第18話




     10



 美術室の匂いでも、生瀬さんは落ち着かなかった。

 いつもなら、居るだけで集中できるというのに。


 雑念が次から次へと湧いて来る。


 先日、森田君が見つかって心の底からほっとした時の事を、何度も思い出す。その瞬間に感じた、自分の想いも。溢れ出たそれが一体何なのか。


(いけない……森田君は、だって――)


 抑えようとすればするほどに。

 遠ざけようとすれば、するほどに。

 絵を仕上げる筆の動きは、鈍く、ついには動かなくなってしまった。


(私は……)


 なにをやっているんだろう?

 何を考えているのだろう?


 イーゼルの足元を見ていても、答えなど得られるはずもない。

 ふと音がして、生瀬さんは顔を上げた。


 開いた戸の前に、山下が居た。


「委員長、担任が職員室まで来て欲しいと――……どうした?」

「なんでもないよ、山下くん。分かった、すぐ行くね」

「その絵は……?」


 イーゼルへと近づいて、山下は首を傾げた。


 まだ描きかけの絵だ。まじまじと見られる事が気恥ずかしくて、生瀬さんはイーゼルを動かし、山下からは見えにくくなるようにした。


「森田君にね、モデルになってもらったの」

「そうか……辛いものだな。届け方の分からぬ想いとは」

「――っ?」

「その絵を見ればわかる」


 はっとした生瀬さんは、すぐにふっと息を吐いた。


「未完成の絵、なんだけどね……ふふっ……」


 自嘲するような笑みだった。


「やっぱり、知らず知らず、絵にでちゃうんだね。そういうの……」

「…………」


 さしもの山下も戸惑った。


 出ちゃう出ちゃわないのレベルではない。

 どんな鈍感な人間だって分かるだろう。


 生瀬さんの絵だ。


 絵の中のその人物は、ぱっと見では森田君とは分からないほど、とてつもないイケメンとして描かれていた。絵は心を映す鏡というが、ここまで曇りなく綺麗に像を映せる鏡など、ハッブル宇宙望遠鏡の反射鏡レベルであろう。


「……む。少なくとも、森田はその絵ほど目鼻筋は整っていないし、八頭身でもないし、バラを咥えているところなど俺は見た事も無い」

「え? そ、そうかな?」


 生瀬さんにはそういう風に見えているらしい。

 恋は盲目なのではない。より美しく見えるようになるだけだ。


「聞こう、友よ」

「…………」

「少し前、ある男に言われた。結局は一人で選ぶしかない事でも、一人で抱えられる問題は、そう多くは無いのだと。……話してくれ」

「…………わたしね、このままでもいいな、って思ってるの」

「…………」

「こうして、絵に描いているだけで、それだけで十分だって。そう、思ってる……あっち側とこっち側があって、森田君はあっち側で、私はこっち側で。だってそうしないと、割り切っていけない事って、たくさんあると思うから」


 膝の上で手をぎゅっと握りながら、生瀬さんは想いを絞りだしていた。


「わたし……なにか、間違っちゃってるのかな……?」

「いいや」


 落ち着いた声で、ゆっくりと山下は首を振った。


「そういう方法もあるだろう。手法の良し悪しなど、人それぞれだ。その者にとって最良の解決法が、別の者にとってはそうでは無い事も往々にしてある」

「…………」

「だが委員長、これだけは覚えておいてくれ」

「?」

「パンツは脱がなくても、何枚でも穿く事はできる。しかし一枚も穿かずに脱ぐことは出来ない。パンツを脱ぐことは、パンツを穿く事があって初めて成立する。委員長は今、ノーパンなのだ。それなのにパンツの脱ぎ方が分からない、と途方に暮れている。俺にはそう見える。委員長が今探るべきは、パンツの穿き方だ」


 言っている事を冷静に考えれば変態以外の何ものでもないはずが、なぜか、聞き手によっては核心をついてくる。山下の能力は冴えわたっていた。


「そんな顔をしてうつむくのは、ちゃんとパンツを穿いてからだ、委員長」


 山下はそう言うなり背を向けて立ち去った。山下のいつになく厳しく、けれど友愛に満ちたその背中は雄弁に語っていた。


 戦う気の無い者にかける言葉など、これ以上は無い、と。


(私は……そうだったんだ……)


 生瀬さんははっとして顔を上げた。


(……私って、パンツ、穿いてすらないんだ……)


 生瀬さんは真顔でそう思った。


 開いた扉か出ていく事すらしようとしない、鳥籠の中の小鳥――……いや、鳥籠の中の哀れなノーパン天使でしかなかったのだ。


 いつのまにか、空が紅く色づき始めていた。

 生瀬さんはもたもたと美術室を閉めて、鍵を職員室へ持って行こうとする。


 その途中、廊下でヨロズ先輩と出くわした。


「あら、生瀬さん。今、帰り?」

「はい」

「そう。さようなら。また明日」

「はい、銀野会長。さようなら」


 会釈してすれ違う。

 心のおもむくままに、生瀬さんは振り返った。


「あのっ!」


 離れていくヨロズ先輩の足音を、生瀬さんの声が止めた。ずっとずっと燻っていた事がある。どうしても、ヨロズ先輩の口から聞いておきたかったのだ。


「銀野会長っ……お話、いいですか?」

「なにかしら?」

「銀野会長は、どう思ってるんですか?」

「……どう、とは?」

「森田君の事です」

「…………」

「こんなこと、部外者の私が言うのも変ですけど、お二人がその、恋人ではなくなったって聞いて……それで、今の二人を見ていると、どうして、そうする必要があったのかな、って。その、お節介だとは思うんですけど……」

「そんな事はないわ。生瀬さんにはお世話になっているもの」


 ヨロズ先輩はそう言って、しばし沈黙した。

 どう言うべきかと、少し迷っているようであった。


「見抜かれてしまったの。森田君に。私自身、よく分かっていなかった事を。それで……それはね、森田君にとっては、恋人で居るにはまだ早い事に思えたらしくて。関係を一歩戻したいと言われたから、そうなってしまったのよ」

「あの、銀野会長」

「なに、生瀬さん?」

「しまった、とか、らしい、とか。今のお話だと、森田君がどうしたいかだけで、銀野会長がどうしたかったのかが、まったく分からなかったんですけれど……?」

「…………」

「それに銀野会長は、あっさり受け入れたんですか? 森田君の申し出を?」

「……そういう関係は、そういうモノでしょう? 片方がそう言ってしまえば、解消するしかなくなってしまうものよ。どうしようもないわ」


 ヨロズ先輩はいつも通り、変化の少ない口調でそう言った。

 それが生瀬さんには、あまりにも冷徹な口振りに聞こえた。


(……そういう、もの……?)


 しかたない?

 どうしようもない?


 今の話しぶりからすれば、止めようと思えば止められたのではないか? あなたさえ、その気なら。森田君は今なお、あなたの事を好いているのだから。


(ああ、そうか、この人は……)


 気付きと共に生瀬さんは感じた。

 自分の奥底で、獰猛な何かがゆっくりと鎌首をもたげていくのを。


「……そうですか……そんな風に、割り切れるんですね」


 自らの声音が染まっていくのを感じながらも、生瀬さんは止められなかった。森田君との関係なんて、そんな簡単に手放せてしまうものなのかと思うと。


「大人なんですね、銀野会長は。ほんとうにっ……!」


 これ以上はいけないと、生瀬さんはお辞儀して背を向けた。


 けれど、ヨロズ先輩から遠ざかれば遠ざかるほどに、芽生えていた事に気付いてしまった耐えがたいそれは、より近づき、膨れ上がっていった。



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