狂った歯車
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狂った歯車
思ったよりも国道1号線は空いていた。この分なら時間内に目的地に着けそうだ。今回ばかりは、俺も良心が痛む。まさか、こんな子供だとは。小学校低学年だろうか? 俺はバックミラーで不安げな表情の子供を確認した。
この仕事を始めて、半年になる。今までかかわった仕事は今回で十回目だ。仕事の内容はわからない。ただ、明らかに危険な仕事が一度あった。それは銀行強盗を乗せた車の運転だった。そのときは、何とか警察の車を巻いたが、それ以来運転の技術を買われたようだ。
「おじちゃん、どこに行くの? おじちゃんはいい人それとも悪い人?」
「すぐ着くよ。おとなしくしてなさい」
「早くおうちに帰りたいよ」
「……さっきいっしょにいたお兄さんとお姉さんは誰なんだい?」
「知らない人だよ」
「あの人たちとはどこで知り合ったの?」
「…………」
「ここに来る前は何をしてたの?」
「知らないおじちゃんと海の近くのおうちにいたよ」
「何か話した?」
「ううん。でも、カップラーメンもらった」
「……そのおじちゃんとはどこで知り合ったの?」
「塾の帰りに」
「知らない人について行ったらダメだって、先生に言われなかった?」
俺は自分の声の大きさに気づき、ハッとした。誘拐されたとして、俺に何ができる? せいぜいこの子の無事を願うだけだ。俺はハンドルを握る手に力を込めた。後ろの家族連れの車が国道沿いの大型ショッピングセンターの駐車場に向かう。この子も今ここにいなければ、家族といっしょに商業施設に来ていたかもしれない。今頃は春休みだろう。
「ぼく、ゆうかいされたの? おじちゃんも悪い人の仲間?」
「俺は仲間じゃないよ。だから何も知らないんだ」
「じゃあ、ぼくを助けてくれるの?」
「……お父さんはお仕事何をしてるの?」
「お医者さん」
「お家はどこにあるの?」
「青葉台」
絵に描いたようなブルジョワだ。誘拐する子供としては最高のターゲットになるだろう。まあ、いずれにしても俺には関係のないことだ。俺はアクセルを踏み倒し、前を走るワゴン車を追い越した。ただ、Aの指示を遂行すれば、それで終わり。俺は単なる歯車。余計なことには首を突っ込まない。それが俺の処世術だ。ところが、今日は子供のせいか、不思議と忘れていた感情を刺激される。忘れていた? いや、違うな。ただ、歯車として生きていくには余計な感情がある。愛はその最たるものだ。もっとも愛の何たるかを知っているわけではないが。ときどき愛に触れたり、与えたいと思えるときがある。そんなとき俺は俺という存在に対する根本的な問い直しを迫られ、過去を遡り、もはや取り返しのつかない過去に苦しめられる。そして、俺は聞く。「仕方ないじゃないか!」という内奥の叫びを。
「ねぇ、おじさん。おじさんはどこに住んでるの? お仕事は何をしてるの?」
「……お、俺のことなどどうでもいいだろ」
俺は誰かに自分のことを訊かれたのが、久しぶりだったので、思わず動揺してしまった。
「ごめん。いろんな仕事をしてたよ。タクシーの運転手をしたり、工場で働いたり、雑誌を作ったり。おじさんはいわゆるフリーターだよ。知ってるかな? ぼくはおじさんみたいになったらダメだよ」
「フリーター、聞いたことあるよ。ぼくは大きくなったら、パパの後を継いでお医者さんになるんだ」
「そうか。それじゃあ、うんと勉強しないとな。何の科目が好きなんだい?」
「算数」
「そうか。俺も算数はちょっと得意だったよ」
俺はそう言って、バックミラー越しに笑い掛けた。子供はいいな、と俺は久しぶり――自分でも思い出せないくらい――に晴れやかな気分になった。自分にもこういう時代があったのだ。そこからどんなに隔たったことか。俺は遠い追憶に浸った。
信号が変わったことに気づかず、後ろの車からクラクションを鳴らされた。俺は疚しさという感情をもたらした出来事を思い出していた。中学時代のバレンタインデーのときの出来事だった。俺は幼馴染の女の子からチョコをもらった。嬉しかったが、友達から冷やかされるのが怖かった。だから、敢えて何とも思ってないことを示したかった。俺は友達にチョコを配った。まさか彼女にばれるとは思ってなかった。それ以来、俺は彼女と言葉を交わしたことはない。
この子もいずれは友情や愛という感情に、またそのネガとしての孤独に巻き込まれるだろう。結局、人はこの座標軸から逃れられない。またこの座標軸の中にしか幸せはない。たとえば、ノーベル賞を取ったとしても孤独な人間が幸せを知ることはないだろう。孤独の友達は死だけだ。
俺はまだ生に執着している。俺がこうして感情を押し殺して生きているのは、孤独だからだ。孤独である以上、感情は余計だ。楽しいことなどないとわかり切っているから。それゆえ、孤独な人間は人に対して、あるいは希望に対して極度に臆病になる。ひとたび希望を見せられると、世界が一変する。しかし、ぬか喜びじゃないだろうかという疑いを消すことができず、終いには裏切られるのが怖くて自ら孤独を選んでしまう。しかし、子供に対しては? この子に対しては何ら警戒心を感じない。
俺は何とかして、この子との時間を引き延ばしたくなった。カーナビには目的地までの残り時間は三十分と表示されている。逃亡するか?
交差点に来た。カーナビは左折の指示を出している。俺はウインカーを出さない。このまま直進しよう。
張り詰めた感情を破ったのは、携帯の着信音だった。Aからだ。
「予定変更だ。悪いが、今日一杯は子供を預かってくれないか? 追って指示する」
「了解」
俺はバックミラー越しに子供を見た。俺を見てキョトンとしている。
「おい、坊主。名前は何て言う?」
俺は笑みをかみ殺しながら、子供に訊いた。(了)
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