第2話〝夜〟について その1

 ズル…ズル……


 また、あの厭らしい音が何度か続き、他の二つの穴からも、同じ生物がひり出されて来た。

 べちょ、と濡れた音を立てて地面に落ちると、すぐに触手をヒクヒクさせて獲物を探し始める。

 ぼくは気分が悪くなった。

「な……こ、これは、いったい…」

 ぼくは若者の方へ這い寄りたかったが、それも出来ぬほど腰を抜かしていたので、動くことすら出来なかった。それに、本当にちゃんとこう言えていたのかも定かではない。舌が全くまわっていなかったからだ。

「〝人喰い虫キャリオン・クローラー〟――異界のさ」

 それでも彼は、ぼくの質問に答えてくれた。それにしても、何と冷たい瞳をしているのだろう。文字通り、氷のような冷たく鋭い眼だ。

 ゆっくりと青年の右手が動き、長剣の手にかかる。

 その動きの優雅なことよ。ぼくは陶然と見つめていた。

 その瞬間――

 鋭い鞘鳴りの音!

 ぼくは見た。長剣を鞘走らせた刹那、美貌の若者の姿が黒い颶風ぐふうと化すのを。

 そしてぼくは見た。流れ飛ぶ三条の閃光を。

 不気味な鎌首をもたげ哭き声を上げる〝人喰い虫〟の真っ只中で、その一陣の風が荒れ狂った瞬間、三匹の妖虫は真っ二つに縦に分断され、地に腐った体液を撒き散らせて倒れた。

 凄まじい腐臭がぼくの鼻をつく。

 ちん、と美しい音が鳴り、彼は長剣を漆黒の鞘に収めていた。

 そして、無言のまま彼が、何かを払うように右手を振る。と、見る間に妖虫の分断された死骸が乾燥していき、やがてカサカサになるまで乾くと、ボロッと崩れた。あとには塵化した死骸が残るだけだった。

 ふとぼくは、彼の冷たい瞳に見つめられているのを感じ、愛想笑いを浮かべた。

「何故、人間がまだこの街にいるんだ?」

 そのぼくに、冷徹な声がかかる。

「え?」

 ぼくは、笑いの表情のまま凍りついた。

 なにを言ってるんだ?

「いくら境界線上にある街とは言え、この街の人間は全員、〝夜〟の生物やつらに呑まれた筈だ」

「や、奴等…? それより、ここは何処なんだ…?」

 ぼくは、ようやくそれだけを言った。

 のどがカラカラだ。

 何か、やばいものに巻き込まれている。

「――!? きみは、ここの人間じゃないのか?」

 美貌に驚愕の表情を浮かべて若者が言ったので、ぼくは、うんと頷いた。

「なるほど。それで、この街のことを何も知らなかったのか」

 一人ごちるように言うと、彼はぼくに、ついてくるように告げた。

「何処へ――?」

「取って食おうなんて思ってないよ」

 先ほどまでの氷のような冷たさはどこへやら。

 彼が微笑を浮かべてそう言った。

 その笑顔を見たとき、ぼくは、本能的に彼は味方なのだと感じた。

 心の底から人の暖かさを感じたのは、この街が陰々滅々とした、暗く冷たい世界だったからだろうか。


 ぼくの名前は山本清一郎。

 改めて自分の名前を確認してみる。

 夢を見ているのではないかと思ったからだ。もちろん、悪い夢の方だが。残念だが、夢ではなく現実らしい。頬をつねったら、とても痛かった。

 つい先頃まで、フリーのライターだった男だ。

 もちろん今もそのつもりだが、この夜の街から脱け出せない限り、その肩書きに意味はなかった。

 この街にある限り、ぼくは何の力も持たぬ、怯えるしか能のない来訪者でしかなかったのだから。

 ぼくは、黒衣の美青年に導かれ、近くの戸建て住宅の玄関をくぐった。

 家の中も外と同じように真っ暗だ。電気も止まっているのだろう。

 と、彼が何か短く呟くと、左手にやわらかな光が灯る。

 驚いて声も出ない僕の眼の前で、光は彼の手を離れ、およそ二メートル程度の高さまで上昇。そのまま僕たちが歩く速度にあわせて足許を照らすようにふわふわと浮遊し始めた。

「ここは、君の家かい?」

 尋ねる声が震えているのを自覚する。

「ん? 知らない家だよ」

 彼は、そう背中で答える。

「ですよねぇ」

 あはは。もう引きつった笑いしか出てこない。

 彼も僕も土足のままで(靴を脱ごうとしたけれど、彼が止めたのだ。)、家の中の廊下を歩く。

 今気づいたが、先ほど彼は剣を一振り持っていた。それが、今は何処にも見当たらない。隠し持っている様子もない。

 どういうことだろう?

 ぼくは頭の上に?を浮かべながら、とにかく彼についていった。

 左手に二階への階段がある。廊下の一番奥。そこはリビングだった。

 しん、と静まり返ったリビングに入り、あたりを見回すと、左手に対面式のキッチンとダイニングテーブルがある。いわゆる、LDKだ。

 リビングには大型の液晶テレビと三人掛けのカウチソファ。

 姿を消してしまったこの家の住人は、ここで家族のだんらんの時間を持っていたのだろう。

 僕は、彼に言われるがまま、ダイニングテーブルに移動し、四つあるイスの一つに座った。

 彼はキッチンに立つと、勝手に他人の家の冷蔵庫を開けたり、食器棚を開けたりして、何かを準備し始めた。

 え。おいおい。

「大丈夫。この街が『夜』に呑まれて、まだ一時間程度しか経っていない。冷蔵庫の中にある食料も、まだ腐っちゃいない」

 いや、そういう問題じゃなくて。

 ああ、いや、もはやその程度のことなのかもしれない。

 ぼくは、彼が冷蔵庫から未開封のミネラルウォーターのペットボトルを取り出し、キャップをひねり、ステンレス製のケトルに注いでいく。

 キッチンを覗くとガスではなく、IHのようだったが、だいたい電気も止まっているのに、どうやって湯を沸かすのだろう。

 とか思っていると、彼がまた何かを呟いた。

 途端、彼が手にしたままのケトルの口から湯気が上がり始める。

 あっという間に湯が沸いたのだ。

「魔法なのか」

 思わず僕の口から声が漏れた。

 魔法だった。そうとしか思えない。

 呆然とするぼくの目の前で、彼は二人分のカップにインスタントコーヒーの粉を入れ、湯を注いだ。

「ミルクと砂糖は、お好きにどうぞ」

 そう言って、彼はコーヒーカップをテーブルに置いた。

 ぼくは、彼の淹れてくれたコーヒーを一口飲んだ。ぼくはブラック派だ。

 美味い。インスタントとは思えない風味がする。湯の温度がちょうどいい。

 それこそ、魔法でも使ったのか。

 彼は、僕の正面に座り、角砂糖を二つ、ミルクをたっぷりとコーヒーに入れて、ちびちびと飲んでいた。

 どうやら猫舌らしい。ちょっとかわいい。

 改めて彼を見る。年齢的には一〇台半ばに見える。

 高校生ぐらいだろうか。

 それにしても、何と美しい貌をしているのだろう。

 月輪の如く鮮やかな美貌。女性のそれとは明らかに異なる、鋭い刃物のような美しさ。あの切れ長の眼で見つめられると、ドキドキしてしまう。

 こんな男の子が同級生にいたら、大変だろうな。

 いろんな意味で。

 ぼくは、顔を赤らめながら、これまでのことを彼に話した。

「――なるほど。では、この街に入るまでの記憶は、ほとんどないと。それにしても、どうして普通の人間が、外界から入って来られたんだろう」

「それは、ぼくが聞きたいくらいさ」

 そういうと、ぼくはコーヒーを一口飲んで、ため息をついた。

 彼は、何かを考えている風だった。

 恐らく、彼を普通の美男子という領域から隔絶せしめているものは、彼の背負う何らかの宿命であろうと思われた。

 彼には、何かしら峻厳な宿命があるのであろう、と勝手に納得した。

 後で話してくれたのだが、実際、彼の宿命は、ぼくが想像していた以上に厳しいものだったのである。

「……この街のこと、あの化け物、そして君が言ったあの、〝夜の生物〟のことを話してくれないか」

「どうして? 知らずにすめば幸福のまま生活できるんですよ」

 生きて戻れたら、ね。

「ああ、それはわかっている。だけど、それは盲目の幸福でしかないと思う。今、この世界の裏側で進行しつつある真実を知らぬままに生き、死んでいくのは愚かでしかないんじゃないかな」

 ぼくは、自分で言っていて驚いた。どうして、こんな台詞が出て来るんだろう。

「――今、ぼくは、その真実を知る機会を与えられた。だから知りたい。いや、知るべきなんだ」

「知ってどうするんです?」

「わからない。ただ、知らなければならない、そんな気がするんだ」

 彼の声はあくまでも冷たかったが、ぼくは、ぼくらしくない決意の固さでそう答えた。

 彼は、ため息を一つついて、

「――確かに、今、地上世界は異界のものからの侵攻をうけている。その侵攻をくい止めるための戦いは、今まで人知れぬ処で行われて来たんだ」

 少し口調が変わった。こちらが、彼本来の言葉遣いか。

 声のトーンも少し低くなる。

「それが、この街というわけか…」

 ぼくは、ごくりと唾を飲み込んだ。

「そう。山本さん、だったよね? もし神がいて、この世界の危機を人々に知らしめようとしているのだとすれば、きみは、神の意思によってここに来たことになるんだよ」

「身体が震えるほど光栄なことだね」

 ぼくの声は、このときすでに震えていた。

「真実を人々に伝えるのが、ぼくの役目なのだから」

 だからこそ、ぼくは、ルポライターになったのだと悟った。それは、偶然にして必然の、神によって宿命づけられた行動だったのだ!

 ようやく、そこまで言うのならと、彼は肩をすくめて折れた。

「この街は、〝夜〟との境界にある街なんだ」

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