お父さんは難しいお年頃
クダラレイタロウ
4/7~4/13
4/7
わたしのお父さんは変なところが完ぺき主義だ。ダスキンのモップは青いでっかいのが左で黄色い小さいのが右にないと目に見えてそわそわしだす。逆だったら、隙を見て無言で直す。階段の電気のスイッチは上と下にあるから、ONOFF逆になっちゃうのはしかたないのに、下の今のスイッチがONで点いててOFFで消えてないと嫌らしい。下でONの状態で電気が消えてたら、わざわざ暗い階段をそろそろゆっくり上っていって上でONにしてから、降りてきてOFFにする。なんで? って訊いたら、上はONOFFって書いてないけど、下は書いてあるじゃんと言われた。目から鱗が一回は落ちたけど、よく考えてみたらだからなんだって話だ。
そして今日の朝、私は気付かなかったけど、お父さんの変てこな完ぺき主義が新しくスタートしていたらしい。
わたしが居間に下りてったら、ソファからすっくと立ち上がって会社に行った。いつもより早い気がする。しかも、そんなお父さんの姿を見て、お母さんは呆れたみたいにふう、と息をついた。ちょっと不思議だったけど、眠かったからそこまで深く考えられなかった。
試着でもう見てるからいいのかもだけど、今日は私、中学の入学式だ。初めて学校に行くために制服に袖を通した。それについてノーコメントでそそくさと会社に行かれてしまったのは、眠たいながらもちょっと悲しかった。きっとお仕事のせいなんだろうと思って、わたしはお母さんの買ってきたバターロールをかじる。私より遅く起きてきたお兄ちゃんのが遅刻ぎりぎりのくせに、私の制服姿をじろじろ見てきた。遅れちゃうよと指摘したら、ちょっとうれしそうに「む、おお」とバターロールを噛む歯を止めて返事していた。うちの男の人たちはよくわからないところがある。
4/8
お父さんの異変にきちんと気付いたのは、今日の晩ご飯が終わってからのことだった。お母さんのなんちゃってボルシチを飲み干して、ご馳走様ってタイミングでお父さんが帰ってきた。居間の戸が開かれると、いきなり顔をしかめまくったお父さんがただいま、と言いながら入ってきた。私たちは家族だからもう知っている。この顔をしてる時のお父さんは、仕事の現場でモルタルを浴びてきている。モルタルを浴びてきてしまった日は、身体中がむずむずしてしょうがないんだそうだ。どんなにお腹がすいていてもまずお風呂に入りたがる。すぐお風呂に入れるか、真っ先にお母さんに訊ねに行く。お母さん、お風呂入れる? って。
だけど今日は違った。それもむちゃくちゃに。
「お母さん、眞智はもうお風呂入った?」
眞智は私の名前だ。急に私の名前が出てきてびっくりしたので、お父さんのほうを見る。だけど、家族みんな予想していない質問だったから、お兄ちゃんもお母さんもきょとん顔でお父さんを見ていた。
丸い目のままお母さんがまだ、と答えると、じゃあご飯食べる、と返事した。でも顔のしかめっぷりを見る限り、間違いなくモルタルを浴びてきてる。
「お風呂じゃなくていいの?」
みんなが思った疑問を何故かお兄ちゃんが訊いていた。そうしたらお父さんはなぜかものすごく得意げな顔になって
「ばかだなあ、貫。眞智ももう中学生だぞ。父親が入った後の風呂なんていやだろ」
貫はお兄ちゃんの名前だ。言われたお兄ちゃんはそうなの? って顔で私を見た。何故かちょっと不安そうな影も差していた。
確かにモルタルを浴びた日のお父さんが入った後の湯船は、モルタルでいいのか何なのかよくわからないものが湯船に浮いていて、身体につくとざらざらした感じがして、ちゃんとシャワーで流してから出ないと、気持ち悪かった。
だけど、別にそれはモルタルが悪いんであって、お父さんが悪いわけじゃない。お仕事なんだから、しょうがないと思っていた。
「気になる?」
今度はお母さんが訊いてきた。何故か呆れ顔だ。
「お父さんは別にいいけど、モルタルはちょっとやだ。だけど別に先、入っていいよ」
一応正直に答えた。ご飯も食べ終わった後だし、いつもならもうちょっとまったりしてからお風呂に入りたい。
「いやいや、だめだろう。お前も年頃なんだから、先に入っちゃいなさい」
何故か食い下がってきた。食い下がってくるなんて思わなくて、一瞬どう返事したらいいかわからなかった。
「まあ、そう言うなら、お言葉に甘えて入っちゃうわ」
食後にまったりはしたいけど、まったりし過ぎるとお風呂に入るのも億劫になる。いつも通り何も浮いていない湯船に入れるならそのほうがいいし、そこまで言うなら面倒だから入ってしまおうと思った。
いざ入ってみると、大黒柱でもなんでもないのに、なんで私が一番風呂に浸かってるんだろうっていう疑問が生まれて、いつも通りゆったり湯船につかれなかった。
4/9
「昨日のアレって、なに?」
昨日の一番風呂の一件を、ふと晩ご飯の餃子をお母さんと一緒に包んでいる時に思い出して、訊いてみた。何か、お母さんは訳知りっぽい反応だったなっていうのを思い出して、訊いてみたくなった。ああ、あれと、お母さんもすぐに合点がいったらしい。
「お父さんの言葉通りよ。どこで吹き込まれたのか知らないけど、そろそろお父さんを本格的に嫌いになる年齢だろうから、距離を置いてあげようと思うんだって思いつめた顔で言ってきてた」
「馬鹿じゃないの」
率直に呟くと、ホットプレートの見張りをしてるお兄ちゃんがうげ、と嫌そうな声をあげた。
「母さんとおんなじ言い方」
言い捨てたお兄ちゃんは、餃子に羽をつける為に小麦粉を溶いた水をホットプレートに流し入れた。ジュウ、と音が鳴り、反射的にお腹が鳴る。そのせいでお兄ちゃんの感想は無視するしかなかった。
ともあれ、思春期の娘をおもねるのがお父さんのトレンドらしい。距離を置いてくるというのだから、楽なのかもしれないけど、昨日みたいな的外れな気遣いなら、面倒かもしれない。とりあえず、放っておくしかないのだと思う。どうせお父さんの方針なんて、そうそう私には変えられない。
4/10
中学校にはまだ慣れられそうにない。授業中は何だか無性にトイレに行きたくなるし、小学校から一緒のクラスの子達の制服姿にも何だか慣れない。
友だちの理沙子ちゃんなんかは女の子にしては背が高くて、見るたび大人っぽく見えてどきっとする。理沙子ちゃんに慣れないから、それとセットでみんなに慣れられないのかもしれない。何か、自分だけまだ小学生みたいで、成長できていないような気がする。
理沙子ちゃんが、隣の校区の子を連れてきた。類友ってやつなのかわからないけど、これまた大人っぽい子だった。話してみたらいい子そうだし、仲良くなれると思うけど、私だけすごく子どもっぽい気がする。口について言うほどじゃないけど、周りから見たらどうだろうとちょっと気になった。身分フソウオウって言葉が浮かんだ。
4/11
理沙子ちゃんが連れてきた子は、絢実ちゃんて名前だ。理沙子、絢実、眞智。何か、やっぱり私だけ芋臭い気がした。名前からしても。
4/12
「うちのお父さんって、まじ最悪なんだよね」
絢実ちゃんが切り出した。何でも太ってて汗臭くて、事ある毎に絢実ちゃんに愛してると囁くらしい。しかもそのタイミングが、絢実ちゃんにとってはとってもバッドタイミングらしくて、空気が読めていないらしい。
「あたしもお父さんキラーイ。うざいよね」
理沙子ちゃんもまくし立てるみたいにお父さんの悪口を言う。そうだったの? というエピソードのオンパレードだ。
「まっちぃは?」
昨日あたりから私はまっちぃと呼ばれることに決まった。絢実ちゃんの提案でこの呼び名になって、伸ばしぼっこじゃなくてちっちゃい「ぃ」ね、と理沙子ちゃんに謎の指定をされた。
「うちは別に。ときどきおかしなこと言うけど」
ダスキンのモップの話と、階段の電気の話をついでにしてみた。何となく、距離を置いてあげよう発言のことは言わないでおいた。二人は自発的に嫌っている感じなのに、私だけ親の方から距離を置かれているなんて、かっこ悪い気がしたからだ。
二人からすればインパクトの薄くてオチのない話だったけど、くすくす笑ってくれた二人はやっぱり大人っぽくてキレイだった。
「なんかまっちぃのお父さんは和むね。羨ましいなあ」
羨ましいのかな? めんどくさいだけだけど。
「お父さん、ちょっと天然っぽいもんね」
お父さんを見たことのある理沙子ちゃんが付け加えた。
「天然? そうかなあ?」
「里井家はみんな天然っぽい雰囲気じゃん」
里井は私の苗字だ。遠まわしに私も天然って言われたらしい。自分ではよくわからない。でも一つわかった。確かに世間では、私の年頃の女の子たちはお父さんを嫌いになりだしているらしい。
4/13
理沙子ちゃんと部活見学してから家に帰ったら、お兄ちゃんがソファで寝ていた。ハッピーターンの袋が捨てられずに置かれてたので捨てておいた。ご飯はまだかかるらしいけど、手伝えることはないらしい。暇だったので、お兄ちゃんが食べ残したハッピーターンのファミリーパックから一枚だけつまんだ。甘い粉が口の中でとろけた頃に噛み砕いてさくさくさせたら、美味しかった。飲み込んだときにお兄ちゃんの余分なものが乗っかった胴回りが視界に入ったから、それ以上は手を伸ばす気になれず、残りはお菓子箱に戻しておいた。ソファに戻ると、お兄ちゃんが寝返りをうっていたらしく、寝顔をさらしていた。天然っぽいって理沙子ちゃんに言われたのを思い出した。たぶん家族ごと天然っぽいって思われているのは、このいろいろぼんやりふわふわしているお兄ちゃんのせいかもしれない。何かちょっと腹立ったから鼻を指でつり上げて豚っ鼻にしていたずらした。起きなかった。それどころか何かちょっと微笑んだのが腹立たしかったから、今度は鼻をつまんだ。起きた。怒るかと思ったら、何故か起きて早々はっとした顔をして、お母さんに明日からの再放送のドラマがなんだったか訊き始めた。お母さんが覚えてないと答えると、明日朝刊見なきゃ、と一人ごちた。
今日の朝刊を見てみると、高視聴率ドラマ過ぎて今までさんざん再放送されていたドラマが今日、最終回だったらしい。きっと観すぎてつまらなかったから寝ちゃったんだと思う。それがやっと終わったから次のドラマが気になるんだろうと予想がついた。お兄ちゃんはテレビドラマが何故か大好きだ。小学生の頃から好きで、お母さんがテレビから無理やり引きはがして風呂に入らせた時は、一緒に入っている私の横で大事な回なのに、と言ってすすり泣いていた。高校生になった今もそれは変わらず、ドラマが観たいが為に高校での部活に入らなかった。何か入っとけよというお父さんが抗議すると、五時の再放送に間に合わないから嫌だと言ってのけた。そんなだから胴回りに肉がつくのだ。
「眞智、部活は決めたの?」
お母さんが私に訊いてきた。
「理沙子ちゃんが女子バスに入るんだけど、マネージャーがいなくなったらしいから、女子バスでマネージャーやることにする」
バスケをやらない側に回る私も、お兄ちゃんのことは言えないかもしれない。だけどその答えにお母さんは特に気を悪くした様子はなく、おしょうゆっぽい匂いが立ち込める鍋の中に視線を戻していた。
答えている間にも、お兄ちゃんはまたうとうとし始めている。私が鼻をつまんだことはどういうわけかスルーされたらしい。
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