ダブルの誘惑
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ダブルの誘惑
ジリジリとした思いが結実を目の前にしてためらっていた。まだ乗り越えるべき高い壁があるように思えた。決定的な何かが必要な気がした。真理子はどこそこのブランドのコートが気になるとかそんな話ばかりしている。そこまで着るものに熱心になれることが聡史には理解できなかった。
「ねえ、わたしの話聞いてる? さっきからろくに返事もしないけど」
「……聞いてるよ」
〈ナチュラルビューティーのコートがよさそうという話だろ?〉
聡史は学生の頃入っていた手話サークルで覚えた手話で話した。しかし、真理子には通じず、口で言い直した。真理子の表情が曇った。当て推量が外れたらしい。
「聞いてないじゃない。今はブーツの話してたでしょ。もう……。なんか今日、ずっと上の空なんだけど。何考えてるのよ?」
聡史は真理子をまともに見た。丸顔にショートの髪型、大きな目。常盤貴子に似ていなくもない、美人とも不美人とも言える顔だった。
「うん、ちょっとね。そのうち話すよ」
「え~、なにそれ。わたしに言えないことなの?」
「いや……そんなことはない。でも、今は言えない」
真理子は「なにそれ」と視線を外してつぶやいた。聡史は沈黙を守った。
二人はショッピングモールでの買い物の後、モール内のカフェで休憩しているところだった。カフェは混んでおり、ほぼ満席だった。隣の席には、同世代のカップルがいた。聡史はお互いの指に指輪がはまっていることを目ざとく見つけた。この数日間聡史の胸中を占めていたのはその指輪が象徴すること、つまり結婚だった。真理子とは付き合って一年になろうとしていた。聡史が三五、真理子が三三で年齢的にも結婚するには遅すぎるくらいだった。聡史は今日のデートからも真理子が結婚を望んでいることを痛切に感じた。たとえ言葉に出さなくても、真理子の子どもを見る眼差しが雄弁に語っていた。
聡史はなぜ自分が決められないのかを考えた。真理子への愛に自信がないため。結婚を決めること自体につきもののプレッシャーのため。どちらも当たっていると思えた。しかし、時間は過ぎてゆく。特に真理子にとっては過ぎゆく時間の重みが違う。また、自分が結婚の意志を示さなければ、真理子が離れていくのは間違いない。付き合って一年という節目はプロポーズする好機だ。
「また黙りこんで――」
真理子の非難がましい声に聡史の中で自分を抑えていたストッパーが弾けた。聡史は高い声で言った。
「そういえばさ、俺たち付き合ってもうすぐ一年じゃん。記念日的なイベントやろうよ」
「へぇ~、覚えててくれたんだ。嬉しいかも。やろうよ是非」
「じゃあ、日にちは来週の土曜で。お店は俺に任せてよ」
聡史は大きな一歩を踏み出したことに満足した。聡史はすでに店のみならず、指輪まで決めていた。来週にはゴールインだ。聡史はそう固く決意した。
*
交際一周年記念のデートの前の晩、聡史はなかなか寝付けなかった。明け方予知夢的な夢を見た。聡史は真理子といっしょにいるときひどくナーバスになっていた。会話もぎこちなかった。プロポーズを重荷に感じ始めたとき、幼なじみの洋介に会った。団体で同じ店に来ていた洋介は自分たちの席に移った。邪魔だったが一方で、聡史は洋介が加わったことにほっとした。なぜなら洋介をプロポーズできない言い訳にできると思ったからだ。しかし、なぜか彼はプロポーズしようとしていることを知っていた。洋介はトイレで聡史にプロポーズを止めるように言った。「迷うくらいないやめろ」と洋介。
デートはまたしても先週のショッピングモールに行くことから始まった。真理子が先週買いそびれた買い物するためだった。予約した店Rは関内にあるため、聡史は真理子一人でモールに行って買うように言ったが、結局「試着に付き添いがいると便利だから」という理由で聡史も付き合うことになった。
真理子はA.P.C.でキャメルのブーツを購入する予定だった。聡史は真理子の荷物持ちをしながら、真理子の浪費ぶりに一抹の不安を抱きつつ、A.P.C.の店内を見て回った。A.P.C.は他の服屋と同様に四方八方に鏡があり、容易にスタイルを確認できた。聡史は今日のために気合を入れてきた服装をチェックした。臙脂のコーデュロイジャケット、タイトな白のボタンシャツ、黒のコットンパンツ、レザーのサイドゴアブーツ。悪くないコーディネートとだと思っていた。一瞬、鏡の中の自分が勝手に手を上げた気がした。その内に自分を指さして笑い出した。驚いた聡史は近づいて鏡の中を覗き込んでいると、「何してるのよ?」という真理子の声がした。
真理子が買い物を終えた頃には、移動時間を考えるとRに向かうべき時間になっていた。二人はモールからRに移動するためにみなとみらいの駅に向かった。聡史はこめかみに汗が滲んでいることに気づいた。聡史は一昨日購入した法外な額の婚約指輪をジャケットのポケットに忍ばせていたが、ポケットの中で指先に触れる起毛素材の小箱がお守りのように思えた。これは翼だ。聡史は思った。これで結婚という新しいステージへと飛翔するのだ。真理子を愛し続けられるかどうかはわからない。しかし、これがラストチャンスだろう。であれば、ここで決めるしかない。そう言い聞かせた。
聡史が真理子よりも先に地下鉄の駅のホームに着いたが、そのときちょうど電車がホームに入ってきた。聡史は乗客が出払った後、電車内でドアの側に立っている女に目を奪われた。由香里! 聡史は彼女に吸い寄せられるように車内へと歩を進めた。「先に行かないで!」という真理子の声が背中に突き刺さったが、聡史が車内に入ると同時にプシューという音とともにドアが閉まった。
女の表情には驚きの色が浮かんでいた。似ているが由香里ではなかった。
「こんにちは。これからどちらへ?」
「……映画でも見に行こうかと」
「映画ですか。いいですね。でも、映画は今度にして、僕とお茶しませんか?」
女は笑い出した。
「電車でナンパですか? あり得ない!」
「ナンパといえば、ナンパですが……。あなたとの出会いに特別なものを感じたのです」
「……ふ~ん。まあ、いいですよ。で、どこに行きましょうか?」
聡史は真理子と行く予定だったRに来た。Rは古い建物の地下にあるちょっとした隠れ家的な多国籍ダイニングバーだった。店の前のインターホンで名前を告げると、物々しい雰囲気の観音開きの扉が開き、薄暗い店内に案内された。
コロナビールで乾杯した。彼女は名前を理香子と言った。黒髪と白い肌、広い額。整った顔立ちでありながら、親しみやすさがあった。リブタートルのニットを押し上げている胸もCカップはありそうだった。
聡史はものの五分で打ち解けられた気がした。まるで以前から知り合いだったかのように、会話も沈黙も心地よかった。
「そういえば、聡史さんは今日どこに行く予定だったんですか? すごくお洒落しているように見えますが」
「……イベントに行く予定だった。たぶん人生で一度きりのね」
「えっ、何ですか? イベントって」
「……外人アーティストのライブだよ。たぶん今回が最後の来日になる」
「そんな大切なイベントに行かなくてよかったんですか?」
「よかった、と思う。わからないけど。人は同時に複数の場所を占めることができない。だからどちらがよかったかはわからない。俺は直感に従ったまでだ」
「……実はわたし、つい最近彼氏と別れたんですね。もし彼氏がいたら、聡史さんについて行くことはありませんでした。もっとも今日一人で映画を見に行くこともなかったでしょうが。とにかく、聡史さんに声をかけられて今ここにいることに驚いています」
「俺は正直言うと、理香子さんが昔好きだった人に似てたんだ。よく見たらそうでもないけど。電車で見たときは本人かと思ったよ」
「へぇ~。そうだったんですね。その人とは付き合ったんですか?」
「いや。残念ながら……」
聡史は苦い思い出を思い出した。三年以上も昔のことなのに、未だに由香里のことを考えると息苦しくなることに驚いた。結局、自分が好きになったのは由香里だということを思い知らされるようだ。たぶんきっかけさえあれば恋愛できた。なぜ一歩が踏み出せなかったのか? 職場恋愛になるからかもしれない。しかし、気持ちがあれば、その気持ちに従わないのは馬鹿だ。また気持ちがないのに、付き合うのも馬鹿だ。真理子は嫌いではないが、由香里と比べてしまう。
「でも、理香子さんは理香子さんですよ。今言ったことはきっかけにすぎません。僕は理香子さんがその人の代わりとか思いませんから」
聡史は自分に言い聞かせるつもりで言った。
「当たり前です」
理香子はむっとした表情をみせたが、そのあと笑顔に変わったので、聡史は安堵した。
*
聡史は予定通り真理子とRに来たが、迷いはますます強くなり、気持ちはプロポーズをしない方向に傾いていた。自分は電車に乗ったのではなかったのか、と聡史は思うのだった。確かに自分は電車に向かって歩を進めたし、ギリギリ電車に間に合ったように思えた。それにあの女は由香里だったのではないのだろうか? あのとき電車に乗っていれば……。そうすることは真理子への裏切りになる。しかし、それをやろうとした自分がいる。聡史はもはやプロポーズとは逆の別れ話を切り出すべきではないか、とも思った。
「なかなか雰囲気のある店ね」
真理子はデコルテが大きく開いたラメ入りのベージュのニットを着ていた。真理子も今日のためにお洒落をしてきていた。あるいは、プロポーズの可能性に気づいているのかもしれない。しかし、夫婦になるにはこれでよいのか? 何かが決定的に欠けているのではないか? そう、以前由香里に対して抱いたような強い思いが欠けている。
テーブルはフロアの隅にあり、フロアの壁に巨大な鏡がついていた。聡史はその鏡に対して、真理子を挟んで向かい合う形で座っていた。鏡には後ろのテーブルが映っていたが、今そのテーブルにカップルが座った。聡史はその鏡に映り込んだカップルを見て目を疑った。自分だった。女の方は後ろ姿しか見えなかったが、おそらくはみなとみらいの駅で出逢った女だった。
聡史はすばやく後ろを振り返ったが、テーブルには誰もいなかった。しかし、鏡には二人が映っていた。
「どうかした? 落ち着かないようだけど」
真理子が怪訝な顔で言った。
「……どうもこういう雰囲気のある店に慣れなくて」
聡史は直感的に自分が見ていることを言わない方がよい気がした。
「そうね。でもたまにはいいんじゃない」
聡史はそれからビールを飲んだりしながら、チラチラと鏡の中の二人を見ていた。真理子は正月に予定している台湾旅行の話をした。真理子はネットでいろいろ調べていて、すでに旅費も含めた金額まで計算していた。聡史は真理子の熱心さに気後れしながらも、頼もしいと感じた。そうだ。これだ、と聡史は思った。自分が真理子といて心地よいのは真理子がいろいろと積極的だからだ。真理子と出会う前までは、海外旅行など行こうとしたこともないし、休日もゲーム以外にやることがなかった。真理子は俺にとってエンジンのような存在かもしれない。もはやセックスには熱心になれなくなったが、落ち着ける相手だ。これ以上何を望めるだろう? ああ、なぜ神様はさっき由香里と引き合わせたのか? あのニアミスさえなければ、俺は今頃プロポーズに向かって、徐々に気持ちを盛り上げていただろうに。
聡史は鏡の中の二人が気になって仕方がなかった。鏡の中の自分の挙動をひりつくような嫉妬の念とともに見守っていた。真理子との会話が途切れ、話題を探しているとき、向こうの自分と目が合った。彼は意味ありげな笑みを浮かべると顎を動かして合図を送った。聡史はその意味するところを直感した。
トイレの鏡に映る自分の鏡像は、どこかが違った。しかし、具体的にどこが違うかを指摘することは難しかった。それは内面的なものに根ざした差異だった。
〈やあ、よろしくやってるか?〉
彼の声が聞こえた。その声は耳朶を媒介せず、脳に直接届いた。
〈見ての通り、俺はあんただ。そんな目で見るなよ。これはあんたが望んだことじゃないか? あんたは俺に嫉妬しているかもしれないが、あんたの思念があるからこそ俺が見えているんだ。だから俺を責めないで欲しい。それから、彼女は由香里じゃない〉
聡史は動揺した。
〈似ているかもしれないが、別人だ。しかし、きっとあんたは由香里じゃなくてもよかったはずだ。あんたは要するに今の状況から逃げたいんだ。あんたには真理子と結婚する勇気がない。愛しているかいないかとか答えの出ない問題でごまかしている。結局、あんたは相手が誰でも結婚できないんだ〉
そう言い終えると、光学的像の口元が歪んだ。聡史は思わず鏡に向かって拳を突き出した。ゴンという鈍い音がして、鏡に蜘蛛の巣状のヒビが入った。右手の痛みに聡史は夢から覚めた気がした。俺が逃げたいだと……。そうかもしれない。だが、もうたくさんだ。俺ももう若くはない。愛だの恋だのに現を抜かすには年を取り過ぎた。これからは安定と再生に照準を合わせて生きるべきだ。聡史はポケットの中の箱を握りしめた。
席に戻ると真理子の姿がなかった。聡史はトイレに立ったのだと思い、真理子を待ったがいっこうに戻って来なかった。不安になった聡史はウエイターに訊いた。
「さきほど店を出られましたよ」
若いウエイターは憐れむような顔で言った。聡史は急いで会計を済ますと、真理子に電話した。しかし、真理子は出なかった。聡史が電車で移動しているときに真理子からメールが来た。
「先に帰ってごめんなさい。わたしたちはやっぱり合わないのかもと思いました。これからのことを話したいです」
聡史は慌ててメールを返した。
「本当にごめん。今日のことは深く反省しています。僕も話したいことがあります」
電車の前の席にはベイスターズのユニフォームに身を包んだ野球観戦の帰りと思われる親子連れがいた。聡史は始めて親子連れが眩しく見えた。
*
――一年後。
聡史は真理子といっしょにショッピングモールにマタニティーグッズなどを買いに来た。聡史は自分の父親としての適性に疑いを抱いていたが、そうなることが確定した今となっては、役目を果たす覚悟を決めていた。
真理子はだいぶふっくらしてきた。一年前のRでの夜の後、真理子には由香里に似た女と出会い気持ちが揺らいだことを話した(鏡の中の自分のことは話さなかった)。真理子はその後、しばらく会ってくれなかったが、聡史は真理子の職場の前で彼女を待ったりして、思いを行動で示した。
五月に婚姻届けを出し、同棲生活を始めた。真理子の妊娠がわかったのは、その一カ月後だった。真理子のことはもう恋人ではなくパートナーという存在になっていた。それは身内という言葉が示すように自分の延長だった。バラバラな個人同士ではなかった。結婚した時点で法的にもそうなるのだが、実感としてそのように感じられるまでになっていた。
聡史はこれでよかったと考えていたが、もしあのとき、電車に乗っていたら、どうなったのだろう、あの日、鏡を通して見た自分は今頃どうしているのか、とときどき考えた。
ある日、聡史が職場から電車で帰宅するとき、新宿駅で止まった電車の隣の車線に別の電車が入ってきた。電車のドアの側に立っていた聡史は隣の電車の中にもう一人の自分を見つけた。彼もドアの側に立っていた。二人が向き合う形になった。彼はスーツの聡史とは対照的に革ジャンにパーカーという服装をしていた。彼は嘲笑ともとれる笑みを浮かべると、座席に座っていた、あのときの由香里に似た女を引き寄せた。彼女は焦点の合わない目をこちらに向けた。彼は彼女の肩を抱いて、勝ち誇ったような笑みを浮かべた。
「お幸せに!」
聡史は二つの動作から成る手話で彼に伝えた。その後すぐに二人は消えた。(了)
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