第八話「消費期限」
日付が変わり、現在の時刻深夜0時17分。
「祭兄、ここ、よくわかんないんだけど…」
「頼むから寝かせてくれ…」
そう、緑間は―ちょうど一時間ほど前から、遥の受験勉強に半強制的に付き合わされていた。早く寝るつもりが、どこをどうしたらこういうことになるのだ。
しかも赤崎にいたっては、時の時点で既に睡魔に襲われていて(元々夜行性要素は皆無)、三十分ほど前に妹の部屋にも関わらず眠ってしまっている。ああ、くそ。羨ましい。
「仕方ないでしょ、私中三だし。それに…もう少し頑張らないと、志望校受からないかもだし」
「今日…つうか昨日?一日休んだところで、何も変わんねえだろ」
「…とか言いつつしっかり世話焼いてくれる辺り、さすがお兄ちゃんの友達だよね」
あと何時間付き合わされることになるのやら。緑間は力なくうな垂れた。
勉強を教えること自体は、別段そこまで抵抗があるわけでもないのだが、如何せん時間が時間だし、明日のこと(いや、もう今日か)を考えると、正直さっさと寝てしまいたいというのが、緑間の正直な気持ちだった。
―が、この小娘は、人の話を全くと言っていいほど聞きやしない。
「だってお兄ちゃんがもういないから、勉強教えてくれるような人、いないんだもん」
「………」
お兄ちゃんがもういないから。
そうだった。
この小さな少女から、血を分けた兄を奪ったのは、紛れもなく―俺自身だ。
思いっきり目が醒めた。
「…悪いな」
「なんで祭兄が謝るの?」
聞いていないはずがない。あいつは俺を庇って―死んだんだ。
(そうだ、俺は)
恨まれていても、おかしくはないんだ。
そう、たとえ今ここで刺されたとしても―文句は言えない。
「さっきおばあちゃんが言ったこと、もう忘れた?」
「…謝るくらいさせてくれよ」
遥がシャープペンを一旦机の上に置き、隣りに立つ緑間を見上げた。その目は赤崎と同じく、吸い込まれそうなくらい綺麗な黒色をしている。
一体どこまで似ていれば気が済むのだろう、この兄妹は。
「お兄ちゃんね、祭兄のことよく話してくれたよ」
「…は?」
そして毎度毎度、どうしてこうも脈絡のない話を突拍子なく振ってくるのだろう、この兄妹は。
「朝さ、六時くらいになると電話が来るって。大体決まっておにぎりの中身の話なんだけど、時々用もないのに電話がかかってくることもあるんだって。でも、お兄ちゃん言ってた。本当はおにぎりの中身すら口実で、朝に弱い低血圧な僕を起こすために、毎朝電話をくれるんだって。相当なお節介だね、って言ったら、ただのバカな幼なじみだよって、すごく嬉しそうに言ったの。お兄ちゃん、こんな風に笑えるんだなって思わず感心しちゃった」
「……」
遥が、困ったように眉を八の字に下げて笑う。赤崎もよく浮かべていた表情だ。
「祭兄のこと話してる時が、一番楽しそうだったの。大切な人なんだなあってすぐにわかった。だから守ったんでしょ?」
赤崎は確かに、妹がいるとは言っていた。緑間がそれを信じなかったのは、なんでもないような顔で赤崎がそれを、どうでもよさそうに言ったからだ。言った本人がそれでは、信じようがないではないか。
だから緑間は、赤崎に妹など存在しているはずがないと思っていた。仮に百歩譲って存在していたとしても、おそらく赤崎は今までの生活を変えたりしないだろうし、その存在が赤崎に変化をもたらすことはないだろうと思っていたのだ。
だがそれは、ひどく思い違いだったようで。
赤崎は赤崎なりに、遥は遥なりに、それぞれ向き合って歩み寄ろうとしていたのかもしれない。
「お兄ちゃんが守った大切な人を、恨むなんてできないよ」
この二年間で、十分すぎるほどお互いの存在を認め、信頼し合えるほどに。
祖父母孝行だけではなく、兄妹孝行までしてやがったのか、と緑間は目を細めた。
「…まあ、お兄ちゃんが視えるのは素直に羨ましいけど」
私は、声しか聞き取れないからと遥が言う。
「それでもさ、私達、せっかくこうして出会えたんだから」
―もしも。
もしも、もっと違う形で、この少女と出会っていたら。
もしかしたら自分は、この少女のことを好きになっていたのかもしれない。
あの幼なじみの妹でさえなければ、あるいはそんな「もしも」が。
「恨むとか、憎むとか、そういう物騒なのは横に置いておいてさ。仲良しになった方が嬉しいよ」
あったかもしれない、なんて。
そんなことを、緑間は刹那に思った。それは、今となってはありえるはずもない「もしも」であることに違いないのだけれど。
「…ありがとな、遥」
「あは、初めて名前呼んでくれたね」
緑間は思った。
これからは、出来うる限りこの少女の為に時間を割こうと。たとえ彼女がなんと言おうと、やはり彼女から
だからせめて、その兄の役目であった勉強を、代わりに教えようと。
彼女にとって兄のような存在になりたい。などと、そんなおこがましいことは言わない。彼女にとっての兄は、後にも先にも赤崎静ただ一人だけだ。
だが、それでも。
“祭兄”
そう呼ばれるに足りる、彼女にとって自分が頼れる存在になるのだと―なりたいと、緑間は確かにそう思った。
これも一種の愛情の形だ。
傍から見れば、やはりただの自己満足でお節介でしかないのだろうけれど。
「…んん?そういやあいつ、勉強教えるとかそんな起用なことできたっけか?」
「あー…いや、うーん」
「なんでそこで口ごもんだよ」
「ぶっちゃけ言うと、お兄ちゃんには人にものを教える能力が皆無だよね。頭は良いけど」
***
太陽が照りつける。ザ、ザ、と砂利道を進んだ。
もちろん影はない。
彼は―死んでいるのだから。
暑くもなければ寒くもない。五感は全て失われてしまっている。死ぬということは、そういうことだ。
この世界に干渉することを拒まれ、自分がここにいることを拒み続ける。
死ねば何も残らない。
死ぬことは人を無意味化する。
僕はそれを、弱冠十八歳という若さで知ることになろうとは、これっぽっちも思っていなかった。出来ることなら、一生知りたくなんてなかったのかもしれない。
そして、出来ることなら。
僕は生きていたかった。
死にたくないと思ったことは、なかったはずだった。でも、それでも。死んで初めて、生きたいと強く思った。
ザ、ザ、ザ、と坂道を登る。鼻をつくのは―僕の体に染み付いて離れない、線香の匂い。
近い内に、僕もきっと、この辺りに眠るのだろう。
目的の場所に着く。僕は、目の前に建つ
「は…は、か?」
幼なじみは目の前に建つそれを見て、どうやら困惑しているらしかった。まあ無理もないか。なんせ彼は、何も知らされていなかったのだから。
おばあちゃんとおじいちゃんと遥は、幼なじみのように表立った動揺は見せない。三人は既に
そして僕も知っていた―いや、
だから、知らなかったのはこの幼なじみだけだ。
おばあちゃんが花束を添える。おじいちゃんが桶に汲んできた水を、杓子でそれにかける。
おばあちゃんとおじいちゃんと遥が、両手を合わせて黙祷をした。僕もそれに倣う。幼なじみだけがぼうっとしていた。
もうきっと、聡い幼なじみは気づいているだろう。
藤黄家之墓。
そう、ここは、死者が眠る地。僕もいつか、眠りにつく場所。
「あのさ、祭」
僕は、静かにその名前を呼ぶ。
あのさ、祭。僕、やっぱり生きていたかったよ。君を庇ったことに後悔はしていない。それは多分本当だ。でも、それでもやっぱり、生きていたかったんだって、そんな馬鹿みたいに子供っぽい我儘に、今更気づいて。本当に、らしくない。君は笑うかい?いや、笑わないな。
あのさ、祭。多分気づいていないだろうけど、僕、本当はもう、祭から離れることが出来るらしいんだ。祭に意識がないとか、僕に意識がないとか、そういうの全部抜きにさ。僕はもう、今この瞬間、君の傍を離れて遠くに行くことが出来るんだよ。
夏休みに入って、いつの間にか、自分が祭に引っ張られていないことに、気がついた。気づきたくなんてなかったよ、本当に。
世界は僕を拒み続ける。
そして僕もまた、この世界を拒み始めた―僕の体は、消えかかっている。
あのさ、祭。
どうやら僕の未練には、消費期限があったらしいんだ。もうすぐ僕は、この世の未練だとか、君の罪悪感だとか、周りの変化だとか、妙に居心地の良いこの足枷だとか、そういうもの全部、全部関係なしに。もうすぐ僕は、消えなくちゃならないらしい。
拒み続けることは、僕にはもう、難しいかもしれないな。
本当なら、僕は今日、一人でここまで来なくちゃ行けなかったんだ。祭に頼らず、僕自身の力で。だって今の僕にはもう、それが出来てしまうんだから。
それをしなかったのは、出来なかったのは。結局僕の、“甘え”でしかなかったんだろうね。一人で来るのが怖かったんだ。そんな僕を君は笑うかい?笑ってくれ。
いつか来る別れの時も、君だけはどうか、笑っていてほしい。僕には多分、出来そうもないから。
でもまだ、まだ消えないよ。消えれない。祭の誕生日―八月七日が来るまでは、絶対に。
でも、その日が過ぎたらちゃんと逝くよ。約束する。
ながいながいおわかれは、いまのぼくにはとてもつらいことだけれど。
ぼくのきえたこのせかいで、どうかきみがわらっていますように。
「―僕の母さんは、遥を産んですぐ亡くなっているんだ」
カラスが鳴いている。
赤崎はその黒い死者に連れて行かれないよう、ぎゅっと手のひらを握りこんだ。
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