憐れで、こんな男の媚びを見るのが気色悪くて、少女は怒気を溜息に変えて吐き出した。
「じゃあ、君の不運を聞かせてよ」
「なんであんたに」
「行きずりの不運ついで、かな」
「わけわかんない……」
本当に何もかも訳がわからなかった。
バンドを始めたのは自分が輝ける場所を作る為だった。
だから、自分が先頭に立ってみんなを引っ張っていくのは当然であったし責務でもあった。
だから、みんなが自分の理想に従うのも当然であったし義務でもあった。
だから、自分のいないステージを見上げていても、それが現実だとは信じられなかった。
そのステージの中心に立つべきは自分であるはずだった。
スポットライトの熱を、オーディエンスの人いきれを、割れるような歓声を、誰よりも先頭に立って一身に受けるのは自分であるはずだった。
なのに、自分はそこにいなかった。
気が付いたら、自分はバンドにいなかった。その外に置かれていた。
誰も、自分についてきていなかった。
「あんたみたいなのしか隣にいないのが、わたしの不運」
言葉にすればそれだけの事。それだけの事に胸が詰まる。
泣き出しそうだった。泣きたかった。
でも、独りの時でも泣かなかった。泣いたら負けだと思っていたから。
「違う違う、身の上じゃなくて君の演奏を聞きたい」
男はニコニコと少女を見つめる。無遠慮に見つめる。少女が演奏することを疑わない笑顔で。
「……鬱陶しい」
言いながら、少女は背負っていたギターケースを開いた。
どうして聞かせる気になったかはわからない。
ただ、誰でもいいから自分の事を見て欲しかったのも事実だ。
それがたまたまこの男だったことは不運だったかもしれないが、もう仕方がないとも思えた。
もう、仕方がないほどに、寂しかった。
♪始まりは 覚えていない きっと終わりも わからない♪
♪それでも僕は ここにいて 君の居場所を 探してる♪
♪君のそばが 僕の居場所 なのに君は どこにも居ない♪
♪僕をみつけて もう探すのは疲れた 僕を助けて もう君しかない♪
不意に涙が零れた。
一人で演奏していて、誰も足を止めてくれなかったこの曲に、この声に、目の前の男は涙していた。
独りでに涙が零れた。
ずっと泣くまいとしていたのに。
うっかりそれを忘れてしまったかのように。
そうしなければいけなかった。
泣かなければいけなかった。
♪離れないで 傍にいて 離さないで 傍にいる♪
声は涙に沈んで、ひどいものだった。
♪孤独も 痛みも 忘れるくらい♪
歌っていれば忘れられるはずだった。消えてなくなるはずだった。
♪笑ってあげるから♪
一人で歌えば歌うほど心が腫れて、孤独も痛みも強くなった。
♪傍に居て下さい……♪
最後の余韻が雨の音に溶けて消えると、柔らかい拍手が少女の耳に届いた。
「君は強い子なんだね」
どうして自分は泣いているのか、どうしてこの男は泣いているのか。
少女はギターを抱えたままただ茫然と男の泣き笑いを見上げる。
「独りでも気丈に、頑張ってたんだね」
そう、わたしは頑張ってた。
「誰かに認めて欲しかったんだね」
違う、認めて欲しいというのを認めたくなかった。
だから誰も認めてくれなかった。独り善がりになっていた。
「君の音は、僕にちゃんと届いたよ」
ああ、そっか……わたしは、わたしの声を、受け止めて欲しかっただけなんだ。
今なら雨が全てを押し流してくれる。そう思って、少女は泣いた。
男はただ、静かに少女の背中を撫でてやった。
明りの下で見る彼女の髪は、輝くような茶色をしていた。
俄かに光を増した世界は、雨上がりの時を近くに謳っていた。
――了――
あとがき
作者がこの後の二人を想像すると、『男が実はどこかのプロデューサーで……』的な話になります。
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