第3話




「――では、森田君。始めましょう」


 ぽんっと手を叩いて、ヨロズ先輩がトランクケースに近寄った。


「さっそくですか?」

「試行錯誤あるのみよ、森田君」


 と言うなり、ヨロズ先輩は長い髪を手早く纏めると、うなじに見とれる森田君をよそに、下足室から持ってきたシューズを履き、トランクケースの中に入った。

 ヨロズ先輩はとても器用に身体を畳んでいる。身体が柔らかいようだ。


「さあ、閉めて、森田君」


 ヨロズ先輩の貴重な上目遣いに、森田君はドギマギしつつも疑問をぶつけた。


「あの、空気穴とか、大丈夫ですか?」

「ええ、空けてあるわ。万全よ。さぁ、いきましょう」


 物事に対するヨロズ先輩のこのスピード感。

 生徒会での仕事ぶりそのままだと、森田君は目を白黒させた。


 トランクをぱたんっと閉めて、かちゃりとロックしても、森田君は頭がぼんやりしたままだった。目の前の赤いトランクケースに、今まさにヨロズ先輩が入っている。夢の続きを見ているのではなかろうかという感覚は、トランクケースの重みによろめくと消えた。


 前途多難だ。

 玄関のわずかな段差ですら、ひどく力を使う。

 なにぶん、森田君にとって経験のない事だ。


 なるべくトランクをソフトに下そうとしたが、森田君にとってはかなりの重量だった。ハードランディングしてしまい、トランクの中でゴツっという鈍い音がする。


 ヨロズ先輩が身体のどこかをぶつかったのだろう。

 森田君は慌ててトランクケースの横に跪いた。


「せ、先輩!? 大丈夫ですか?」

「……え、ええ。けれど、できれば、もう少し優しくして欲しいわ」

「が、がんばります」


 ヨロズ先輩のくぐもった声にそう答え、預かっていた鍵で玄関扉をロックする。

 それだけで森田君は一息ついた。

 外へ出るだけでこのありさまである。ここから道を行き、バスに乗り、山を登り、穴を掘って、ヨロズ先輩を埋めなければならないのだ。


 道は遠い。

 障害も多そうだ。


(……あ、あれ? ボクは、今、何をしているんだ? たしか昨日、先輩に告白して、それがどうして、今日こんなことに……?)


 森田君の至極もっともな疑問に、しかし誰も答えてはくれない。

 学校とは違う。教えてくれる人は居ない。

 自分で学んでいくしかない。


(こんな感じで良いのだろうか?)


 探り探り、森田君は歩を進めた。

 なるべく不審に思われないよう、自然にトランクケースを動かそうとしながら、日常に潜む諸行無常の真理を森田君は実感していた。


 バス停までの平坦な道のりも、特別な荷物と一緒では訳が違う。

 トランクケースの中に人が入っている。

 ただそれだけの事で、身体が強張る。喉が渇く。瞬きを何度もしてしまう。


 悪い事をしている訳ではないはずが、森田君の神経は過敏になっていた。すれ違う通行人への警戒感など、今まで抱いた事のない度合いだ。

 街角の監視カメラさえ、目に入るたびにビクビクしてしまう。


(合意、これは合意の上の行為なんだっ。トランクケースに人を詰めて山中へ運んで地面の下に埋めようとしているけれど、別に法を犯している訳じゃないんだっ。やましくない、やましくなんてないっ。堂々としていればいいんだ!)


 森田君は自分に言い聞かせる。

 緊張しているせいなのか、いつにもまして警察屋さんの姿が多く感じた。


 トランクの車輪は滑らかに動いてくれる。

 それが唯一の救いと森田君には思えてくる。


 赤信号で待っている時、散歩中の飼い犬がトランクケースめがけて吠えた。それもかなりの吠え声だ。犬が異常を嗅ぎ取ったのだろう。

 実に鼻の利く犬だった。もし森田君が麻薬探知犬に荷物をチェックされる運び屋なら、生きた心地がしなかっただろう。


 飼い主は「すみません」と頭を下げて、犬の首輪を引っ張って去っていった。

 森田君は冷や汗を拭い、トランクケースのヨロズ先輩へと声をかける。


「犬ってすごいですね」

「…………」


 トランクに声をかけるが、ヨロズ先輩の返事はない。森田君は不安になったが、死体という設定をヨロズ先輩は守っているのだ、と思い返した。

 つまり孤立無援だ。

 そう気付いて、森田君は気を引き締めた。


 あり得ないと分かっていても、すれ違う人に、車に、犬に、猫に、疑いの眼差しで見られているのではないか? 猜疑心を振り払いながら、森田君は歩かねばならない。重い荷物とあいまって、バス停に到着するだけで森田君は消耗していた。


 乗るはずだった時刻のバスは出発した後だった。

 しかし、次のバスはすぐに来た。


 ノンステップバスの入り口のわずかな段差が乗り越えられず、車いす用のスロープを出してもらおうとすると、乗客のおじさんが手伝おうかと声をかけてくれた。

 森田君はお辞儀して、手伝って貰う事にした。


「ありがとうございます」

「ずいぶん重いねぇ。旅行帰りかい?」


 おじさんはトランクを引き上げながら、森田君にそう尋ねた。


「え、ええ。まあ。お土産を買いすぎちゃいまして」

「重い物を持ち上げる時は、腕と腰でやろうとしちゃいけないよ。足を使うんだ」


 おじさんはそう言って微笑みながら自身の太ももを叩き、少しくたびれたスーツの襟を直すと、バスの後部座席で本を読み始めた。本当に良い人だ。

 人の親切が悪い意味で森田君の胸に刺さる。

 善意というものがこれほど鋭いものだと、森田君は知らなかった。


(――ごめんなさい、ごめんなさいっ、おじさんっ。ご厚意を受ける資格なんて、本当はこれっぽっちも無いんですっ)


 森田君が心の中で頭を下げつつバスに揺られていると、乗客の話声が聞こえてきた。


「ほんとに?」

「うん、誘拐事件が起きたらしいよ」


 森田君の前席で、大学生らしき二人組の男女がそう話し合っている。


「そんな物騒な事件、ここらでホントに起こるのか……?」

「まだテレビのニュースにはなってないけど」

「こんな明るい時に? まだ昼過ぎだぞ」


 大学生らしき男が首を傾げると、大学生らしき女が人さし指をぴんと立てた。


「ほら、ちょっと前に検問があったでしょ?」

「ああ、あったあった」

「あれ、そのための検問なんじゃない? 事件の目撃者がいるんだって」


 二人組の話は出鱈目ではないな、と森田君は直感した。

 町中に警察官の姿が多く感じられたのは、このせいだったのだ。犯人逮捕のために非常線が張られているのだろう。よりにもよってこのタイミングで、なんという空気の読めない事件を起こしてくれたのだと、森田君は犯人に強い憤りを感じた。


「若い男がトランクに女の子を詰め込んだらしいよ」

「物騒だなぁ」


 と、大学生らしき二人組は話し続けている。

 おそらく車のトランクの事を言っているのだろう、と頭では冷静に考える事は出来ても、森田君の脇汗は止まらなかった。首筋もじっとりと湿っていく。


(早く目的地に着いて、おねがい……)


 森田君はそう願った。

 乗るまで一苦労。乗っても一苦労。乗った後も一苦労。


 なんとも苦労続きの休日だった。




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