第4話




     3



 それほど高い山ではない。

 ルートを選びさえすれば、傾斜がきつい訳でもない。

 森田君も小学校の遠足で上ったことがある山だ。


 小学生の足で踏破できるのだから、高校生の足なら問題ないはずだった。


 ノンステップバスの乗車にすら手こずる有様だが、土がむき出しの山道ではなく、車用に舗装された道を行く。

 そもそも山頂へ向かうのではなく、中腹の雑木林が目的地だ。


 しかし、森田君は苦戦していた。


(……お、重いっ……)


 森田君は額の汗を拭って、一息ついた。

 荷物を引いて行くとなると話は違う。


 トランクケースを引いての山道は、森田君にとって未経験の領域だ。


(まだまだ目的地まであるぞ、これ……)


 山が二回りほど大きくなったのではないかと、森田君には感じられた。

 けれど、トランクケースに入っているヨロズ先輩の手前、泣き言など漏らせない。男らしいところを見せたいという意地を頼りに、森田君は進み始めた。


 二人いても、頼れるのは自分だけ。

 妙ちくりんなプレッシャーを感じつつも、森田君は懸命に歩を重ねた。


 慣れないながらも、トランクケースを押したり引いたり、持ち方を変えてみたり。小石が車輪部分にぶつかって奇妙な音を出し、壊れたのかとぎょっとしたり。人間一人分の重さに悪戦苦闘し、汗を垂らしながら登り続け、乾き始めた草木の香りの中で深呼吸しながら、坂の合間にある平らな道で一息つく。そんな小休止の、三度目であった。


 坂の上から一台の車が降りてきた。


(……ん? あの車は……)


 車種を理解した森田君は、どきりとした。


 白と黒の車体に、特徴的な赤いトサカ。この車を見ただけで、ある人は頼もしく感じ、ある人は舌打ちし、ある人は神に祈る。

 という多面性を持つ不思議な車だ。


 今現在のところ、森田君は神に祈る側の人間となっていた。


 隣に住む幼馴染の上級生の影響で、森田君は警察密着番組を良く見ている。だからこそ、森田君の焦りは半端なものではなかった。警察屋さんの洞察力は異常だ。すれ違っただけで対向車の運転手が違法薬物を所持しているかどうか、判別出来てしまうレベルなのだ。


 そんな相手が、よりにもよって今この時、坂の上から降りてくる。

 森田君は心音の嫌な乱れを感じつつも、胸に手を当てて息を吸った。


(大丈夫、だいじょうぶ)


 森田君は自分に言い聞かせた。


(別に自転車の二人乗りみたいな目につく事してないんだから。ボクはたった一人でこうして、坂道でトランクケースを引いているだけなんだから)


 それがかなり怪しいことだという正常な判断力が、今の森田君からは消えていた。


(こうして普通にしていれば警察の目に留まる事なんて――)


 坂を下っていたパトカーが、森田君の五メートルほど手前で止まった。


(い、いやいや。だいじょうぶ、ダイジョウブ。パトカーだって、特に意味もなく坂道で一時停止する事くらい稀によくある。すぐに発進して通り過ぎ――)


 警察屋さんが一人、パトカーから降りてきた。


 森田君の願いを打ち砕くように、パトカーから降りた警察屋さんが森田君へと歩み寄ってくる。関わり合いになりたくないと思えば思う程、関わってくる。優秀な警察屋さんだ。


 非常にまずい。

 森田君の脇汗が止まらなくなった、その時だった。


「清太くん? やっぱり、清太くんじゃないか!」


 名前を呼ばれ、森田君ははっと顔をあげた。


 警察屋さんは見知った顔だった。隣家のお兄さんだ。森田君はほっとしたのも束の間、よりにもよってこの人と出会ってしまった、と苦虫を噛み潰しそうになった。


(この人相手は、まずいぞ……)


 この警察屋さんはニコニコと笑顔を絶やさないが、勘と洞察力が鋭いのだ。高校時分、大切にとっておいたアイスクリームを勝手に食べた犯人を捜すやいなや、七歳離れた実の妹であろうが情け容赦なく理詰めで追いつめ、泣いて白状させた実績がある。


 その手並みの見事さは、森田君の脳裏にこびりついている。

 脛に傷のある状況で対面するには、あまりにもよろしくない人なのだ。


 どうやり過ごそうかと頭を回転させつつ、普段通りを装うために森田君は一礼した。


「お久しぶりです」

「うんうん、久しぶりだね。元気だった? 体は大丈夫?」


 警察屋さんにフランクに聞かれ、森田君は頷いた。


「はい。近頃は、あまり風邪とかも引かなくて」

「そうなんだ。前は結構、体弱かったもんね。良かったよかった」

「それ、かなり前の話ですよ」


 朗らかに森田君は答えた。

 森田君は何気ない近況報告をしながら、路肩の茂み近くへとトランクケースを寄せる。トランクのキャスターに落ちていた木の枝を噛ませて、森田君は坂を下り落ちないようにした。


 そこで森田君は気付いた。

 トランクケースからほんの少しだけ、髪の毛が出ているという事に。


(――っ!? 出発前にもっと良く確認しておけば……)


 森田君は己の至らなさを悔いたが、よくよく見ると髪の毛ではなく、トランクの裏地の繊維がほつれているようだった。だが、警察屋さんがこれを見れば、どう思うか?


 今はそれが問題だ。

 職務質問を受けているようなものだ。


 呼び止められた時も『清太くん?』と疑問形だったことから、警察屋さんは森田君を認識して車を止めたのではなく、坂道でトランクケースを引いている人物であるから、車を止めたのだろう。人通りが無いので油断していたが、不審に思われても仕方ない。


 緊張のあまり、森田君の身体から疲労感が消えていた。

 そんな森田君の内心を知ってか知らずか、警察屋さんの目はトランクケースを捉えている。


「……ところで、清太くん。どうしたの? ずいぶん重そうなトランクだね。こんな山道をそんな重そうな荷物を引いて、何してたの、清太くん?」

「ちょっとトレーニングをと。鍛えたかったので」

「へぇ、そうなの。関心関心」


 のほほんとする警察屋さんの本心は、森田君には読めなかった。

 パトカーからは一人しか降りて来ていない。もう一人の警察屋さんはハンドルに片手をかけて、無線でなにやら話しているらしい。パトカーの窓を開けてはいるが、森田君たちの会話に聞き耳を立てている訳ではなさそうだ。職務質問は相棒に任せているのか。


 森田君とトランクに、さほど疑問を抱いていないのか。

 目の前の警察屋さんを何とかすれば、やり過ごせる。森田君はそう考えた。


 そう考えねば今にも足腰が抜けそうだった。


「でもあれだねぇ、清太くん、そんな赤いトランクケースを持ってたんだね。結構年季が入ってそうな鞄だし、たくさん荷物が入りそうだ」


 話題は必然的にトランクケースに移ってしまった。

 変に話題を逸らそうとしても、疑惑を増すだけだろう。と、森田君は頷いた。


「ええ、そうなんです。大きな物でも入っちゃうんですよ、これ」

「しかもこのトランク、TSAロックつきの奴じゃない?」

「……てぃ、てぃーえすえー、ですか?」


 聞きなれない言葉を森田君が聞き返すと、警察屋さんは怪訝な顔をした。


「ん? 知らないの?」

「はい。不勉強で」


 内心は焦りながらも、森田君は頭を掻きながら朗らかにそう言った。

 すると、警察屋さんが森田君をまじまじと見てくる。


「アメリカの出入国時には、すごく厳しい荷物検査が行われていてね。空港職員が目視確認することもあるから、荷物に鍵を掛けていると鍵を壊される事もあるんだ。でもこのTSAロックだと、専門職員がマスターキーを持っているから、鍵を壊される心配がないんだよ」


 警察屋さんはすらすらとそう言い、言葉を付け加えた。


「まあ、旅行好きの友人が言うには、それでも鍵を壊される時は壊されるらしいんだけど。このトランク、良い感じに使い古されてて、長期の海外旅行をするような人が持ってそうな感じだけれど……なんで、清太くんがこんなものを持ってるの?」

「親戚の叔母から譲り受けたんです。でもほら、ウチって海外旅行とかあんまりしないし、しても国内の温泉とか城とか、寺社巡り程度ですから、使う機会がまったくなくて。けどデザインが気に入ってて、倉庫で眠らせておくのも勿体ないなぁ、って」


 森田君はとっさに口から出まかせを言った。


 少々口調が早かっただろうか? ちゃんと平静を装えたろうか? 言葉選びが不自然ではなかったろうか? 言葉が多すぎただろうか? そもそもこんな説明、坂道でトランクケースを引いている理由としてはかなり苦しいのではないか?


 笑顔の仮面の下で冷や汗を垂らしながら、森田君は自己分析を行っていた。


 だが予想外に、この言い訳は警察屋さんに通じたらしい。

 警察屋さんは笑みを深くした。


「なんだ、そうだったの」

「ええ、そうなんです」


 森田君ははきはきとした声を心掛けてそう言った。

 警察屋さんは納得したように頷いている。


「そっかぁ。暖色ってほら、女性が好みそうな色だから少し変だなぁ、って思ったんだよ」

「そうですか?」

「けれど、そんなのは偏見だよね。ごめんね。いけないよね、まったく」


 申し訳なさそうに頭を掻く警察屋さんを、森田君は手でやんわりと制した。


「いえ、そんな。謝ってもらうような事じゃ。ただ、ボクは赤色がとっても好――」

『っいっ、くしゅんっ!』


 そのくしゃみは森田君の言葉を途切れさせた。


「……………………」

「……………………」


 森田君も警察屋さんも、その場の時が止まったのかというほど、ぴたりと動きを止めた。

 さあっと血の気が引く――という事はきっとこういう事を言うのだろう。


 と森田君はふと思った。

 その冷静さは、指を切った時に血が噴き出してくるまでの一瞬の間のようなものでしかなく、すぐさま心臓が嫌なリズムを刻み始めた。


(何とかやり過ごせたかもしれないのに、先輩、なにしてくれてるんですか……)


 警察屋さんがトランクケースを凝視している。

『いやぁ、最近の野鳥も花粉症で苦労してるんですねぇ、はははっ』などという冗談を森田君が差し挟める雰囲気ではない。


 どう考えてもくしゃみは人間のもので、山林の間からではなくトランクケースから聞こえてきた。少なくとも森田君には、やたらと大きな音だと感じられた。


「……清太くん?」

「はい」

「ちょっとそのトランクケース、見せてもらえるかな? 素敵なデザインだねぇ。実は旅行用に今度、買おうかと考えていてさ。その参考にしたいなぁ、って。どれくらいの容量があるのかな? 手に取って確かめさせてもらいたいんだけど、いいかな?」


 当然と言えば当然だが、警察屋さんが遠回しにトランクの中身を確かめようとしてくる。そんなことをさせるわけにはいかないが、ではどうすりゃいいのかと森田君はまごついた。


「え、あの、それはちょっと――」

「どうして? 見られると困るものでも、入っているのかな?」


 ええ、まったくその通りです。

 困りまくります。

 生徒の模範たるべき高校二年生の生徒会長様が入っております。


 森田君はそう思ったが、見せるわけにはいかなかった。警察密着番組で、違法薬物の所持者が警察屋さんに追いつめられて、もう言い逃れることなど不可能であるのにも関わらず見苦しい言い訳を長々とする――あの心境がよく理解できた。


 額に吹き出してくる汗が抑えられない。

 呼吸ですら、注意しないと荒くなっている事が悟られてしまう。坂登りの発汗で誤魔化せるだろうか? いや、相手は誰あろう、警察屋さんだ。


 森田君の様子が変わった事に気づいているだろう。追い詰められた森田君は、顔を引きつらせないことに神経を使いつつ、手をぱたぱたと横に振った。


「そういう訳ではないんですけど。やっぱり個人的な物を他人に見せるのは……」

「なんで、そんなによそよそしいの?」

「え?」


 警察屋さんの疑問に、森田君は首を傾げた。


「さっきから気になってたんだよ。敬語ばかり使うし、なにか不自然だよ、清太くん」


 そう警察屋さんに指摘され、森田君は己の不自然さを痛感した。警察屋さんを警戒するあまり、自分が不自然な事をしている自覚すら無かったのだ。

 どう答えたらよいものか。森田君は必死で理由を探した。


「それは、その……ほら、今はお仕事中みたいだから。その制服を見ると思わず謝りそうになるというか、背筋が伸びると言うか。それに久しぶりに会うし」

「昔から家族みたいな近所付き合いしてきたじゃないか。荷物くらいで、何を今さら」

「ええ、そうですよね。でも、今は同僚の方も一緒で――」


 森田君がパトカーをちらりと見てそう言うと、警察屋さんはきょとんとした。

 そして警察屋さんは、思い出したように笑みを深くした。


「ん? ああ、そうだね。そうだった。ごめんごめん、配慮が足らなかったね。……すいません、本田さん。少しあちらの方、向いていてもらえますか? 出来れば車の窓も閉めてもらえると助かるんですが――いえその、彼と二人きりで話したくて。あ、はい、ありがとうございます。…………さてと。清太くん、これでいいかな?」


 パトカーを振り返っていた警察屋さんは、そう言って森田君へと向き直った。


「ご、ご配慮ありがとうございます」


 森田君も頭を下げざるを得ない。


 白々しい会話である。

 お互いにそれを理解した上で、流れを一切損なわずに次々と追い込んでゆく手並みは、さすが警察屋さんである。森田君とは場数が違う。


 物腰と口調こそ柔らかいが、警察屋さんの言葉選びと眼差しは正反対だった。


「大丈夫大丈夫、よほど変な物が入ってない限り問題ないから」


 警察屋さんはそう言って、トランクケースに近寄った。

 よほど変な物が入っているのだから、森田君としてはたまったものではない。


「あ、でもその、いきなり中を見てびっくりしちゃうとアレだから――」

「ねぇ、清太くん……これ以上、こんな不毛なやり取りを続けて、お互いの有意義な時間を潰すのは止めにしようよ。ね?」

「……は、はい」


 警察屋さんのがらりと変わった声のトーンに、森田君は頷く事しかできない。

 蛇に睨まれた蛙。鷹の前の雀。猫の前の鼠。こういった諺にどうして魚類が含まれていないのか、脊椎動物界における差別意識の片鱗が見える――などと言うどうでもよい思考ばかりが森田君の脳裏をよぎり、頭が有効な冴え方をしてくれない。


(まずいっ……)


 まずいまずいまずい……

 森田君の焦りは、虚しく空回るだけ。

 具体的にどう行動すればいいのか、まるで分らない。


 状況を切り開くアイデアが、まったく浮かんでこない。

 警察屋さんはトランクケースに近寄り、引き倒して一気に開き、目を見開いた。


「こ、これは……!」


 もうだめだ、と森田君はぎゅっと目をつむった。




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