異化
不定
[本編]
私は山と森の中に佇むある館の前に立っている。
竹薮が生い茂り枝垂れた木々を軋ませる風がとどめなく、しかしどんよりと吹いている。生暖かいような、突き放すように冷たいようなそれに頬を貫かれながら、重厚な装備と荷物、それから覚悟をもった私は足を踏み出す。領域に足を踏み入れる。
私はある目的を持ってここに来た。
「自分」を探し、作るためである。そしてこの館は、それを叶えられる場所だと聞く。
他にも道はあったはずだが、何故か気づけばこの館にたどり着いていた。噂に違わぬ見事におどろおどろしく異気漂う造りである。館の主などはいない。ただ、ここに一度這入ってしまったら、戻るまでに数年かかるどころか、行った人数の大半は戻って来ていないらしい……覚悟、である。しかし、伝え話には「自分」を作るというその一端しか語られず、細かな内容までは門外不出の類であるようだ。
建物に侵入すると、想像とは違い、意外にも活気に溢れていた――のは一瞬の認識の誤差とでも言うべきだろうか、すべての人影は見る見るうちに生気を奪い取られた。たくさんの人形たちの虚ろな目線を避けながら、私は自分の居場所を見つけ始めた。彼らも私の同志なのだろうか、相当な準備をしていたような格好ではあるが、こちらが読み取れるような表情という表情は一切なく、ただ首を左右に緩やかに腐ったように揺らしているだけだった。
広大で無機質な館を私はなるべく横道にそれないように、無駄足を踏まないように進み、大広間にたどり着いた。そこには先程までとは比べ物にならないほどの人影で溢れている。熱気さえ感じ始めた。
仮面を着けた男(のようななにか)達が、虚ろな人形達の肩に手を掛け、身振り手振りで説得し、書面を突き出し、声高に叫んでいる――とても笑顔に愛想良く。強い仮面達の行動に気圧され更に首を揺らす人形達。その二種類の人影が大広間を席巻していた。
吹き抜けかつ多層的構造の広間であったが、そこに普通、広さが感じさせる虚無感というか、「響く」ものは全くと言っていいほどなかった。空はなかった。
異常な空気感と光景に飲み込まれ、入口から一歩の場所でただただ呆然としていた私に、仮面の中の一人が声をかけてきた。即座に肩に手を回し、にやついた表情のそれと甘い文句で迫って来る。仮面越しに、男の口から漏れるなにものかが首筋を毛立たせた。
即座に、嫌悪感を覚えた私はまるで言えば解放されると盲信したように一言二言社交辞令以下の挨拶を独り言のように呟いた後、その手を振りほどき雑踏の中に踏み出した。
ここを越えなければ――もしくは、見極めなければいけない。この空気のない空気は、仮面の口々から漏れる内側の「思惑」で満たされた熱気と等しかった。甘ったるい言葉とぎとついた笑顔と「思惑」が、互いに擦れあって熱気になっていた。どうやら、仮面の男達は必ずしも共同体ではなさそうだ。
わずかに残された「空気」にも、後方上空から響く管楽器の轟々とした震えや、何処からともなく隙間風に乗って耳をくすぐる怪しい弦楽器の喘ぎでとっくに飽和していた。趣があるようでいて全く均衡を欠いている、互いに牽制し合う音色、文句、熱気、臭気、肩。
秩序無き舞踏会と言った様相。ハチャトゥリアンが作ったかの組曲とは雰囲気がまるで違うが。ぬかるんだ沼の底でマグマが沸々と噴出の機会を探っているような曲調である。むしろ、マルコム・アーノルド作曲の「ピータールー序曲」の序盤に近い。仮面の裏には熱い汚い泥と溶岩がある。鈍い赤黒い光が目と口の穴から、目を凝らせば見えてくる。
私は耐えきれず、熱で溶けだした人影の群れの中を足早に進み出した。途中、仮面の男(だったもの)の溶けた甘言ないしはその本体が、何度か私にまとわりついてきたが、今度は強引に振り払う。酷い臭いだった。
広間は長大で、とうとう息切れし始めてしまった――吸った気体は口の中で粘膜に溶け、唾液は恐ろしく甘くなる。天窓からは歪んだ光というか、昼間の霧中のようなそれが圧力をかけてくるだけだ。仮面と虚ろにつられて、床まで歪んできた。私の足はくるぶしのあたりまで床にめり込んでいる――
五感が痺れて頭の中がぐちゃぐちゃになった。
なんとか壁まで倒れ込み、壁伝いにして進む――進んだ先に私の望むものがあるのか、検討もついていないが。
そもそも、望むものとは……?
ただ逃げるようにして壁に肩を支えてもらいながらどろどろを押しやっていると、不意に肩が左右した――凹凸。
よく見ると、それは扉だった。重厚な、木製の、いかにも年代物であるということがひと目でわかるような、それ。この建造物自体、いつからあるのかわからないような伝承の代物だが、そういうものとは違う威厳のような何かを感じた。
どうやら、扉には鍵はかかっていないようで、どろどろに押された拍子に少しだけ空いた隙間に空気が吸われていった――少なくともここよりは涼しいのか、そしてきっと澄んでいるだろう。
忍耐の限界を感じていた私は即座に扉を開き、他の彼らが入って来られないように後ろ手で扉を閉め、鍵を締める。
そこそこの恐慌状態からの開放により、安堵感からかその場にへたれこんでしまった――涼しいし、静かだ。扉一枚向こうにはゴミ焼却炉のような世界が広がっているとは到底思えない。すぐに忘れてしまえる。そのくらいだった。
微かに墨の匂いがした。部屋を見渡すと、ここは書斎のようなスペースらしい……八割方の壁が本棚になっていて、それ以外の壁には絵画が吊るされている。真中にはこれもまた扉と同じような年代物の机と、その机に一冊の本が置いてあった。本棚も机も床もそうだが、埃一つ被っていなかった。ただ、人が出入りしているような痕跡はない……あくまで、直感だが。
本を手に取る。
少し不安になって、周囲を見渡してから――もちろん誰もいない――開いた。
「自己を模索する若者へ。まずはこの書を読むまでに辿りつけたことを光栄に思え。そしてこれから一切、溶けることは許されない。汚く、臭くなることも、不味くなることもいけない。もしそれが出来なければ、お前は扉の外のそれらに成り下がるだけだ。その上でお前は考えなければならない。あわよくば、外のそれらを踏み台にして更に高みを目指すかもしれない。唯一とも言うが。敵はまだいるであろう。ただ、高みに達すれば敵は自ずと消え去る。そして自らを敵と看做せたときに、お前の望みは果たされるであろう。まず、一次試験を突破したお前には、この書を進呈する。」
最初のページにそう書かれただけのやけに薄っぺらい本は、その後のページは真っ白だった。
今頃滴った私の汗が白紙を歪ませた。
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