第12話
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「……ふふっ……」
保羽リコは口から、なぜだか笑い声がもれた。
喜びなど無い。
笑い声がこれほど乾くのかと、保羽リコ自身、驚くほどの声だった。
森田君に親密そうに身体を寄せ、淫靡に微笑むヨロズ先輩の眼差しが、脳裏に焼き付いて離れない。あの冷静で、機械的で、それなのに、どこか勝ち誇ったようなあの瞳。
保羽リコは、髪先からポタポタと落ちる水滴を呆然と眺めていた。身体が冷えていたが、まるで気にならない。傘をさすのも忘れて家に帰って来たのだ。
音楽が聞こえてくる。
つけっぱなしになったテレビからだ。
明るく前向きな曲調だった。
世界平和と愛と幸せと真心と優しさと、とにかく世の中の常識で良いとされるモノを全部ぶち込んで、うま味調味料を二瓶使って味付けしたような歌だ。
すると保羽リコの頭の中で、かつて聞いた言葉がよみがえる。
『他人の幸せを心から祝福できるのは、自身が今まさに幸せであるか、よほど人格的に優れた人間の場合であって、私の場合は心の中で中指をおっ立てているよ。こちとら男日照りで心が荒れ果ててるっつーのに、親友面したバカップルの「ハッピーのおすそわけ」などというイチャイチャ画像が届いた時など、世界中の善意という善意を憎みたくなってしまうほどだ』
風紀委員会特別顧問のセリフが、保羽リコの脳裏を鮮明によぎった。
東原先生のお言葉だ。
核ミサイルの発射スイッチを持たせたら一週間で押す、と噂されている歴女、それが日戸梅高校で歴史を教える東原先生だ。この言葉は、風紀委員の新人教育がディスカッション形式で行われている時に、ふとした事で飛び出したのだ。
『自分が今まさに幸せでもねぇのに、人様の幸せを願えだぁ? 幸せは人から人へと伝わってゆく愛のバトンだぁ? ちょーしこいてんじゃねぇぞ、クソ馬鹿ボケナス低能ハッピーフリークが。誰かの幸せは誰かの不幸せ。誰かが休日を満喫するためには、誰かが休日を犠牲にして働いているっ。それがこの世の、社会の、人類の真理なんだよ。だからな、心底私はこう思うんだ。幸せな人間は誰かから呪われて当然、ってな……幸せってのは、踏みにじられた者たちの憎悪の上に成り立つんだから……なぁ?』
東原先生に同意してしまうと、何か負けてはいけないモノに負けてしまう気がした。この言葉を聞いた時は、幸せをリリースする能力が高すぎる東原先生に同情した。
しかし、今は違う。
保羽リコはもはや、東原先生に同情どころか、同感するしかない。
雨音が激しくなればなるほどに、心がなぜだか澄んでいく。
自らの想いに、まじりっけが無くなっていく。
保羽リコは乾いた笑みからさらに潤いを絞り落とすかのように、笑みを深くした。
純粋な敵意は、保羽リコを笑顔にして止まない。
純粋である事は良い事だ。心にとって良い事だ。善悪など関わりなく。
「……ふっ……ふふふっ……」
保羽リコは笑い、のろのろとリビングへと入ると、テレビの電源を消した。
幸せな歌は消えた。
喜びの声は途絶えた。
そして保羽リコは思った。
(許さない……)
森田君をたぶらかし、背徳の世界へ誘ったヨロズ先輩を、許しはしない。
保羽リコは両手をぐっと握りしめ、カレンダーを睨みつけた。
(月曜日だっ)
保羽リコは決意した。
月曜日の生徒議会の場において、風紀委員長として生徒会長の不純異性交遊の追及を行う、と。ヨロズ先輩を叩きのめしてやる、と。
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「――つまり、生徒会長に不純異性交遊の疑いがある!!」
森田家で自らが目撃した事をぶちまけて、保羽リコはどんっと机を叩いた。締めの言葉は、ヨロズ先輩の首を取るには十分すぎる威力を持っている。
保羽リコの舌鋒は鋭かった。
風紀委員長である保羽リコの告発に、生徒議会はざわついた。
生徒会長にして完璧超人であるヨロズ先輩の、初めてのスキャンダルなのだ。
だが、黙って聞いていたヨロズ先輩は席からすっと立ち上がった。
「とんでもない勘違いだわ」
ヨロズ先輩の反論は素早かった。
そしてヨロズ先輩の声は保羽リコとは対照的に、泰然自若としていた。それは否が応にもヨロズ先輩の言葉に真実味を帯びさせてしまう。
させてなるものかと、保羽リコは虚空を腕で薙ぎ払った。
「あんなふしだらな格好で出て来て、何が勘違いな訳!?」
保羽リコは鋭く追及するも、ヨロズ先輩は表情一つ変えない。
暖簾に腕押し、糠に釘。
余裕綽々と言った仕草で、ヨロズ先輩は議場を見回した。
「森田君の家に上がらせてもらったのは、雨宿りをさせてもらうためで、誤解を生んでしまう格好だったのは、濡れた服を乾かしてもらっていたからよ」
ヨロズ先輩の言葉に淀みは無い。
議場である階段状の大教室に並ぶ生徒たちへ、ヨロズ先輩は自らの言葉を届けた。
「それに保羽さんは、こう言ってたでしょう? 私はリビングから現れた、と。もし保羽さんの言っている事が真実なら、いかがわしい事をしようとしていた私がリビングからやってくるかしら? 二階の森田君の部屋から出てくるはずじゃないかしら? そもそも風紀委員長である保羽さんに、わざわざ痴態を見せにくるかしら? こういう騒ぎになる事が明白であると言うのに。みなさんには、そのあたりを少し冷静に考えて欲しいわ」
保羽リコの追撃より素早く、ヨロズ先輩は続けた。
「誤解を生むような事をしてしまって、皆さんには大変申し訳ないことをしたわ。議会の進行も阻害されてしまったし、私の不徳の致すところです」
流れるような弁舌は、階段状の大教室の奥の方まで染みわたる。各部長やクラス委員たちは落ち着きを取り戻し、安心したように顔を見合わせた。
「そりゃそうだよなぁ」
「そうよね、銀野会長のいう事だもんね」
「ありゃ酷い土砂降りだったもんなぁ」
「リコさんの言う事はほら、アレだし」
「そだね、いつもの事だね」
議会の形勢は一瞬で生徒会長に有利となった。
オセロで盛大な逆転負けを食らったかのような、鮮やかさ。ヨロズ先輩の手並みに、保羽リコはぐぬぬっと唸り、横手に控えていた風紀委員会補佐へと振り向いた。
旗色が悪い。
保羽リコには援護射撃が必要だった。
「香苗っ。銀野ヨロズの言っている事と、あたしの言っている事、どっちを信じるの!?」
「銀野会長」
「ぢぐしょぉおおおおぉ!!」
保羽リコは絶望し、大教室を飛び出した。
身内である風紀委員長補佐にさえ、すっぱりと断言される始末。
そびえ立つ権力の巨塔、政治の前では正義など虚しいもの――などという大それた事では無く、圧倒的な人望の格差があるだけだった。
「ちょっとちょっと、リコ。いつもの事とはいえ、ありゃまずいって……」
泣きながら部屋を飛び出した保羽リコに、香苗が追い付いてきた。階段下の薄暗い場所でうずくまっている保羽リコを見て、香苗は軽くため息をついている。
香苗は後頭部をがりがりと乱雑に掻いてショートヘアのソバージュを揺らし、倦怠感交じりのぬぼーっとした目で、心底面倒くさそうに保羽リコを見てくる。
ヨロズ先輩の首をとるはずが、呆気なく返り討ち。
保羽リコは悔しさのあまり涙が止まらなかった。
「ひっぐ……えっぐ、うっぐ……」
そんな保羽リコへと、香苗は膝をついて肩をトントンと叩いた。ぼたぼたと涙と鼻水を垂らす保羽リコへと、香苗はハンカチを差し出す優しさを忘れない。
「ほらほら、こんなトコでぐずってないで。より一層辛気臭くなっちゃうじゃないの。さっきの場は取り繕って来てあげたから、感謝しなさいな」
「なによ、この裏切り者ぉ……」
「あのね、裏切り者って、あんた、ちょっとは物を考えて――」
声を荒げかけた香苗は、ふっと息を吐いて肩の力を抜いている。アホの子は優しく何度も諭すしかない、という、やや諦めにも似た仕草だった。
「あんなトコで風紀委員会が銀野会長を疑ってます、なんて思われたら、それこそ身動きを縛られちゃうでしょうが。確固たる証拠もないんでしょ?」
「だって、この目で見たんだもん……」
「目撃証言だけじゃ、足りないっての」
ヨロズ先輩の人望を舐めちゃいけないと、香苗は言葉を続けた。
「物証なり写真なり、無きゃ駄目よ。あるいは現行犯で仕留めなきゃ」
「……」
「あんたが暴走してアホなコト言ってるなぁ、くらいならいつもの事だから大した問題にもならない。相手も下手に動いて疑惑を増すような真似は出来ないだろうし。銀野会長を攻めるんだったらさ、一筋縄で行く訳ないでしょ。『こういう騒ぎになる危険性を分かって居ながら、なぜそんなカッターシャツ一枚なんていう誤解されやすい恰好で、風紀委員長の前に出てきたんですか?』なーんて突っ込んだところで、適当にかわされるのが落ちだし。本気で銀野会長の首狙って、追いつめるのならさ、それ相応の準備が必要よ」
香苗はそう言いながら、再度ハンカチを差し出してくる。
保羽リコはピンときた。先程の香苗のつれない態度は――
「ま、まさか、香苗の、さっきの裏切りは、演技……?」
保羽リコが尋ねると、香苗は当然だとばかりに頷いた。
「何年あんたの尻拭いやってきたと思ってんの。そん所そこらの新米お母さんには負けないくらい、尻を拭くのはお手のものよ」
「さ、さすが香苗、グッジョブ!」
「あんたの心の広さもグッジョブよ、個人的に」
親指をぐっと立てる香苗から、保羽リコはハンカチを受け取った。
「頼もしい尻ふきマスターだわ、香苗」
「……うん、まあ、いろいろと嬉しくないマスターの称号だし、あんたも嬉しそうな顔しないで。ほんともう、バカっぽさが当社比五割増しになるから」
慰めているのか貶しているのか分からない言葉で補佐の香苗が喝を入れると、保羽リコは鼻をずずずっと吸い込んで、ぐっと拳を握りしめた。
「ありがとう、香苗。清太にこれ以上、道を踏み外させないわ」
「んー、まあ、仮にあんたの言う話が本当だったとしても、踏み外していると言えばそうだし、個人の自由と言えばそうだとしか…………」
「清太は純情だから、悪い女を見分ける目が無いのよ」
「そうかな? 森田清太は結構見る目ある方だと思うけど?」
あんたみたいなのでもちゃーんと姉として慕ってくれてるでしょうが、と香苗は言外に滲ませている。だが、それは間違いだと保羽リコは首を横に振った。
「清太は今、病気になってるようなものなの。まともな状態じゃないの。そこを銀野ヨロズに突かれてしまっているの。私には分かるの」
保羽リコは断言したが、香苗はあくびをかみ殺している。
「へぇ、そうなの……」
「私が一番清太の事を考えてるの。日戸梅高校に入学するために、清太が勉強を教えて欲しいって言って来た時なんて、嬉しすぎて三日くらい眠れなかったくらいよ」
「旅行前の小学生か」
香苗のそのツッコミを軽く受け流し、保羽リコは腕を組んで頷いた。
「それもこれも、清太は私と一緒に居たいから……」
「んー……適度な偏差値と自宅からほどほどに近いからじゃない? あるいはもっと別の理由の方が説得力あると思う」
「それをっ、あんなっ――銀野ヨロズみたいな、ヘンテコ女に引っかかってっ!!」
「まぁたしかに、銀野会長は何考えているのか良く分からないトコあるし、表情の変化も少ない方だし、時たま変な事も言ったりやったりするけど……変人って言葉をあんたにだけは言われたく無いと思う。銀野会長はさ、基本的な常識はある方だし、頭すっごく良いしさ」
香苗のその評価に、保羽リコは噛みついた。
「頭が良いからより性質が悪いんでしょっ……くぅう、銀野ヨロズめっ。いつも成績はトップで涼しい顔。あの女のおかげで私は万年二位。体育祭でもスターの座を奪われ、教師と生徒の人望を根こそぎもっていかれて……あまつさえ清太までっ」
保羽リコはハンカチをきーっと噛みながら、再び目を潤ませた。
「銀野さえ居なければ私は今頃、二人っきりの風紀委員会室で、『特別秘書』みたいなテキトーな肩書を与えて、清太とそれはそれは親密な一時を楽しんでいたはずなのにっ!」
ばんばんと床を叩きながら保羽リコは歯ぎしりした。
保羽リコのヨロズ先輩への悪評には、かなり私情がまじっている。ほとんど逆恨みに近いような有様であったが、保羽リコは気にしていないようであった。
香苗は目を瞬かせている。
「……あんたが風紀委員長になったのは、ほんっと人事ミスの賜物だと思うわぁ……」
そんな香苗の評価などどこ吹く風で、保羽リコはきっと大教室のほうを睨みつけた。
ヨロズ先輩を壁越しに睨んだのだ。
「あんの毒婦めっ……野外での不純異性交遊は禁止よ!」
「いったいどの口でそれを……」
「お天道様が許しても、風紀委員会が許さない。でしょ!? 香苗っ」
「……うん、まあ、公私混同はなはだしいけど、たしかに風紀の業務の一環と……いえなくもない、事もないような気もするわね……」
香苗は少しうつむいて、いぶかしむように眉を寄せていた。このまま無視するには少々きな臭い案件だ、と香苗は思ってくれたらしい。
それだけで保羽リコには心強かった。
頼もしい味方が一人増えたのだから。
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