名も無きこの感情を
玉三
0.プロローグ
薄暗い森を、月の光が微かに照らす。夜に舞う蝶は、陽射しを受けたときにはかえって毒々しかった色が、淡く、淡く瞬いていた。
風が吹き、草木を撫でる。その時一緒に、地面に転がる人間の頬も、さっと撫でていった。
その人間は、呼吸こそしているものの、どこか弱々しい。やや長めの黒髪は乱れている。服は濡れていて、肌にぴったりと貼り付いているようである。
目はかたく閉ざされ、浅く胸が上下している。要するに、起きる気配が全くない。
それに、辺りは肌寒い。いつまでも此処に倒れていれば、死んでしまうに違いない。だが此処は森の中。人の気配なんてまったくこれっぽっちもない。
そう、人の気配はだ。「それ」はとても小さい瞳で人間のことをじっと見ている。「それ」はぱちくりと目瞬きをした。別の場所の「それ」も目瞬きをした。「それ」は単体ではない。人間の近くにも、いる。森中に。見ている。木の影から。草の後ろから。葉のスキマから。水の中から。光の辺り具合で様々な色に変化し、輝いて見える瞳は、気がつけばそこら中にいた。
「それ」らは目をぱちくりさせながら、ちょこちょこと人間の方へ近づいていく。群がっていく。いったい全体、「それ」がどのくらいの数をなしているのかは分からない。ただ、人間は「それ」に囲まれた。覆われた。「それ」は人間に群がり、ぎゅうぎゅうと押し合いへし合い、くっつく。
そして、爆発するように、緊張が溶けた容器の水が溢れるように、わあっと、一気に「それ」は離れ、散らばり、姿を見せなくなった。
いや、全てではない。1体、1体だけ残っている。1体残った「それ」は人間の額にちょこんとたち、さてどうしたものか、といった雰囲気で人間を見下している。額に乗っている「それ」は白く、ひとつ目玉にひょろっと手足が生えたような姿であった。体はそんなに大きくはない。むしろ小さい。ひょろひょろしていて、紙のような印象さえ感じられる。
しかし、潤んだひとつ目は生命力に溢れ、生き生きと輝いていた。その瞳が、先ほどから人間を見下ろし、ぺちぺちと顔をたたく。
「んっ……」人間から初めて声が漏れた。眉をひそめ、何かを考えているような、そんな表情であった。しかし、目は覚まさない。
「それ」は四つん這いになり、先ほどよりもしつこく人間の顔をぺちぺちとたたいた。人間は、嫌そうな表情を浮かべるものの、やはり目は開かない。「それ」は、やれやれ、という仕種をして額の上にくてっと横になった。
そして鼻歌を歌いながら、いや、正確には歌っていないのだが、歌っているような赴きでひとつ目を閉じる。軽く、人間に干渉しようとしているようだ。やがて、人間の身体がビクッと動いた。そしてすぐ硬直する。
今にも泣きそうな、か細い声が唇から漏れた。
「…ぃや……だ……いやだ………っ…」
未だに人間の目は開かないままだが、この声を聴いて「それ」は潤んだ瞳でじっと眼下の人間を見つめた。そして、よしよし、とでも言うように人間の額を撫でるのであった。
夜はまだ明けない。
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