第5話
4
「それじゃね、松崎さん」
「うん、また明日」
手を振って出ていくクラスメイト達に、松崎さんも手を振り返した。ショートホームルームも終わり、放課後の解放感が漂っている。さっさと帰宅する者、机でだべっている者、部活へ向かう者、食堂にコロッケを買いに行く者、様々だ。
松崎さんはいそいそと通学カバンに荷物を詰めた。
すると、二人でだべっていた女子生徒の一人が、松崎さんの様子が気になったらしい。隣の席から松崎さんの机へと、顔だけひょっこりと出した。
「どったの、松崎ちゃん? 急用?」
「銀野会長から呼ばれてて。二人きりで話がしたいから、って」
松崎さんがそう答えると、二人の女生徒の一人がすっくと立ちあがる。そして松崎さんの肩に、とんっと両手を乗せた。その女生徒は松崎さんを諭すような表情をしつつ、級友の犯さんとする間違いを戒めるように、かつ松崎さんの身を案じるかのごとく言う。
「松崎さん、銀野会長は襲っちゃだめだからね」
「我慢、我慢よ、松崎ちゃん。会長のパンツに手を出したら、さすがに終わりだから」
二人の女子クラスメイトが松崎さんへと、親切心からかそう注意してきた。
松崎さんは若干頬を引きつらせながらも「ははっ、う、うん。気を付けるよ」とだけ言って教室を後にする。ヨロズ先輩から呼ばれているのだ。
松崎さんは急ぎたかった。
バレンタインでの一件で誤解が誤解を呼んでしまい、松崎さんは女の子のパンツを見るのが趣味だとクラスメイトから思われてしまっている。生徒会役員でありながら存在感を示せなかった以前とは違い、もう名字を間違われる事は無くなったが――
(はてして喜んで良いものか……)
松崎さんは分からなかった。
だが、しっかり存在を認知してもらえるようになったのは、一歩前進だ。松崎さんは地味系女子のイメージを払拭するため、肌を焼いたギャルへと変身を遂げたものの、異次元の奇人・変人が跳梁跋扈する日戸梅高校においては、特に印象に残る事もない有様だったのだ。
(名字、間違われなくなったし。生瀬さんとお友達になれたし)
悪い事ばかりでもない、と松崎さんは階段を下りながら納得した。
すると、階段を下りた先でヨロズ先輩とばったり出くわした。松崎さんが会釈して手短に挨拶を済ませると、ヨロズ先輩が挨拶を返しながら切りだす。
「松崎さん、今から、すこし良いかしら?」
「はい、会長。今からうかがうところでしたし。……なんでしょう?」
「あの……」
そう言ったきり、ヨロズ先輩の言葉が続かない。
珍しいなと松崎さんは目を瞬かせた。いつものヨロズ先輩なら、用件は理路整然としていて発言に迷いなどない。特に、ヨロズ先輩に話しかけられる時はそうだ。日戸梅高校随一のクールビューティーにして、文武両道の生徒会長、それがヨロズ先輩だ。
(会長、どうしたんだろう……?)
松崎さんは大自然の不思議にでも遭遇したように、心の中で首を傾げた。
何か言いにくい、第三者に聞かれては困ることなのだろうか?
そう思い、松崎さんはヨロズ先輩の顔を見上げた。
「場所、変えましょうか? 会長?」
周囲をうかがう様なヨロズ先輩の様子に、松崎さんは申し出た。授業終りの廊下には生徒の姿も多く、ヨロズ先輩へと挨拶をする生徒たちは後を絶たない。挨拶を適宜返す事になってしまい、このまま廊下にいては落ち着いて話もできそうにない。
少し戸惑ったような仕草をしたのち、ヨロズ先輩は頷いた。
「ええ、そうね。お願い、松崎さん」
ヨロズ先輩はどこか、藁にもすがるような気配を漂わせている。
いったい何の用件なのだろうか。
と松崎さんは考えつつ、人気のない場所を考えた。
(今は放課後だから……)
と、松崎さんは顎に指を当てる。
学生食堂も図書館棟も美術室も家庭科室も、運動場の片隅にも、生徒会役員室にも人がいるだろう。生徒指導室を使うという手もあるにはあるが、少々手続きが面倒でもある。それならばと、松崎さんは近場に空き教室を見つけて、ヨロズ先輩を呼ぶ。空き教室に移動して椅子に腰かけ、しばらくしても、しかしヨロズ先輩は言いにくそうにしていた。
校庭から聞こえてくる生徒たちのはしゃぎ声とは対照的に、ヨロズ先輩の表情には深刻なものがある。どことなく、何かを打ち明けようとする雰囲気をヨロズ先輩から感じた。
「その……松崎さん」
「はい」
松崎さんは構えずに返事をした。
相手の深刻さに引きずられると、かえって相談の効果が薄れてしまう事もあろう。ヨロズ先輩がなるべく喋りやすいようにと、松崎さんは普通の声音を心掛ける。
その松崎さんの心配りが功を奏したのか、ヨロズ先輩が口を開いた。
「遊園地を、男の人と一緒に回ったこと、あるかしら?」
運動部の掛け声が聞こえてくる中、ヨロズ先輩のその質問は静かに溶ける。二人しかいない教室だというのに、聞き取るために松崎さんは耳を澄ませなければならなかった。
やや埃っぽく冷たい教室の中で、ヨロズ先輩の表情はほんのりと赤い。
何を聞かれているのか、松崎さんはすぐにはぴんと来なかった。
「……遊園地、ですか? 会長?」
「え、ええ」
「男の人と、一緒に?」
松崎さんが重ねて聞くと、ヨロズ先輩はこくりと頷いた。
松崎さんがまじまじと見ると、ヨロズ先輩はうつむき加減になる。松崎さんに顔色を悟られまいとしてか、ヨロズ先輩は少しだけ横を向くような仕草をしつつ、髪で横顔をうっすらと隠した。なんともいじらしい様子で、ヨロズ先輩は口元に片手をやっている。
(こっ、ここっ、これは……!)
ヨロズ先輩のその面影に、松崎さんは見て取った。
遊園地、そして男の人というワード。
少し前、生瀬さんから恋愛相談を受けた時の、あの感触に極めて酷似している。
もしかして、と松崎さんは目をむいた。
「で、デートですか、会長!?」
「……え、ええ……」
ヨロズ先輩は自らの指をもじもじとさせながら、伏し目がちにそう言った。
「そういう経験が、私、ないものだから。どうすればいいのか、わからなくて」
「……」
松崎さんは言葉を失くした。
浮いた噂などとんと聞こえてこないヨロズ先輩から、まさか、そんな相談をされるとは。今まで何かと松崎さんが相談する事はあっても、その逆はなかなか無かった。
日戸梅高校の生徒会長にして、生徒や先生からの信任も厚く、生徒会の仕事では実に頼りがいのある、出来る女の見本のようなヨロズ先輩に、今まさに相談されている。
それも、とてもプライベートな事を。
ビジネスライクな普段のヨロズ先輩からは、考えられない事なのだ。
憧れと尊敬を寄せているその人から、まさかこうして頼られる事になろうとは。松崎さんにとっては晴天の霹靂に近い。それも話しにくい事でありながら自分を選んでくれたと、松崎さんは得も言われぬ優越感というのか、ぞくぞくとした興奮を覚えた。
(これは、期待に応えないと!)
松崎さんは否応なく身体に力がみなぎった。ヨロズ先輩のお役に立てるのならばと、松崎さんは手をぐっと握り、ヨロズ先輩をしっかりと見た。
「お相手って、彼氏さん、とかですか、会長?」
「いいえ、違うわ」
ヨロズ先輩は首を横に振り、どう説明したものかと思案顔で続けた。
「……その、なんていうのか、私自身、自分の気持ちがまだ良く分からなくて。今回のデートが上手く行けば、私の気持ちも分かるかと、そう思っていて……」
そう述べるヨロズ先輩の表情は、相変わらず読みにくい。
けれど、ヨロズ先輩は重ねた指をもじもじとさせている。うつむき加減でもある。ヨロズ先輩の物怖じしないいつものクールさは、鳴りをひそめている。
どことなく自信もなさそうだ。
普段とのギャップが激しすぎる。
松崎さんは少しくらっときた。
(……か、会長が、かわいい……)
松崎さんは素直にそう思った。
これまでヨロズ先輩には「カッコいい」や「綺麗な人」「できる先輩」という印象が強かったぶん、松崎さんはやや面食らってしまう。
そんな松崎さんへと、ヨロズ先輩はぐっと身を乗り出してきた。
「詳しくは言えないのだけれど……色々な事情があって、私には失敗が許されないの。それで下見に行こうかと思っていて。よければ、松崎さんについて来てもらえないかしら?」
ヨロズ先輩のその申し出に、松崎さんは首を振った。
「ダメです、銀野会長」
「……そう。そうね、松崎さんにも、予定があるものね。こんな急な話では――」
「あ、いや、銀野会長っ」
残念そうな顔をして身を引いたヨロズ先輩に、松崎さんは慌てて手を横に振った。
「そう言う事じゃなくて!」
「……?」
「下見とかしちゃだめです。もったいないですよ」
「もったい、ない……?」
「はい。失敗だって二人で楽しむ、それくらいの心意気で行かないと。初めてのドキドキ感とか、戸惑いとか、そういうの、相手の人と楽しむんですよ。だって、えっと、会長はその人の事、まだ本当に好きかどうか分からなくて、確かめたいわけじゃないですか?」
「ええ」
「だったら、なおさら真っ新なまま行ったほうがいいです」
松崎さんはそう言った。
このアドバイスはそう外れてはいまい、と松崎さんは思った。小耳に挟んだ恋愛話や、彼氏とのデートでの不満をぶちまけていた女優の話や、漫画や小説から得た知識を集約したものではあるものの、そこそこ正しい助言になっているはずだ。
「……相手も、そうなのかしら?」
ヨロズ先輩のうかがうような目に、松崎さんは戸惑いつつも頷いた。
「そりゃ、そうなんじゃ、ないんですか?」
松崎さんはそう言ったものの、ヨロズ先輩は顎に指を当てて考えている。
どうやら、このアドバイスがぴんと来ていないらしい。
何事にも絶対的な指標などない。やり方は相手によって変わるものだ。
そう気付いて松崎さんは首を傾げた。
「あの、銀野会長のお相手って、どういう方なんですか?」
敵を知らねば戦にならぬと、松崎さんはそう問うた。
ヨロズ先輩はふと虚空を見上げて、思い返すような顔をしている。
「並大抵の事では、動じたりしない人で……少し前までは、そうでは無かったのだけれど、最近、とってもたくましくなってきていて。頼り甲斐があるというか、男らしいというか」
「は、はぁ……」
「慣れている、というのか」
ヨロズ先輩のその言葉を、松崎さんの耳は鋭敏にとらえた。
(デートで動じない? 慣れてる? ……ま、まさか、遊び人!?)
ふと湧いた疑念に松崎さんは顔を曇らせた。
(会長って見た目と雰囲気は冷静でも、かなり初心みたいだし。……え、あれ、まさか。もしかして、会長、遊ばれちゃってるんじゃ……)
ヨロズ先輩の様子を見るにつけ、松崎さんは不安になった。
世の中には酷い男もいる。
女心を弄んで、二股三股を平気でかけるような、そのくせやたらとモテる人種だ。上手く行かなかった恋の数が多いほど、それが輝かしい勲章となってしまう不思議な世の中だ。
何があっても不思議ではない。
恋は盲目ともいう。耳年増の松崎さんは黙考した。
冷静に見えるヨロズ先輩も、思わぬ落とし穴にはまっているのかもしれない。松崎さんはそう思って口を開きかけたが、ヨロズ先輩の言葉の方が一歩早かった。
「私はその、ほうっておくとその、ナチュラルでおかしなことになってしまうというか。彼にもその、それで今まで、散々、無理を強いてきた所があって」
なんだか雲行きが怪しくなり始めた話に、松崎さんは相槌を打つ。
「は、はあ……無理を強いてきた、ですか?」
「ええ」
ヨロズ先輩はやや気まずそうに頷いた。
ヨロズ先輩の陰のある表情をうかがい、松崎さんは首を傾げた。
「たとえば、どんな?」
なるべく答えやすいように、松崎さんは柔らかくそう尋ねた。
「その……松崎さん。これはあくまで一例なのだけれど」
「はい」
松崎さんは頷いて、ヨロズ先輩の続く言葉を待った。
「……えっと、あの……」
ヨロズ先輩は言葉に迷っているのか、口をもごもごとさせている。
松崎さんは訝しんだ。
ヨロズ先輩の言動はいつも明朗だ。要点を手早く話す。言いよどむ事など珍しい。ましてや、これほど歯切れが悪いヨロズ先輩など、松崎さんは見たことが無かった。
「あの、銀野会長? 言いにくい事なら、別に言わなくても構いませんよ?」
松崎さんがそう慮ると、ヨロズ先輩は首を横に振った。
「いえ、そういう訳にはいかないわ。私は、松崎さんのアドバイスが欲しいの。私がどういうレベルなのか、端的に伝えるには、必要な事だから」
「そう、ですか」
ヨロズ先輩に頼られていると感じて、やや誇らしげに松崎さんは背筋を伸ばした。
「では、あの、会長。どうぞ」
松崎さんが先を促すと、ヨロズ先輩は重々しく口を開いた。
「私はその、彼に――この前のクリスマス・イヴの日に、なのだけれど。コンクリートで私の足を固めて水に沈めてもらったりとか、その、そういう事を彼にさせてきて」
「なるほど、イブにコンクリートで水に沈めふぁっ!?」
松崎さんは奇声を上げた。
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