第23話 執事さんのお引越し
気がついたら、朝だった。
なんだろう。
足が痺れて、腕がダルい。
でもあったかい~その心地よさに、もう少し浸っていたいな。
まだまだ寝ぼけた状態で、すりすりとそのぬくもりに擦り寄った瞬間。
頭の上から、笑いを含んだ声が落ちてきた。
「ふふっ。くすぐったいですよ」
その声に、私一気に目が覚めた。
恐る恐る目の前の擦り寄った物体を見ると、それはカジュアルだけれどもとてつもなく肌触りの良い、趣味の良い淡いブルーのニットで。
更にギギギと音がするほどにぎこちなく顔を上げれば、その先で私に向かって微笑む明るいブルーの瞳にぶつかった。
「ななななな、なんで!?」
慌てて身体を起こそうとするも、無理な体勢でいたのだろう。足の感覚がなく、すぐにバランスを崩してしまった。
バランスを崩した身体は、元居た場所……すなわち、セルジュさんの腕の中に戻ってしまう。
「お嬢様は甘えん坊さんですねぇ」
ち、ちがーーーう!!
「足! 足が動かないよ!」
そう必死にアピールするも、新たに背中に回された腕を解こうともせずに、セルジュさんは「そうでしょうねぇ」などとさらりと受け流す。
なぜ!? そもそも、なぜこんな体勢に!?
視線を周囲に走らせると、ここは私の部屋。そこから見える景色によると、ベッドの上に並んで座り、その状態でセルジュさんに身体を預けて眠ってしまったみたいだ。
今更ながら、ベッドの上ということで、羞恥心が私を襲う。
なんで? なんでこんな展開に!?
「もしや、昨晩のことを覚えてらっしゃらないのですか?」
「セルジュさんがおねーちゃん達連れて帰ってきたのは覚えてますーー! ていうか、あの! とりあえずこの体勢がかなり恥ずかしいですーー!」
そう。なんでか、の前に、冷静に考えるためにもまずこの体勢をどうにかしたいのだ。
横座りの状態で、上体をセルジュさんに預けていたため、下になっていた足の感覚がすっかりなくなっている。その上、無理な体勢で長時間いたためか、腰にも違和感がある。恥ずかしいのに、1人ではどうにも起き上がれないのだ。
「仕方ないですねぇ」
渋々、といった具合にセルジュさんが腕を解くと、私の上半身をゆっくりと寝かせ、長いこと下敷きになっていた左足をゆっくりマッサージしてくれた。
「うう……すみません……」
「いいえ。こうして、お嬢様にまた触れられて嬉しいのですから……。どうか、お気になさらずに。むしろ、お嬢様もそう思ってくださっていたら嬉しいのですが」
大きな手で、強すぎず弱すぎず、丁寧にふくらはぎをほぐしてゆきながらも、視線は私に向けられた。
「うん……。私も、会いたかったです」
なぜだろう。その時は、すんなり言葉に出せたんだ。自分でもびっくりするくらいに自然と出た言葉に、言ってから恥ずかしくなって、視線を天井に移してしまった。だから、セルジュさんが珍しく頬を赤く染めた事を、私は全然知らなかったんだ。
* * *
その日は朝から大賑わいだった。
昨日まで3人で座っていたダイニングテーブルに、一気にもう3人加わったんだもの。
食べ盛りの悠馬はパパと離れて暮らすということを、意外な程にすんなり受け入れたのか、悲壮感なんてどこへやら。朝からものすごい食欲を見せていた。
ママはこの日パートをお休みすることにしたらしい。シフト変更を既に済ませていたんだから手際が良い。それもこれも、悠馬のためだ。
今まで
これから、悠馬の転校先に決まった学校に通う子がいるご近所さんへ、挨拶に行くのだと張り切っていた。
お姉ちゃんは少し疲れたように見えるけれども、それでも憑き物が落ちたように、すっきりした表情だった。
なんでも、お義兄さんはかなり前から浮気していたのだという。お姉ちゃんはそれを我慢していたんだけど、悠馬が本当に自分の息子なのか、DNA鑑定に出されていたことで、離婚を決意したのだそうだ。
慰謝料や、会社の社長辞任騒動、株主への説明等で一ヶ月かかったそうで、セルジュさんはそれにずっと付き添っていたのだと言っていた。
そんな話を一通り聞くと、私は寂しかったとか何とか言って、抱きついて泣き出したそうで……。泣き止んだと思ったら、眠ってしまってて、セルジュさんは一晩中、眠ってる私を抱きしめながら慰めていてくれたのだそうで……。あの! ていうか!! それを聞かされた時は、ほんとに顔から火が出るかと思ったよ! 寝ちゃってたら、慰められても聞こえないし! だ、抱きしめるとか……放っておいてくれて良かったのにーーー! そう言ったら、「放っておくなど、出来ません」と言われて、またまた顔に熱を持ったのだった。
「どうしたの、みはる…ニヤニヤしたり真顔になったり……熱でもある? ちょっと顔赤いわよ?」
「あっ! 赤くないよ! それに、ニヤニヤなんてしてないもん!」
「そう~? 怪しいな~。なんせ昨日は彼を離さなくってねぇ……」
「わぁぁぁぁぁぁ!! お、おねーちゃん! 今日は何するの?」
意味ありげに声色を変えたお姉ちゃんに、私は慌てて話題を変えた。
「今日? 転居届とか、色々あるのよ。それに、家具を見に行ってくるわ。来週には悠馬の登校も始まるし、急いで整えなきゃね。みはるには悪いけど、今日も一日セルジュさんを借りるわね」
慰謝料がっぽりだから、ぜぇーんぶ買い揃えてやる! そう力強く宣言したお姉ちゃんは逞しい。
「でもさぁ、お姉ちゃん、セルジュさんの買い物には気をつけてね。セルジュさん、部屋に納まらないとか考えないでドでかい家具買おうとするからさー。止めてね」
セルジュさんがウチに来たばかりの頃、キングサイズのベッドを買おうとしたことを思い出した。一緒に買い物に行くお姉ちゃんに教えとかなきゃ、大変なことになるかも。
なのにお姉ちゃんは不思議そうに首を傾げた。
「セルジュさん? なんで? 私、家具は自分で選ぶわよ?」
「お姉ちゃんのじゃなくって、セルジュさん本人のだよー。」
「え?セルジュさんのを、なんで買うのよ。彼はまた東京に戻るんでしょう?」
「え……?」
な、なんですとーーーーー!!!
「だってみはる。ウチじゃ部屋数無いのよ? 一階の和室ってわけにも……それに……」
「お嬢様……わたくしは向こうに仕事がありますから、みさきさんが落ち着いたらまた東京に行かなければなりません。昨夜申し上げたのですが……覚えてらっしゃらないのですね」
おおおおお、覚えてません!
心がまたどんどん沈んでいくのが分かった。今はこの空間から逃げたくて、出勤時間にはまだ早いのに、「お、遅れちゃいそうだから、行くね」と家を出た。
家から離れたら少しでも楽になるかと思って、いつも以上に元気に挨拶しながら出勤した私を、まゆさんはなんだかビックリしたように見ていた。
「みはるちゃん? あの、もうだいぶ元気になったのかしら?」
「へ? ハイ、勿論!」
それは嘘で、ただの強がりだったけどまゆさんは気付かなかったらしい。
そんな私に、この日2回目の爆弾が落とされた。
「良かったぁ! 今までみはるちゃん、心ここにあらずって感じで言えなかったの。でももう、ギリギリだから、今日話せるのは本当に良かったぁ!」
「え? ど、どうしたんですか? まゆさん……そういえば、ちょっと顔色悪いですよ? 心なしかやつれてるような気も……あ!! もしかして!!」
「当たり!! 妊娠! しちゃいました~~!」
「きゃーー! まゆさん、おめでとう~~! もう! そんなおめでたい話なら、すぐにして欲しかったよ! お祝いしなきゃー!」
無理にはしゃぐ私を尻目に、まゆさんは一気にテンションが下がったようだった。
「え、えと?まゆさん?」
「あのね……それで……お店、閉めようと思うの。夫から、子育てが落ち着いたら本格的に実家の仕事を手伝って欲しいって言われててね。だからそのみはるちゃんのこともね、もう……雇って……いられないの」
まゆさんのご主人は、地元の大きな画材屋さんの専務で跡取り息子だ。まゆさんに甘いご主人が、この雑貨店を始めるのを後押ししてくれたが、それには条件があった。
代替わりして自分が社長となる時には、家の仕事に専念すること……つまり、この雑貨店は期間限定のものだったのだ。
勿論、期間限定とは言っても具体的な期日があったわけではない。でも、今回のまゆさんの妊娠で、その話が出たらしいのだ。
「そ、そうなんですか~……じゃあ、皆も?」
私のほかにも、4人バイトの子がいる。皆、地元の美術大学の学生か、卒業生だ。
「う~ん……それがね……実は、田口くんが油絵で大きな賞を取ってね。彼は制作活動もなんだけど、いずれ絵画教室をやりたいって考えてたみたいなのね」
田口くんは、美術大学の卒業生で、このお店一番の古株だ。確か26歳なんだけど、長めの髪を軽く結んだいかにも芸術家っぽい風貌の彼は、とても穏やかな人で、実は隠れファンが多い。
「じゃあ、ここは田口くんの絵画教室に?」
「そうなのー。ウチもほら、画材屋じゃない? 家賃をウチが少し出して、ウチの画材を教室の隅で売ってもらう予定なの。田口くんのアシスタントで阪木さんは残って……えっと、ごめん!!」
他の2人は専攻が違うから、お店を去るのだろう。
まったく。どうやらあたしが腑抜けだったこの1ヶ月で話はどんどん進んでいたらしい。
目の前で、手を合わせて謝るまゆさんは、言いたかったのに、私が聞ける状況じゃないのを知ってて言えなかったんだろう。
初めての妊娠で不安もあるだろうに、ここまで気を使わせて、なんだか悪いことしちゃったな。
「ううん! 大丈夫だよ! まゆさんはさ、赤ちゃんのことだけ考えて?」
ね?と、笑顔で言ったものの……やばい。む、無職だ……。この先、一体どうしよう? 勿論、この日の仕事も心ここにあらず状態になってしまったのは、仕方のないことだと思う。
セルジュさんは、また私から離れて行っちゃう。
しかも私、無職になっちゃうし。
セルジュさんがいることってそんなに重要?
だって、ちょっと前までは私の生活には関わりが無かったんだよ?
そう、だってこれからはお姉ちゃんと悠馬が居るし!
あぁぁ…でもなんだろう、この喪失感。
あれだ。無職になるからだ。セルジュさん、東京で仕事があるって言ってけど、仕事ってなんだろう? もしかして、モデル事務所の新しい社長ってセルジュさんなのかな?
確かに就職して欲しいとは言ったけど、そう話した本人は無職になって、セルジュさんはいきなり社長だなんて!
そんなことを考えながら自転車に乗っていたら、あっという間に家に着いてしまった。
玄関前には、大きなトラックが横付けされている。
今日買ったお姉ちゃんたちの家具の配達かな? やけに早いけれど、セルジュさんが一緒に行ったはずだし、彼ならそれ位やってのけそうだ。
ピタリと横付けされたトラックの脇をすり抜けるようにして敷地内に入った私を、本日3度目の衝撃が襲った。
「私のベッド!!」
その声に、きらんきらんの金髪が振り返る。
「お嬢様。お帰りなさいませ」
相変わらずの美しい微笑みを浮かべていますが、その手にしている物は私のパソコンですよね?
「それ……は、何?」
「新居はwi-fi完備ですから、今までよりネット環境も良くなりますよ」
すみません。なんだか会話がかみ合っていないようですが気のせいですか?
呆然と立ち尽くす私の横を、ツナギを着たお兄さんたちが掛け声を掛けながらさっさと私の荷物を運び出す。
「え? え? ええええ? な、なんで私の荷物運び出してるの?」
「お引越しだからですよ?」
「それはお姉ちゃんでしょう?」
「悠馬くんもですよ?」
「分かってるよ!」
「お嬢様のお部屋は、悠馬くんのお部屋になりましたので」
「は? え? なに? ま、ママ! これは一体……」
玄関に駆け込んで、ママをとっ捕まえた。
「悠馬もね、もう小学生なんだから、ママと一緒の部屋じゃ恥ずかしいって言うのよ」
「そうかもしれないけど! でもほら、仕事も……」
「あら? まゆさん、お店畳むから無職になるんでしょ?」
うぐ。そ、そうでした……なんで知ってるんだろう。
「だからって……!」
「そしたらセルジュさんが、お任せくださいって言うから。だからママたちみはるのことはセルジュさんにまかせて、これからは孫を構い倒すことにしたの。」
「パパは!?」
「パパは今悠馬を連れて、地元のサッカークラブの練習見学に行ってるわ。言っておくけど……セルジュさんに任せると言い出したのはパパですからね? あなたが一晩中セルジュさんから離れなくて……」
「あわわわわわ! ま、ママ!」
昨夜の話を出されるのはどうにも恥ずかしい。おまけに引越し業者さんがいるのに、そんな話聞かれたら恥ずかしいじゃん!
慌ててママの口を手で塞ぎ、周りを確認すると、既にお兄さんたちは消えていた。そんな私たちに、セルジュさんが後ろから声を掛けてくる。
「ではお嬢様、参りましょうか。」
「ど、どこへ?」
「勿論、わたくし達の新居へでございます」
この時のセルジュさんの笑顔は、この日一番のキラキラを振りまいていた。
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