第88話ニケの涙

ニケは朝から落ちつかない。

何故なら今日は夫のジョルジュが長い航海を終えて、ここヴェネツィアに戻るはずの日。

ここ数日は波も問題ないし、街の人も全く平静。

ただ、待っていればいいのだけど、ニケにはそれが我慢できない。

朝から何度も港まで行っては帰って来る。

とうとう、隣の世話焼き好きのルチアが、呆れて声をかけてきた。

ジョルジュとニケの結婚も、実はルチアの紹介である。


「ニケ、あまり行ったり来たりすると、ポセイドンの怒りを買うよ!」

「いい加減にしなさい!」


「そんなこと言ったって、早く会いたいだけ!」

「邪魔しないで!」

ニケもこういう日は負けやしない。

思いっきり言い返す。


「はっ!口が減らない娘だねえ!」

「そんな何度も行って帰ってくる暇があるんだったら」

世話焼き好きのルチアは、ちょっと自分の家に戻り、赤ワインと何かを持ってきた。


「・・・え?何?」

ニケは、驚いてしまう。

ルチアに怒られたことはあっても、もらったことはないのである。


「ああ、さっきから煮込みつくっているだろう?」

「だから、それに赤ワインを足して、この薬味を入れてってことさ」

ルチアは、にっこりと笑った。


「そんなのやったことないし、焦ってばかりでしょうがないって!」

「鍋の前になんか立っていられない・・・」

ニケは、ちょっと抵抗したけれど、ルチアの目が厳しい。


「・・・ごめん・・・やり方教えて・・・」


「最初から、そう言えばいいのさ」

「ジョルジュの好みだろ?あんたも女房だったら、教えておかないとさ」

ルチアは、ズカズカとニケの家の台所に入り、赤ワインと薬味を魚貝鍋に足している。


「・・・美味しい匂い・・・でも焦るの」

ニケは、どうしても腰が落ち着かない。


「何、ジョルジュだろ?匂いにつられるから心配ない」

「ほら、残りのワイン」

ルチアは、まったく落ち着き払っている。

おまけに、残りの赤ワインを強引にニケに飲ませてしまう。


「もーーーお酒弱いって・・・酔っちゃうって!」

そうは言っても、断り切れないニケ。

一口二口飲んでしまい、真っ赤になる。

それで、少しずつ・・・うとうと・・・



「ガタッ」

扉の開く音だけはわかった。

「でも、眠い・・・」

「だけど・・・」

テーブルのほうで、カチャカチャと音がする。


「え?」

ニケは飛び起きた。


「ジョルジュ!」


ジョルジュが魚貝鍋を皿に盛っている。

ジョルジュも、ニケを見てにっこりと笑う。


「帰ったよ、ニケ」

「ルチアが笑っていたよ」

ニケは、何も言えなかった。

ただ、涙だけ、ジョルジュの胸に飛び込んだ。


「ああ、それから、ルチア叔母さんが、お返しが欲しいって」

ジョルジュの声が優しい。

「お返しって?」

ニケは、さっぱりわからない。

ルチアのほうが勝手に持ってきたのに・・・


「ああ、早く子供の顔が見たいって」


「え・・・ジャン!」

ニケの身体が全身が真っ赤になってしまう。


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