【I-028】白き花の影
小さな会議室の円卓の上で、魔術将軍の細い指が指し示したのは……アロナーダとは対照的に、グランフェルテから遥か北の地。世界を眺め下ろす『誇りある不死鳥』の、その首の部分にある、フィジテールという国名だった。
「ここは古くからエクラヴワ領となっておりますが、雪国とのことで、資源も少ない貧しい国。もともと、国民は厳しい暮らしを強いられておりましたが……十年前に現在の女王が即位してからは特に、その様相が強くなっております」
彼女の言葉に、皇帝と技術元帥は地図に目を落としながらもふうんと頷いたが、騎士兵団の副帥ルネは、あまり反応を示さず聞いている。
「女王は、それまでの君主のようにエクラヴワ大王の支配を、従順に受け入れることに抵抗があるようなのでございます。常に気を張って、軍力を増強し続けているとのこと」
「では、随分と気が合いそうですな、陛下」サイラスがそう言って、茶化すように向かい側のヴィクトールを見る。「この女王がうら若き美女かどうかはさて置いて、それこそ仲良くしようと誘えば、手を繋いでくれるのではありませんかな?」
「そんな単純なことではありませんのよ」メイリーンが呆れながら、彼の横顔を睨む。「エクラヴワに支配されていながら、危険を承知で武力行使をちらつかせるような国。当然、第三国が攻め行けば更に態度は硬化するでしょう。……実際に二年前、エクラヴワの指示でフィジテールに軍を向かわせた隣国ラントマンは、直ぐに返り討ちに遭っております」
それを聞いてサイラスは、おお怖いと身を竦める素振りをする。ヴィクトールは組んでいた腕を卓の上に置き、参謀役を努めるメイリーンの方へ少し乗り出した。
「では、今回は同盟だのと平和的交渉ではなく、真っ向から行くということか」
「ええ。三大兵団、全てを率いて乗り込む必要がございます」彼女は不敵な微笑みを返す。「しかし、エクラヴワが手を焼く犬を手懐ける……魅力的でございましょう?漸く我が国の本領が発揮できるというところですのよ」
すると今度はサイラスが、嬉しそうに身を乗り出してきた。
「では、私も漸く活躍出来るということですな。……いや勿論、ディアーヌ様をお護りするのもとても楽しい任務ではございましたが、そればかりでは腕が鈍ってしまいますからな」
「ああ。大いに活躍してもらおう」
ヴィクトールは言うと、次にメイリーンの向かいに座す騎士兵団の副帥に視線をやる。
「どうだ、ルネは。当然ながら騎士兵団には最前線で軍を統率してくれる事を期待するが、所感はあるか?」
この席に座したその時点から殆ど動いていないように見える彼は、やっと顔の向きだけを動かし、その切れ長の目の瞳を真紅に合わせた。
「為すべき任務を全うするのみでございます。元帥には内容を正確にお伝えしておきますゆえ、ご安心を」
「まあ、まあ、大丈夫でございましょう」またもそこでサイラスが軽薄に口を挟む。「ルネ副帥は感情をお出しになるのが得意ではないが、たいへん有能とお聞きする。陛下、そんなに心配されなくとも、彼の頭の中にはこの会議の一言一句が正確に刻まれているに違いありませぬ」
「……」
ヴィクトールは一瞬、やや納得の行かぬような表情を見せたが、気を取り直すように姿勢を正した。
「では、明日から詳細を詰めよう。それが出来上がった頃にローランも復帰して来るだろうからな。各々よろしく頼む」
二元帥とルネ副帥は椅子から立ち上がり、それぞれ敬礼する。メイリーンが地図を丸めている横でヴィクトールも会議室を出るべく立ち上がると、ルネはローラン元帥に報告すると言い、再び無駄のない動きで敬礼をして一足先に立ち去った。
「……あいつは少し、やりにくいんだ」
ヴィクトールは書類をまとめているサイラスに、思わず愚痴を溢す。
「何を考えているか判らない。……機械のような男だ。アルはよくあれと根詰めて話が出来るな」
「ははは。陛下は、機械のことは苦手だと仰られていましたな」
サイラスは笑いながら書類を脇に抱え、ヴィクトールに頷いて見せる。
「何なら、今回も私にお任せ下され。機械の事は大得意ですからな。陛下の仰りたいことを、うまく機械言語化して伝えておきますがゆえ」
「ああ……まあ……それに限らず、今回の作戦自体も、先ほども言ったがお前には大いに期待している。頼んだぞ」
彼はメイリーンと二人きりで室内に取り残されないよう、サイラスが部屋を出るのに合わせて、回廊へ出た。
「……ところで、アロナーダの間は姉を見てくれて助かった。様子はどうだった?」
「ええ、よくお笑いになり、楽しそうでございましたよ。私はそれ以上でございましたがね」
ヴィクトールが微妙な表情になってしまうのを確認して、彼はまたはっはっはと明るく笑い、若き皇帝の肩をひとつ叩いた。
「ですから、ご心配が過ぎますでしょう。決して必要以上に手を出してなどおりませんから。……おっと、私がそんな事を申すと、気まずくなられるんでしたな」
彼は慌てた素振りをしてヴィクトールの肩から手を離し、戯けた顔をしたが、次にしっかりと落ち着いた表情で、微笑んだ。
「何にせよ、この私めをご信頼頂いて任せていただける事に、満願の思いでございます。また何かございましたら、ローランにばかりではなく、是非私にもお申し付けを」
「……」
ヴィクトールが返事をせずにただ呆然としているように見えるので、サイラスは拍子抜けしたのか「おっ」と言い、不思議そうに彼を覗き込む。
「どうか致しましたか、陛下?」
「……いや。……何故、そんなことを言うんだ?」
「えっ?……何を仰るのですか」技術将軍は困ったように笑う。「陛下をお慕い申し上げているからですよ。陛下が私を信じて下さっているようにね。……それとも、私が申し上げると軽いという事でしょうか?」
そのように言って独特の気取った敬礼をすると、サイラスは技術兵団詰所の方向へ去っていった。
「……」
……サイラスにとっても、妹……マリーは唯一の大切な家族であった筈だ。それなのに……その出奔の原因の一端を担ったヴィクトールに対して、何故それ以前と何も変わらず、寛容な態度を見せるのだろう。
(……俺は、人を疑い過ぎなのか?もっと素直に受け取るべきなんだろうか……)
……いや、やはり、怖い。
この化け物を理解し、全幅の信頼を寄せてくれる者などいる訳がない。心の奥底のどこかに、そんな思いがこびり着いている。あのアロナーダ国王にしても、温かく接してくれればくれるほど……裏があるのではないか、いや、そうでなくとも突然に裏切られ、見捨てられるのではないかという、とてつもない恐怖が涌き出てくる。
だから自ずと、先天的に与えられた能力を使って逐一、相手の本心を探ってしまおうとする。しかし、人の心というものは往々にして秩序立っておらず、瞬時に移り変わり、その心の持ち主自身にさえ謀反するものだ。ゆえにそうしようとすればするほど、混乱し、疲れてきてしまう。
あの時もそうだった。……生涯、傍らにいてくれると揺ぎ無く信じていた彼女でさえも……。
「うっ……」
頭痛がしてきて、彼は頭を押さえ、俯く。
(……まだ、計画が始まったばかりだ。俺が軸を定めていなかったら、帝国は敗れる……これまでやってきたことが、無に返ってしまう)
いよいよ、三大兵団を率いて敵陣に乗り込む時がやって来る。組織を一丸とするため、その頂点に立つ者は、誰よりも強くあらねばならない。
紅玉は自らを決起させるように、再び前を見据える。大きく息をついたところに、わざわざ避けて出てきた魔術将軍が追い付いてしまったようだ。
「陛下、お伝えし忘れていた情報がありますの」
メイリーンは反応しない皇帝がまた行ってしまわないうちに、急いで続きを語り出す。
「このフィジテールという地……それはそれは、珍しい光景が見られるという事ですのよ。その自然の織り成す美しい現象が手に入るとなれば、出陣する軍の士気も高められるでしょう」
「そうか、そんなものがなくても高められるのが理想だがな」
そう言い終えぬうちにまたも彼は進み始めてしまうので、メイリーンは努めて歩調を合わせる。
「……『虹の絹衣』と呼ぶのですって。夜、人々が寝静まった頃に、その大空に現れるらしいのですけれど……」
それを聞いて、ヴィクトールは歩みを止めた。それから振り返ったが……その表情は、その自然現象に興味を示したというようなものとは、程遠かった。
「……お前、俺を煽り立ててるのか!?」
突如として怒り出した彼に、メイリーンは驚いて二の句を告げなくなってしまう。
「去れ、除名にならないうちに。明日の会議まで一切その顔を見せるな!」
……怒鳴り散らしている彼の声に気付いたのか、回廊の奥から顔を覗かせ、慌てて駆け寄って来たのはディアーヌだ。
「ちょっと、ちょっと、ヴィクトールってば。何やってるのよ、怖がってるじゃない」
か弱い力を思いきり出して弟の腕を引っ張り、行動を止めようとする彼女を見て、ヴィクトールは若干の冷静さを取り戻す。大きくため息をつくと、逆の手で姉のそれを解き、彼女のやって来た方の回廊へ曲がって行ってしまった。
「……ごめんね、びっくりしたでしょ?……あなた確か、新しく魔術元帥になった方だったわよね?」
心配そうに琥珀に見つめられ、メイリーンは急いで敬礼をした。
「ディアーヌ殿下……は、ドゥメールでございます」
「この間、一度挨拶に来てもらったわね」ディアーヌは弟の失態を補填するように、優しく微笑む。「……あれじゃ、怖くて仕事にならないわよね。どうか気にしないでちょうだい」
「いえ……わたくしが余計なことを申し上げましたがゆえに、ご気分を損ねられてしまったようで……」
どちらかというと先ほどの怒号よりも、突然の可憐な姫君の登場にメイリーンが困惑しながら言うと、そんな事はよくあるのだとばかりにディアーヌは小首を傾げる。
「感情の起伏が激しすぎるのよね、彼は。悪い子じゃないんだけど……あの通り事情が複雑だし、ああ見えて意外と繊細だから、情緒不安定になりやすいみたいなのよ」
それを受けて、今度はメイリーンがふふっと笑う。
「解りますわ。アロナーダでも国王に温かくお迎えをされて、何度も感極まっていらっしゃいましたもの」
あら、そうなのとディアーヌは言い、またころころと愛らしく笑った。
「まあ、だから気にしないでちょうだいね。……もし、お時間があるなら少し喫茶でもいかが?」
その台詞は貴族の社交辞令であるが、この人の良い姫君は本当に自分とよく話したいと思っているのかもしれない。メイリーンはまた穏やかに笑み、礼をした。
「……いいえ、会議の内容を詰めねばなりませんし、そんな事をしていたらまた怒られてしまいそうですので。……ただ、ひとつディアーヌ殿下にお伺いしたいお話もあって……」
「あら、何?」
「殿下の、護衛をされていたという女性の事ですわ。今のわたくしと同じように軍人としての地位も高い方だったとお伺いしているので、皇帝陛下とお接しになられる場面も多々お有りだったでしょう。今のような事があった時に、どう対応されていたのかと存じまして……」
それを聞いてディアーヌは少し不思議そうな顔はしたものの、特に何か疑いをかける様子もなく、ああ、マリーの事ねと呟いた。
「……まあ、彼女は彼女でとても気が強かったからね。私と同い年だから、ヴィクトールより年上だったし……よく、逆に言いくるめてしまっていたかしら」
ディアーヌは彼女のそんな姿を思い出して懐かしそうに微笑み、少し寂しげに息をついた。
「……すぐ戻ってきてくれるといいのだけど。彼に物怖じせず強く言ってくれる人なんて、貴重だものね」
ディアーヌは頑張ってね、とメイリーンを励ますと、上品に振り返り、先ほどヴィクトールが消えていった角へ戻って行った。
「……」
メイリーンは額に手を当てて敬礼の型を取りながら、暫しその後ろ姿を眺めていたが……やがてその手を顎に当てて考えながら、振り返って魔術兵団の詰所にある自室を目指した。
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