第29革 寮への招待 4

 夢を見ていた。

 すぐに夢だと分かった。

 もう二度と会えない事をよく理解している人がいたからだ。


 優しい人だった。

「どんなことでも一番を目指せ!」と言う父とは違った。

 少しでもつらそうな素振りを見せると、何も言わなくても抱き留めてくれた。

 俺が彼女の胸の中で泣き疲れると、いつも膝枕をしてくれた。


 俺は、夢だと理解しつつ醒めないで欲しいと願っていた。

 親父の奴の夢はそこそこ見る。

 でも、彼女の、を見るのは、とても久しぶりだった。


 涙で腫らした目で見上げれば、いつだって優しげな微笑みを浮かべていて……でも俺はもうそんな母の顔すらはっきりとは思い出せない。

 事件があってから、祖父母は極力俺と信子に彼女たちの生前の写真を見せないようにしていたからだ。幼い子供だった俺たちにとっては、たぶんそれは必要な儀式だったのだ。思い出してしまうから、いつまでもそこに縛り付けられてしまうから。


「……」


 ――母の夢を見る度、話しかけようとするが声は出ない。

 俺はただ、綺麗な黒髪で優しげに微笑んでいるぼやけた顔の母を見上げいた。


 そんな母が口を動かした。


「……一……」


 分からない。

 良く聞こえないよ母さん。


「総……総一……」


 あぁ、俺の名前を呼んでいるのか。

 なに? 母さん、どうしたの?


 だが俺の問いかけは声にはなっていない。

 そして、世界が段々とその明度を増していき……。



   ∬



「総一……総……くん、総く……総一くん」


 ――誰かに名前を呼ばれた。


「ん……」


 寝ぼけ眼で視界を確認すると、俺の顔をのぞき込む綺麗な黒髪の女性がいた。


「かあ……」


 言いかけて、その黒髪の女性がマリエ副会長だと認識した俺は弓なりに体を跳ね起こそうとする。しかし、マリエ副会長にぐっと肩を押さえつけられてしまった。


「そんなに急ぐ必要はありませんよ、総一くん」


 状況を確認。俺はマリエ副会長に膝枕をしてもらって寝ているらしい。


「す、すみません! 俺、ちょっとだけ横になって待つつもりだったんですけど……」


 狼狽えながら謝る。

 開いた窓から差す光が陰っていて、かなりの時間が経過していることが窺えた。


「構いませんよ、来てくれただけでわたしにとっては僥倖ですから」


 マリエ副会長がそう言って微笑む。

 微笑んだからか、彼女の額から汗が滴り落ちる。

 しずくはゆっくりと首筋を伝い、胸元の膨らみの谷間へとその姿を消した。


「あの……それでマリエ副会長?」

「あら、総一くん……どうぞマリエと、名前で呼んでください。役職名など不要です」

「いや……でもそれは……」


 さすがにまずい。ていうかこの状況はなに……?


「マリエと……」


 静かな圧力を伴う微笑みを向けられ、さきほどから肩に添えられたままのマリエ副会長の手に少しだけ力が込められた気がした。

 この種類の微笑みには見覚えがあった。「要求を受け入れてくれないと絶対に許さないから」っていう微笑みだ。


 仕方なく、俺は彼女の名前を呼ぶことにした。


「マリエさん……」


 でもさすがに呼び捨ては出来ないので、〝さん付け〟する。


「……はぁ、それでいいです」


 少し残念そうにしてため息をつき、悪戯な笑みを浮かべる。

 そして、翡翠色の瞳で俺を見つめている。


「それで、ですね……マリエさん?」


 俺は改めて彼女に質問した。


「なんでしょう? 総一くん」

「なぜ、そのようなお召し物を……?」


 彼女は着物を着ていた。

 濃紺をベースにところどころアクセントのように紅色があしらわれた大人っぽいデザインの着物だ。そして、特筆すべき事に、彼女はそれを大きく着崩して羽織るように纏っていた。


 下から見上げる俺の視界には、否応がなくその豊かな胸元が映し出される。

 たぶん……下着も着けてない。


 長くて艶のあるまっすぐで綺麗な黒髪。

 その髪の先端が俺の顔をのぞき込む度に胸元へと入り込んでちらちらと揺れ動き、より一層扇情的な状況を演出していた。


「似合わないかしら?」


 質問に対して質問を返すマリエさん。


「似合ってます、その、とても……」


 とてもエロい。とは口に出さず、男としては答えるしかない彼女の質問に回答する。


「……お世辞でも嬉しいです、とっても。さぁ……どうぞ」


 マリエさんは俺の肩に添えていた手を、解放してあげますと言わんばかりに離した。


 起き上がって向き合うとマリエさんが話し始めた。


「わたし、総一くんをと言われているんです」


 少し前まで浮かべていた悪戯な笑みは消えていた。

 今朝のように翡翠色の瞳を悲しげに揺らしながら、マリエさんはティーポットへと手を伸ばした。


「モノにしろって……まさか、また石動会長ですか……!?」


 マリエ副会長は石動会長には逆らえない。

 またあの何を考えているのか理解できないとんでも生徒会長が、こんなことを副会長にやらせているのかもしれない。

 怒りがこみ上げてくる。


 けれど、俺の考えとは裏腹にマリエさんはゆっくりと首を横に振って否定した。


「いいえ、彼は今も軟禁状態にあると思いますよ。わたしが命じられたのは、お爺さまから……ロートシルト家からです」

「ロートシルト家から……?」


 話が見えず俺が困惑しているのを察してか、マリエさんは続ける。


「ある日、わたしは、石動新志の婚約者としてまるで生贄のように彼にあてがわれました」


 記憶の糸をたぐり寄せるようにマリエさんは語る。


「我が家は、小さなワイン工房だったんです。フランスの片田舎で葡萄の栽培をしながらワインの自主販売をして慎ましく暮らす……そんな普通の家庭でした」


 マリエさんが「もうだいぶ時間が経っていますが……」と紅茶が注がれたカップを渡してくれる。一口飲む、冷めていたが葡萄の風味のせいかおいしかった。


「……父があのロートシルト家の末席に連なる血筋である……それくらいの事は知っていました。父からは〝自分は勘当された厄介者だ〟と聞かされていたので深く考える事はありませんでした。日本人とのクォーターでとても日本文化が大好きな母、そして優しくも厳しい父と共に、平和で幸せな日々を過ごしていたのです」


 副会長も自分のカップに口を付け、喉が渇いていたのか一気に飲み干すと、小さく音を立ててちゃぶ台にカップを置いた。


「わたしが10歳になって少し経った雪の降る寒い日でした。いくつもの高級車が家の周りを取り囲み、黒いコートの男達がわたし達家族を乱暴に家の前に並ばせました。遅れて到着した車のドアが開かれ……お爺さまがやってきたのです」


 俯くように顔を伏せてしまったのでマリエさんの表情が見えない。


「お爺さまは言いました」


〝お前達の結婚を許そう〟


「その言葉に、怯えるように青ざめた表情を浮かべていた両親の顔は見違えるように明るくなりました。続けてお爺さまは言いました」


〝お前達にはロートシルトの家に戻って貰う〟


「それから……わたしに視線を寄越すと、お爺さまは言いました」


〝だがこの娘は、家の為に使わせて貰おう〟


「お爺さまのその一言に、父は激昂しました。詰め寄った父は、すぐさま周りの男達に取り押さえられました。雪の積もる地に這いつくばる父を見下ろして、お爺さまは言いました」


〝腐ってもロートシルト、悪い扱いはせんよ。日本へ行き日本人と結婚して貰う、それだけの事だ〟


「父はそれでも抵抗しましたが、ついにお爺さまに逆らうことは出来なかった。

 それから3年ほどが過ぎ、わたしが13歳の誕生日を迎えた日……わたしは婚約者として、まるで物のように石動新志に与えられたのです」


 話が一区切り付いたのか、顔を上げたマリエさんが俺を見て力無さげに小さく笑った。


 こんな時、どんな言葉をかけたらいいのだろう。

 余りにも浮世離れした過去を前にして、言葉が見つからなかった。


「そのお爺さまが新たに命じたのです。〝織田総一をものにしろ〟と……」


 マリエさんのその言葉を最後に、しばらく沈黙が部屋を支配する。

 起きたときより更に陰った日差しが夕刻を告げていた。


「――なんで俺なんです? それに……石動会長との話は……その場合どうなるんです?」


 手に持っていたカップをちゃぶ台に戻し、ようやく口から出た言葉は、ただの愚かな問いかけだった。そんな愚かな質問でも、マリエさんは微笑んで答えてくれる。


「わたしも推測でしかお答え出来ませんが……最初から、わたしが石動新志にあてがわれた事も含めて、特区との……革命機構との繋がりが目的だったのでしょう。

 彼は特区一の革命力を有し、そして最も優秀なレヴォルディオンのパイロットだった。それに血筋もまぁ悪くはなかったのでしょうね。だからこそわたしは彼にあてがわれたのです。

 ですが……血筋など関係が無いと言えるほどに、潮目が変わった」


 翡翠色の瞳が真っ直ぐに俺を見ていた。


「総一くんが原因ですよ?」


 楽しそうにマリエさんは笑う。


「俺の革命力が一番高くなったから、ですか……」


 思い当たる節はもちろんあった。

 ロートシルト家が機構との繋がりを求めているならば、より良い繋がりを模索するのは当然かもしれない。より高い革命力を求めて。


「それでわたしはお爺さまに命じられたのです。隙あらば石動新志を捨てて、織田総一に乗り換えろって。ふふ、笑っちゃうでしょう? わたしはあんなにも彼を愛する努力をして、革命力を低下させないように常に意識して生きてきたのに、その努力を全て擲って総一くんに切り替えろと言うのですよ? これを笑わずにいられますか?」


 楽しげに笑うマリエさん。

 でも、そんなの楽しいわけ無いじゃないか。


 自分で選ぶこともできず、ただ家の命令で強制的に男を選ばされて、そいつに媚びなければならないのだ。精神的に、肉体的に。


「そんなの……笑えるわけ無いですよ。マリエさんの意思はどうなるんですか」


 やりきれず呟く。


「――優しいのね総一くん」


 マリエさんも一言だけそう呟くと、素早く俺との距離を詰めてきた。

 ……俺はマリエさんに覆い被さられるように押し倒され、顔を近づけたせいか、ほのかに畳から藺草いぐさの香りがした。


「総一くんはただ優しいだけかもしれない。

 それでも、わたしは嬉しかったのです。あの幼稚なサディスト面した新志よりも、総一くんの方がずっと魅力的よ」


 そう言いながら、マリエさんはそっと俺の唇に自身の唇を重ねる。


「やめてください……!」


 力を込めてマリエさんを引き剥がす。


「こんなの……マリエさんの意思は介在してないのに、こんなのって……」


 いいわけないだろ。正しくないだろ。

 こんなのは……こんなのは俺が求めるモノじゃない。


「心外だなぁ……わたし、本当に好きよ総一くん。嘘じゃないわ。わたしを庇ってくれて、わたしに優しくしてくれて、そんな貴方をわたしは本当に愛してる。お爺さまの命令も果たせて、新志のお人形からも脱却できて、一石三鳥だと感謝するくらいよ」


 ゆっくりと、もう一度唇を重ねようとマリエさんが体を寄せてくる。

 俺は先ほどよりも強い力で拒んだ。

 体を起こし、俺に近寄ろうとするマリエさんと揉み合いになる。


「……なんで!」


 マリエさんが少し大きな声をあげてから、突然に寄ってこようとする力が弱まる。

 余りに力を入れて引き離そうとしていたからか、今度は俺が覆い被さる形でマリエさんを押し倒してしまった。マリエさんの着物がさらにはだけてしまい、肌色がのぞく。


「どうして……? わたしじゃ駄目なのかしら?」


 翡翠色の瞳に涙を浮かべて、金髪から染められているという艶のあるその黒髪を乱雑に畳にぶちまけながら、それでも微笑みだけは崩さないマリエさんが消え入りそうな声で嘆く。


「駄目じゃありませんよ……でも今は嫌です」


 彼女のはだけた着物を軽く整えて胸元を隠すと、俺は体勢を整えた。


「嘘よ……あっ……! もし総一くんがわたしを生娘じゃないと思っているのなら、それは違いますよ!? わたし、新志の命令には従っていたけれど、まだ処女ですから!」

「いや! べつに関係ないですから!」

「いいえ、はっきりと言っておきます。わたし、石動新志と肉体関係は持っていません! それはまぁこのままならいずれ……って事はあるかもしれませんけど、少なくとも今は誰とも関係を持ってません! 神にだって誓えますよ?」


 マリエさんは威風堂々と処女宣言している。

 だが、経験のない人にこんな事できるだろうか。

 男を自分の部屋に呼び出して押し倒すって……。


「その目は疑ってますね……?」

「!? いや全然疑ってないです!」


 目を据わらせたマリエさんがまくしたてる。


「本当ですから! 新志はサディストを気取っていますが本質は子供です!

 それに……これはわたしの推測で確認は出来ていませんが、石動新志は信子さんの事が好きなんですよ! 女の勘です! 間違いないと思うのです! だからあのお子様はわたしに一切手を出すことはありませんでした。きっと信子さんに義理立てしたつもりなんでしょう! だからわたしは、本当に……!」

「分かりました! 分かりましたから! あまり女の人が声高々に処女だ処女だって言わないでください!」


 なんとかマリエさんを落ち着かせると、ちゃぶ台に置いてあったガジェットを手に取って立ち上がる。


 あの会長が信子のことを好きとか、そういうの聞きたくなかった。意外すぎてなんか可哀想になる。


「……帰ります」


 俺がそう小さく宣言すると、マリエさんが後ろから腕を絡めてくる。


「わたし、総一くんにとってなんなんでしょう? 特別なポジションになれたでしょうか?」

「なれてると思いますよ。少なくとも俺はマリエさんを魅力的な女性だって思います」


 振り返って、面と向かって質問に答えたが、マリエさんは押し黙ったままだった。


「でも、今日はもう帰ります」


 もう一度帰宅の意思を伝えると、ようやく彼女の腕が離れた。


「……総一くんが部屋に来たとき、わたしシャワーを浴びていたんです……風呂上がりにこの衣装で誘惑するつもりでした。でも、寝ている総一くんがあまりに可愛い寝顔をしてたから、膝枕で許してあげたんです……そうしていたら……」


 マリエさんが俺の頬に指を這わせる。


「悲しい夢でも見ていたのですか?」

「……とても、大切な夢を見てたんです」


 俺が真顔で答えてから笑うと、マリエさんは「そう……」と少し寂しげに言った。


「じゃあ、帰ります」


 帰り支度にバッグを掴んで持っていたガジェットを放り込む。


「総一くんが寝ていたので風邪を引くといけないからと冷房は切ったんです……けれど着物でしょう? すごく汗をかいてしまって……二人で一緒にシャワーでも――」


 マリエさんが言い終わる前に、「帰ります!!」と大きく声を張り上げて、俺は逃げるように彼女の部屋を出た。

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