第六話「そしてさよならの準備を始める」

 緑間が次に目を覚ましたのは、空が大分赤みを帯びている頃だった。

 ゆっくりと体を起こすと、右手を何かにくいっと引っ張られる感覚があり、なんだろうと目を向ける。

 そこには、緑間の手をぎゅっと握りながら眠っている女の子がいた。器用に座って寝ている。きっちり十秒固まってから、緑間は首を傾げた。

(どっかで見たことある顔だな…)

 割と身近にこんな顔した奴がいたような…んん?てか、ここどこだ?俺ん家じゃないよな。なんで俺、こんなところにいるんだ?

「目、覚めたみたいだね」

 その声がした方を向く。緑間の首は存外忙しかった。

 目を向けた先には赤崎がいて、そこでようやく緑間は合点がついた。

「お前に似てるんだ」

「は?」

 いきなり脈絡のないことを言われた赤崎としては、首を傾げる他対処する術がない。緑間の方は、彼女と赤崎とを交互に見比べて、満足そうに「うんうん」と頷いた。

「いや、こいつさ…どっかで見たことあんなーって思ったら、そう、お前だったんだよ。こいつ、お前にそっくりなんだ」

「ああ…うん。そりゃあね。似ているところもあるとは思うよ、妹だし」

「妹か…そうか、妹…あれ、嘘じゃなかったのな…」

 “実は僕には妹がいたらしいんだ”―などと言われたのは、確か高校一年生の頃だ。突然で脈絡がなかったし、到底信じることなどできなかった緑間は、あの時は冗談だろうと適当に相槌を打った。

(まさか本当に…)

 妹がいたとは。

「まあ、祭は多分信じてないだろうなって思っていたけどね。僕もそれでいいかって思っていたし。いつかはちゃんと紹介しようと思っていたんだけど、まさかこんな形で会わせることになるとは思ってなかったよ」

「そりゃこっちの台詞だ…」

 だんだんと思い出してきた。

(そうだ、俺は)

 静の母親の実家に行く途中で倒れたんだ。頭痛がひどくて、それで、立っていられなくなって。その時、薄れていく意識の中、俺を引き上げてくれたのはこの少女だった。

 あの時は、逆光で顔を見ることができなかったけれど。

(一瞬でも、俺がこいつと見間違えたんだ)

 静の妹以外、ありえない。

「いや、一瞬…でもないか」

「え?」

 夢を見た。静の葬式の日の夢を。それは、我を忘れて取り乱してしまうくらい、俺にとっては嫌な夢で。息苦しい夢で。生苦しい夢で。

 勿論あの夢が現実であるということを、俺はよくわかっている。俺が一番、よくわかっている。

(…いや、本当は)

 一番わかっていなかったのは、俺だったのかもしれない。

 夢から覚めて、夢だったことに安堵した。夢の余韻を引きずって気が動転していた俺は、彼女を静だと勘違いして抱きしめて。

 生きていたんだな、と言った。馬鹿みたいなことを言った。

 そして、そんな俺を引き上げてくれたのは、彼女だった。

 夢を夢だと思っていたくて、彼女を拠り所にしようとさえした俺に、優しく彼女は否定した。静はもういないよ、と。それだけで救われたような気がした。涙が出るくらい。

 俺が二度も、他人と静を見誤るなんて今までなかった。考えたこともなかったし、これからもありえないと思っていた。けれど実際に、そのありえないことが起きたんだ。

 顔だけでなく、言い回し、目、仕草や声が。

 彼女そのものから、静に近い雰囲気を感じたから。

 本当に錯覚してしまいそうなくらい―実際に錯覚してしまったくらい、彼女はこの幼なじみによく似ていた。

 当たり前といえば、それは当たり前のことなのかもしれない。

 彼女は、赤崎静の妹だったのだから。

(…となると、ここは―)

「そう、僕のおばあちゃん家」

「はは、なんつう偶然。すっげえ確率だなあおい。運良すぎだろ」

「本当だよ。祭はもう、一生分の運、使い果たしちゃったかもね」

 思わず緑間は笑ってしまった。

(お前を助けなかった俺に、運なんて今更あるわけねえだろ)

 俺はいつでも、自分のことしか助けない―など、そんなことを危うく口走りそうになったが、緑間はなんとかそれを抑える。もっとも、赤崎には考えていることの大半が筒抜け状態なので、意味などなかったかもしれないが。

「もう具合は大丈夫そう?」

 赤崎がどこか不安げな顔をする。

 その表情の意味するところを、緑間はよくわかっていた。

「ん、もう平気だ。全快だぜ」

 赤崎本人が気づいているかどうかはさておき、緑間が倒れた要因は、一貫して赤崎にあるといっても過言ではない。もっとも、緑間の方はそのことに関して、赤崎を責めるつもりは毛頭ないが。

 何故ならこれは、緑間が甘んじて受け入れていることだからだ。

 原因は赤崎にあるかもしれないが、その赤崎を原因にしてしまっているのは紛れもなく―緑間(かれ)自身だ。

 だから赤崎がそのことに関して心配したり、そんな顔をする必要はないと緑間は思っている。これは、自分とって必要な痛みだとも。この痛みによって殺されることもやぶさかではない。おそらく以前の緑間なら、そう言っていただろう。

 この痛みが彼を殺すのに、そう時間はかからない。それが明日か、明後日か、一週間後か、あるいはもっと先のことか―それは勿論、その時になるまではわからないことだ。

 だが、この痛みはきっと、いつか緑間を滅ぼす。

 この状態が長く続けば、おそらく彼は死んでしまうだろう。響が言っていたのは、つまりそういうことなのだ。

 だが、今の緑間は、少なくともそれによってもたらされる死を受け入れるつもりはない。だったらせめて、この痛みくらいは受け入れようと、今の彼はそう思えているはずだ。

 生きることが償いになる。精一杯生きると約束したのだから。

「そう、なら良かった」

「おう」

「じゃあ、少しだけ付き合ってくれない?」

「どこに」

「内緒」

 そう言って赤崎が立ち上がる。疑問形だった割に、どうやら拒否権はなさそうだ。まあ、初めから拒否するつもりなど緑間はないのだが。

 赤崎に次いで緑間も立ち上がろうとした―が、右手が彼女に握られている為、うまく立つことができなかった。それを見た赤崎が、若干目を細める。

「そういえばさっきから気になっていたんだけど、どうして祭は遥と手を繋いでいるのかな」

 どうやら妹の名前は遥というらしかった。

「いやーこれはまあ…えーっと、色々あってだな」

 色々について説明するのが憚れたため、緑間は適当に言葉尻を濁す。ふうん、と赤崎が相打った。

「…僕の遥に手を出したら、たとえ祭でも許さないから」

 そしてどうやらこの幼なじみは、存外シスコン気味のようだった。

「お前と似たり寄ったりな顔と声してる奴に、そんな気起きるか!」

 実際そこまで似てねえし!

 どっちかっつうと好みのタイプだけど!

「まあ、祭には青子がいるから大丈夫か」

 …否定できねえ。

 それはさておき。

 緑間はそっと彼女の手を解いて、今しがた自分が横になっていた布団にそっと寝かせた。規則正しい息遣いが聞こえて、少しだけ顔が綻ぶ。緑間は、ありがとな、と呟いてから起こさないように部屋を出た。

 そしてとりあえず一階に降りたはいいが、これは一応挨拶していった方がいいのではと思い、そのまま直で玄関へ向かおうとする赤崎に、緑間は「待った」と声をかける。

「俺、まだ挨拶もしてねえんだけど」

 別にそんなものは後でもいいと赤崎の顔には書いてあったが、緑間の方も引くつもりはなかったので「そういうわけにはいかない」と無言で訴えた。

 しばらく経って、これは言っても無駄だろうと判断したらしい赤崎が、「わかった」と頷いた。そして居間に通される。

 真っ先に、線香の匂いが鼻をついた。

 目的の人は、ソファに座っていた。もう一人の姿は見えない。

(あれが、静の祖母―)

「おばあちゃん、僕らちょっと出かけてくるから。夕飯までには戻るよ」

「…はっ!?」

 夕飯までには戻るって、そんな馬鹿な。まるで夕飯をご馳走になるかのような赤崎の言い方に、緑間は目をひん剥く。

 ここにお世話になるつもりは、はっきりいってない。そこまであつかましい計画ではなかったのだ。そこで緑間は首を傾げる。

(ん?じゃあ俺、どんな計画でここまで来たんだ?)

 そういえばと思い返し、今日の宿先さえ決めていなかったことに緑間は今更気づく。ああくそ、なんて無計画だ。あれだけ時間はあったというのに、どうしてそんなことに頭が回らなかったのか。

 だが、それにしたってここで世話になる理由にはならない。適当に宿でもとればいいのだ。幸い一泊くらい泊まれるだけのお金は持ち合わせている。果たして一泊如き凌げたところでどうにかなるものか―そこまで順当に話が進んでいけばいいが、二日三日泊まることとなれば…

 そこまで考え、緑間は首を横に振る。後のことは後で考えればいい。

 とりあえず、突然何の連絡もなく押しかけておきながら、夕飯をご馳走になるなどありえない。そう言おうと思って緑間は口を開いたが―

「あと、こっちは緑間祭。僕の幼なじみなんだ。じゃあ、そういうことだから。いってきます」

「いや、そういうことだから、じゃねえだろ!」

 というか、頼むから自己紹介くらいさせてくれ。

(…あれ)

 そこで緑間は、変な違和感に気がつく。

(てか、静のばあさん、視えてんのか?)

「最近の若い子は元気が良いねえ。もう体の具合はいいのかい、祭くん」

 どうやらしっかり視えているようだった。どうにも自分の周りには、妙に霊感の強い人が多いらしい。

「あ、はい…ありがとうございました」

「いいんよ、お礼なんて。困った時はお互い様やからね。積もる話もあるだろうけれど、とりあえず今は行っておいで」

 赤崎の祖母がにっこりと微笑む。ほら、行くよ。と赤崎に手を引かれた。

 このまま流されるのは、非常にまずいと緑間は思った。

「いや、でも、これ以上迷惑をかけるわけには」

「袖振り合うも多生の縁」

 老人は言った。袖振り合うも多生の縁。袖が触れ合うようなちょっとしたことも、前世からの深い因縁によって起こるものだ―ということわざである。緑間がこれを聞くのは二度目だ。

 一度目は赤崎が言った。

「迷惑だなんて思わんよ。静くんの大切な人なら、尚更。祭くんは少し…気を張りすぎかもしれないね。力みすぎるのはよくないんよ。それとも―祭くんの周りには、肩の力を抜くことを、許してくれない人でもおるんかい」

 緑間は目を見開く。まさか初対面(といっても遜色ない)の人物にそんなことを言われるとは、思っていなかった。

(さすが、こいつと同じ血が流れてるだけある)

 妙に聡い。

 緑間は、しっかりと首を横に振る。すると、満足げに赤崎の祖母は頷いて、緑間の頭を優しく撫でた。とても自然な動作だった。

 そのあたたかさを、自分は一生忘れないだろう。確かにこの時、緑間はそう思った。

「美味しいもの、たくさん作って待っとるからね。なるたけ遅くならんように、帰ってくるんよ。いってらっしゃい」

 不覚にも涙が出てしまいそうで、緑間は俯いたままこくんと頷いた。

「…いってきます」




 赤崎に付き合ってと言われて連れて行かれたところは、藤黄家から大分離れた海―そう、海だった。いい具合に沈みかかっている太陽は、綺麗にその海を夕暮れ色に染め上げている。写真を撮って、携帯の待ち受けにしたくらいには綺麗だった。

 今はちょうど十七時を少し過ぎた頃で、ビーチと呼べるほど広い砂浜ではなかったが、意外にも人は誰もいなかった。この時間ならば、まだ子供が遊んでいてもおかしくはないのだが、強いて言うならかもめが数羽、そして更に言えば並みに打ち上げられたであろう貝がたくさん。

 空と海との境界線が識別できないほど同調しているオレンジ色を見つめて、赤崎が言った。

「ここさ、ずっと昔…僕がまだ全然小さかった頃に、一回だけ母さんに連れてきてもらったことがあるんだ」

「…そうなのか?」

「ちょうど今くらい陽が沈んでいて、僕はまだ小さかったから綺麗とかそういうの…よく、わからなかったんだけど」

 今はちゃんとわかるよ。この景色の素晴らしさが。赤崎がそう続ける。

 態度には出さなかったものの、緑間は若干どころでなくかなり驚いていた。あの赤崎の口から、母親との思い出などというありえないものが飛び出してきたからだ。

 赤崎が自分から母親の話を持ち出すなど、八年前から一度もなかったというのに、一体どういう心境の変化なのだろう。

 赤崎がくすくすと笑った。

「そんな、鳩が豆鉄砲食らったような顔するなよ」

 どうやら思い切り顔に出ていたらしい。

「ああ、いや、その…悪い」

「そんなにびっくりすること?」

 そんなに、と赤崎が言うということは、本当に自分は驚いた顔をしていたんだなと緑間は思った。ポーカーフェイスを出来ない自分に、思わず溜息をつく。

 どう答えようか緑間は迷って、誤魔化そうかとも思ったが結局やめた。嘘なんてつくだけ無駄だ。

「まあ…そりゃあな。びっくりするだろうよ。てか、俺じゃなくてもびっくりしたって」

「それもそっか」

 どこか意味深に微笑んで、ゆっくりと赤崎が砂浜を歩く。もちろん足跡はつかない。残らない。

「祭が寝ている間に話をしたんだけど、おばあちゃんが明日…母さんに会わせてくれるって」

「そう…か。随分あっさりしてんだな」

 赤崎は何も言わなかった。

「…多分明日、祭は真実を知って…すごく、動揺すると思う」

「俺が、か?」

 変な言い方だった。緑間だけが動揺するという風に捉えることのできる言い回しを、純粋に不思議に思う。

 仮に真実を知ることになったとして、その時動揺するのはおそらく緑間だけではないはずだ。むしろ緑間は第三者である。動揺するというなら、それは緑間ではなく、赤崎の方であるはずだ。

 赤崎が、波に打ち上げられた小さな石を拾おうとして身をかがめる。が、もちろん彼にその石が拾えるはずもなく、石は容易く赤崎の手をすり抜けた。

「だから覚悟しておいて。そしてできれば、その時はちゃんと、僕の傍にいてほしい」

 赤崎がかがめていた体を起こし、緑間に背を向けたままそう言った。

 なんと言ったらいいかわからなくて、緑間は何度も口を開けては閉ざすを繰り返す。きゅっと下唇を引き結んだ。

 この幼なじみは、どうにも時折こちらの急所を抉ってくる―そう、思いながら。

「…バーカ。俺は、お前から離れられないんだっつうの」

「はは、祭らしいや」

 ありがとう、と赤崎が言った。振り返った赤崎はとても綺麗に微笑んでいて、その微笑があまりに儚げで消えてしまいそうだったものだから、緑間は咄嗟に赤崎の腕を掴んだ。掴めた。

 まだ、掴める。

 やはりあの時、赤崎の手がすり抜けたのは、ただの錯覚だったのかもしれない。だって今、ちゃんと触れているのだから。

 ―錯覚だと信じたい。

「なに?」

「あ…いや、なんでも」

 突然腕を掴まれたことを怪訝に思った赤崎が、首を傾げる。自分でも本当に無意識だったし、特に意味という意味はなかったので、緑間はそのまま手を離した―離してしまった。

 この日のことを、いつか後悔するとも知らずに。

「変な祭」

「うっせえよ」

 確かに自分の行動は変と言われるに十分足りていたが、赤崎に言われると何故だか癪に触って、緑間はふいっとそっぽを向く。

「…あのさ、祭。お願いがある。聞いてくれるかい」

 そんな緑間を赤崎が笑って、そうしたら神妙な様子でそう切り出された。そっぽを向いていた緑間が視線を元に戻すと、赤崎とばっちり目が合った。真っ赤な夕暮れも相まって、赤崎の目はとても綺麗な赤色をしていた。

「いいぜ。俺に出来ることなら、聞いてやらんこともない」

(なあ、静)

 願いが。死んで尚、お前に願いがあるというなら。そして、それを叶える資格が、俺にあるというのなら。

(聞いてやるよ、いくらでも)

 十個だろうと二十個だろうと。

 百個だろうと千個だろうと。

 赤崎は言った。

 聞いてほしいというお願いを。

「泣かないでほしいんだ」

 それはお願いというより―

 切実な、懇願であったように思う。

「できれば、さよならも言わないでほしい」

 それがいつ・・のことを指しているのか、緑間には嫌でもわかってしまう。

「最後は笑って…見送ってくれるかい」

 まるで、恋人同士が別れる時の予行練習をしているみたいだと緑間はそう思った。

 だが、赤崎は勿論恋人などではなく、ただの幼なじみである。バカな幼なじみを庇って死んだ、バカな幼なじみの幼なじみだ。

 バカな幼なじみは、ここで一つ嘘をついた。

 どうせすぐにバレてしまうような、薄っぺらい嘘を。

「当たり前だろ」

(それでも、)

 たとえそれが、今は嘘であったとしても。

「泣かねえよ。最後は必ず、笑っててめえを見送ってやる。だから、」

 今日ついた嘘が本当になるよう、これから残り少ない時間をかけて、俺はお前を思い出に出来るように頑張るから。

 だから、

「…その時までは、せめて俺の、一番近くにいてくれよ」

 赤崎が目を見開く。

 それから、くしゃりと顔を歪ませて泣きそうな顔で笑った。

「だから僕は、祭から離れられないんだって」

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