第29話 執事さんの暴走
私を抱きかかえたまま、セルジュさんはずんずんと大股で歩く。
そのリズムに合わせて私の身体も上下に揺れ、不本意ながらもしがみつく格好になってしまった。
以前お姫様抱っこで運ばれた時は、もっと安定感あったような? もしかして私太った? などと考えていると、斜め上から声が振ってきた。
「申し訳ありません、お嬢様。少し気が急いておりまして、落ちないようもっとしっかりとしがみついてください」
少し早口のその言葉に思わず見上げると、いつも穏やかな表情のセルジュさんが少し険しい表情をしている。眉根をきゅっと寄せているその表情は、いつものセルジュさんらしくない。
あぁ……せっかく滑らかな綺麗な肌をしてるのに……シワが痕に残っちゃうよ! 勿体無い! そんなことをぼんやり考えていたら、背中に回されていた腕がスッとずれた。
「あわわわわ!」
グッとおなかに力を入れて、落とされないようにしがみつく。
セルジュさんはずらした左手で指紋認証のドアを開けると、再び大股で歩き出した。するとまた身体が上下に揺れ出した。
もしかして前はあたしを気遣って歩いてくれてた? そう考えるとこの勢いはなんだろう。急いでいるなら下ろしてくれたらいいと思うんだけど、どうもそんなつもりはないらしいし……。
何だろう、この余裕の無さは……うん? 余裕が無い? セルジュさんが?
そうこうしてる内にマンションの部屋のドアに辿り着いた。
来る! また背中が無防備になる……!
過去の学習から、またおなかに力を入れてぎゅっとセルジュさんの首にしがみつくと、その様子に気付いたセルジュさんがこっちを向いた。
「可愛らしいですね」
青い瞳がとろけるように優しい色を帯び、弧を描くと熱のこもった声が耳のすぐ近くで響いて、私の胸はしびれるような感覚に陥った。
私は今、きっとぽかんと口を開けて、まぬけな表情をしていると思う。
「村井さん、ドアを」
一転していつもの冷静な口調で、後方の村井さんに声をかけると、いつの間に開錠したのだろう。重厚なドアは村井さんの手で、簡単に開けられた。
「おかえりなさいませ。まぁ! 一体どうなさったのですか? お嬢様お加減でも……」
アリーさんの落ち着いた声が、私を見て焦ったような早口に変わったけど、それ以上に早口でまくし立てるセルジュさんの言葉に遮られた。
え? 何語? 英語じゃないのはさすがに分かるけど……いや、英語だとしても早口すぎて単語すら拾えないけどさ!
セルジュさんの言葉に、アリーさんは膝を折って優雅にお辞儀をすると、身を引いてセルジュさんをやり過ごした。その後は素早かった――。くるりと方向転換すると、私には分からない言葉でケリーさんやモリーさんに指示を出した。――ように見えた。なにしろ、何を言っているのかがわからないから、見たまま想像するしかできないんだけど……。
「どうしたの? 何?」
何かが起こる――そんな思いが浮かび、ざわざわと胸が騒いだ。
* * *
それがどうしてこんな事になってるんだろうね?
「あの、セルジュさん?」
窓から差し込むオレンジ色の夕焼けに、セルジュさんの青い瞳が不思議な色に変わっている。
早朝にセルジュさんにとっ捕まってからこれまで、とにかく慌しくてちゃんとセルジュさんと話すことも出来ずにいた。
セルジュさんが私の問いかけに、低い仕切りの向こうからゆっくりとこちらを向いた。それを確認して気持ちが焦って、ほんの少し腰を浮かせると、セルジュさんは形の良い唇に指を立てる。それを見て私はそのまま座っていた席に座ってしまった。
「お嬢様、間もなく離陸ですからどうぞお座りください」
だからさ、離陸って何で!?
あれからは本当に慌しかった。私じゃない。周りがだ。
セルジュさんに連れてこられたのは、私の部屋。カウチソファーにそっと下ろされると、肝心のセルジュさんは「ではお嬢様。後ほど」とだけ告げると、さっさと退室してしまった。
さっきジムで「全てを教えて差し上げます」そう言わなかったっけ? 不思議に思っていると、ノックの後入って来たのはケリーさんだった。
「お嬢様、今日はとても良いお天気ですから、少し遠出なさいませんか?」
突然の申し出に、私が二つ返事で頷いたのも当然だ。
セルジュさんのあの妖しい台詞に、心が翻弄されていたんだもの。それは仕方ないと思う。捕まったと諦め半分だったけど、あっさりと解放された今がチャンスだとすごく安易な考えだった。
きっとケリーさんはとてもお洒落なんだと思う。私の手持ちに較べたら広すぎるウォークインクローゼットから、あれこれ服を出しては組み合わせていく。
大きすぎると困っていたキングサイズのベットの上は、あっという間に色とりどりのカラフルな服でいっぱいになった。中には私の知らない服もある。いつの間に! でもそれらの服も、私の好きな気持が明るくなるような、ビタミンカラーの服だった。今までと違うのは、そのビタミンカラーのカットソーやTシャツをいつもジーンズに合わせるだけだったのが、初めて見るそれらがワンピースだったり手触りの柔らかそうな素材のスカートなことだ。
ケリーさんはそれらも含めて、ああでも無いこうでも無いとぶつぶついいながら、何種類かの組み合わせを完成させると、手早く畳み巾着袋に入れるといつの間にか横に広げていたキャリーケースに押し込み始めた。
「えっ? 遠出って、もしかして泊まりですか?」
「勿論でございます。お泊りだからこそ、遠出と申し上げたのですわ」
――なるほど。一理ある。
あまりの説得力に、思わず頷いてしまった。
「でも、そんなに必要ですか?」
「勿論でございます。天候や訪問場所によっては、服装もかなり変わりますわ」
――ごもっとも。
これまた説得力があって、私はまた深く頷いた。
「……どこに行くんですか?」
カチャン!
高い金属音をさせて、キャリーケースが閉じられる。そうして立ち上がると腰に手を当てて私に向き合った。
「さぁお嬢様。お喋りしている時間はもうありませんわ。お嬢様ご自身も、お出掛けの準備を致しませんと。まずはシャワーを浴びてくださいませ」
ケリーさんはそう言うと、ぐいぐいと私を浴室に押し込んで、ふかふかの分厚い、けれども軽いバスローブを押し付けた。
何がなんだか分からないけれど、確かに遠出なら着替える前にサッパリしたいと思ってたから、言われるままにシャワーを浴びることにしたんだけど……。浴室から出たあたしを待っていたのは、やっぱり腰に手を当てたケリーさんだった。
そのまま手を引かれ、カウチソファーまで来ると姿見の前に見慣れぬ物が置かれている
ばっちりコーディネートされた服を着ているトルソーだ。
「ではお嬢様、こちらにお着替えください」
「は、はい。あの……もしかして、セルジュさんが企画しているお出掛けですか?」
その問いかけに、ケリーさんはふふふっと微笑むだけだった。でも、その目はキラキラと輝き好奇心を押さえきれずにいる。その様子だけでやっぱり首謀者はセルジュさんだと分かった。初めはケリーさんと街へお出掛け感覚で頷いたんだけど、そのためにケリーさんがここまで準備するのもおかしいもんね。
しかも泊まり……先ほどのセルジュさんの言葉が再び甦る。
そうだよね……あの様子じゃ、すぐに解放なんてされないよねぇ……いや、泊まりは以前もあるし、全てを教えてって……いや、ない。それはさすがにないはず。
きっとどこかに美味しいランチを食べに行って、どこかに泊まるんだ。私も体力が戻ったし、このところセルジュさんもずっと忙しそうにしてたもん。きっとお休みが取れたから観光に行くんだな。うん、きっとそうだ。まぁ、どこに?って話だけども。
そんな私の考えは簡単に打ち砕かれた。
ランチ? 行きましたよ。なぜか空港近くのオサレなイタリアンにね。
食後のコーヒー? しましたよ。なぜか空港の中でね。
VIPラウンジって言うの!? 初めて入ったよぉぉぉぉ!
ここまで来るとさすがにオカシイと思う。遠出は飛行機を使う気なんだ!
「セルジュさん……一体どこへ……」
「今回はドイツを経由することになりました。突然のことでしたので、コンコルドをご用意できず申し訳ありません。ですが本格的に雪の季節になる前に、お嬢様と共に里帰りできるなんて嬉しいですね」
「はっ? ど、どどいつ?」
「お嬢様。どどいつではありませんよ。ドイツです」
「里帰りってことは! ルヴィ――! むが!」
大きな手は、私の開きかけた口をあっという間に塞ぎ、鼻まで覆われて息苦しさに言葉を止めた。
「大きな声で言ってはいけませんよ。わたくしは今、国では微妙な立場なのですから」
そういったセルジュさんの瞳は暗く、私は一気に申し訳なさで胸が詰まる思いがした。
そうだった……。セルジュさんは私の前では、いつも笑顔だったから、その辺りのことを忘れそうになってしまう。
「ご、ごめんなさい」
「いいえ。あ、搭乗手続きが始まりましたね。参りましょうか」
そうして、今に至るのだ。
まさか、遠出が日本との時差が八時間ある場所だなんて、一体誰が思うだろう――。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます