雨の中の蛙《あめのなかのかわず》

田中蜜柑

第1章

 近江おうみ香苗かなえは学校を休んでいた。風はないが強くひたすらに振り続く雨だった。

 「言い訳をするわけではないが、こんな日に真面目に授業なんて受けてられないよ。」ふらりと雨の中を歩きながら近江は真面目くさって呟いた。古い町に流れる増水した河には石組みのアーチ橋が架かっていた。風情のある橋であった。

 近江は普段から学校を休みがちなわけではない。基本、真面目に通っている。そう、真面目に。無駄に暑さが続くときも、学園祭の翌日なんかも同じ。こういう雨の日だけふっと肩の力が抜けてこんなことになる。

 そんな雨の中で、近江はひとり考えていた。彼女は常に何かに対して不満を抱いていた。でも、不満の向けられる先がどこにあるのか、それが分からない。そんな些細なことがしつこく頭の中を離れない。安物のビニール傘がぱららと音を立てる。霧煙で先が見えない。

 見馴れた橋が目の前に現れた。近江は一瞬面食らったが何のことは無い。いつもの道で、いつもの橋だ。しかしふと、橋の下の暗い空間に目をやる、石組の橋脚に見馴れない扉があった。それも、なにやら凝った装飾が施されている。おもわず駆けよって。ノブのない扉に掌を当てる。一拍、周りに人影も気配もない。ギイと軋んで内側に扉が開く。踏み出した近江の背後で扉が静かに閉じた。暗闇に目が慣れて、彼女は自分が駅のプラットホームにいることを認識した。だんだんと暗闇に目が慣れてくる。

 本来、線路が敷かれているはずの場所には水が流れていた。年代物の小さなランプが、等間隔に吊るされている。それでもホームは暗い。石畳はすり減って、全体的に橋の外観に似つかわしい古ぼけた場所だった。

 「なんだろうか、ここは。」近江はまた堅苦しく呟いた。

 突然、背後でふうっと息を吐く音が聞こえた。驚いてそちらへ顔を向けると、身長わずか1メートル程の小人としか言いようのない小人がホームのベンチに腰掛けていた。

 「まったく。」と小人は独り言ちた。

 白いひげに目深にかぶった帽子。

 「どうしたもんかなあ。」小人は辛気臭く呟いた。

 「初めまして…、近江香苗と申します。」近江が言う。

 「名前なんて気にするな。」小人が遮るように言う。

 「あなたの名前は…、」近江は言いかけたが、小人は目も合わせない。

 「名前のことはどうでもいい。問題はこっちの仕事のことだ。」小人は言った。

 挙句、どこからかパイプを取り出してぷかりと煙の輪を吐き出し始めた。沈黙と煙が漂う。

 「ええと、出口は…。」近江はこらえきれずに言った。

 「まあ、少し待て。」小人はそっけなく言った。

 「でも…、」

 「仕方ねえな、では仕事に掛かろう。あんたはこれから船に乗る。」

 彼はそこで水路の方へ顔を向けた。折に闇から無人のボートが滑るように進んで来た。

 「これだ。」小人は近江の方へ視線を移す。

 「こいつに乗りな。」

 「いえ、出口は…。」彼女には状況がつかめない。

 「なかなかノリが悪いね。いいから乗れ。つまるところ、君に必要なのは正しい選択じゃあない。諦めと肝っ玉だよ。」小人は言いきった。

 「何でもいい、乗れ。」小人がせめたてる。

 「しかし、何処に行くのかもわからない。」戸惑いを隠さず近江は訴えた。しかし小人はもはや無言で、先ほどのパイプをまたふかし始めた。

 「乗るよ、ボートに乗るからさ。」近江は観念した。

 「ふむ。よろしい。とてもよろしい。」小人が頷く。

 近江は注意深くボートに乗り移った。やがて流れに乗り始めたボートの上で、不安そうな顔の近江が振り返ると、小人はだんだんと遠ざかる彼女をただひたすら、じっと見詰めているようだった。やがてその姿も闇に溶け込んだ。



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