【I-012】潮騒の牢獄
自らの恋人を連れ去った獣使いの王に、若者は戦いを挑む。驚異的な強さで追い詰められた獣使いの王は、もはやこれまでと海に身を投じるが、その前に、金の鍵を飲み込んでいた。若者は愛しの姫君が、普段は獣を入れておく狭い檻の中に囚われになっているのを発見し駆け寄るが、檻の鍵は既に王と共に深い海へ沈んでしまった。姫と若者は生涯、その冷たい鉄格子を通して、愛を誓う……。
著名な恋愛作家エーヴルの作品のひとつに、そんな悲しい話があった気がする。……まさか自分達が、その囚われの姫君のごとく鉄格子の箱の中に閉じ込められるとは思ってもみなかった。
エマとリュックはあの命がけの航海、港や店での出来事、そしてここまでの道程のお陰で、恐怖の感覚などすっかり麻痺してしまっていると感じていた。……が、『炎』を至近距離に見る事によって、自分の感覚はまだ正常なのだと思い知らされる。
(何故、気配を悟られたのか……)
いくらエマ達を連れているとしても、建物の材質、相手との距離……自身の経験から確実に大丈夫だとシーマは思っていた。詰めの甘かった自分に悔しさを憶えながらグランフェルテ七世を睨み付ける。
……もはや彼等には、あのレオナールを信じて待つ事しか手段は残されていなかった。
兵によって檻にしっかりと錠がなされた事が確認できると、グランフェルテ七世は彼等の目の前にゆっくりと歩み寄った。シーマは思う。世界を脅かした冷徹な嘲笑を、嫌になるほど堪能できる。さぞ人々に自慢出来る事だろう。……生きて帰る事が出来たらの話だが。
が、意外にも皇帝は彼らの予想を裏切って表情をころりと変え、まるで親友にでも話し掛けるような爽快な笑顔で彼等に言った。
「そんなに心配するなよ。あんたら単なる反抗市民だろ?」
「……」
あまり急にその態度が豹変したもので、シーマは警戒感を強め、エマとリュックは硬直したまま唖然として口をぽかんと開け、ただ続きの言葉を待つ。
「無駄な諍いは好きではないんだ。どういう経緯でここを知ったか不思議だが、一度ここへ入ったあんた達を今すぐ解放する訳にはいかなくてな。そこで大人しくしていてくれれば、三日後には自由にしてやれる」
エマたち姉弟は戸惑いつつも、その言葉でほんの少しだけ恐怖と緊張の糸を解く。だがシーマは違った。
「……俺たち鼠が……大人しく、していなければ?」
「それは仕方がない。生体実験に使う」
……リュックは失神した。気弱な彼が失神するのはよくある事なので、姉のエマはこの事に関しては余り気に留めていなかったのだが……彼女はどうしても心に引っ掛かるものがあって、勇敢にもここで食って掛かった。
「あの女の人は……?彼女は、グランフェルテの人なの……!?」
「あの女?」
「とぼけないで、さっき隣に居た……」
シーマは正直、エマのこの大胆さに驚いた。自分でさえ、この抗いがたい空気を持つ炎に、情けない事にほぼ片言で問う他に意思表示をする術がなかったと言うのに。
エマの言葉を受けた皇帝は暫し考える素振りを見せたが、何かに気付いたようだ。
「……ああ。それでか……」
燃える瞳に、また少し冷酷な光が戻る。三人が思わず身を硬く引き締めてしまったところに……ギイと、古びた扉の開く音がした。
部屋の入口に現れた人の気配に、エマは恐怖に怯えながらも意地で睨んでいた紅蓮からふと目を反らす。そこに立っていたのは深い栗色の髪をした美女……噂をすれば何とやら、昼間に出会った例の女性である。 彼女もまた、エマ達の姿に仰天し……そして、皇帝に駆け寄った。
「ねえ、どうして彼女たちが捕まっているの!?放してあげて!」
「とんでもない。奴等はここに無断で入り込んでいた。捕えておくには、十分な理由だろ?」
「えっ……!?」
女性は再び驚いて、三人を見る。 しかし……それ以上の疑惑の眼差しを彼女に向けたのは、エマだった。
「どういう事!?私たちを騙したの……!?」
「騙し……?」
「そうよ、私たちあなたを信じてたのに、正体を隠していたなんて……」
エマの言葉に、彼女の動きが止まる。……そして悲しそうに、琥珀の瞳を曇らせた。
「……そうね。私がした事で、結果的にこんな事になってしまったのね……」
「……」
彼女自身にそのつもりはなかったのか。言い過ぎてしまったとエマは気付き、反省して取り繕おうとしたが……彼女はそれを制するように、言った。
「ごめんなさい。私が立場を考えずに、余計な事をしたから。私ってば、いつも……」
次の言葉を探すエマの背後で、シーマは嘲るように言い放つ。
「ふん。人を捕まえておいて、偽善ぶるのも大概にし……」
ガシイン!!
鋭い金属音に、シーマは途中で台詞を飲み込む。
「囚人は黙ってろ。命が惜しければ、自分の状況を良く考えてから発言するんだな」
紅蓮が、シーマを貫いた。……音はどうやら、皇帝が鉄格子を叩き付けたものであるらしい。失神していたリュックが、音に身を震わせて目を覚ました。
女性は両者のやり取りに居たたまれなくなったのか、口元を押さえて逃げるようにその場を去った。皇帝は暫し彼女を気に掛けていたようだが、やがて振り向くと、わざわざ備え付けの机の前にあった簡易的な木製の椅子を檻の前へ持って来て、そこへ座った。
「さて。せっかく捕まえたんだから、尋問といこうか」
そのようなものは配下の兵士に任せておけばよいものを、余程、退屈をしているところを見つかってしまったようだ。グランフェルテ皇帝直々に尋問を賜るなど、有難い事極まりない。自慢の種がひとつ増えたと、シーマは自分自身に向けて、心の中で皮肉を言った。
「簡単な質問からだ、さっきも聞いたけどな。何故、どうやってここへ入り込んだ?」
「……」
「ポーレジオン市民じゃないんだろ?余所者のようだからな」
「……さっきの女が言ったか?」
「こっちが聞いている。先に答えろ」
「……」
皇帝の女だか何だか知らんが、ずいぶん口が軽いようだ。シーマは女が出て言った後の扉を睨み付けた。
「……何だ、見た目に依らず大人しいんだな。もう少し心を開いてくれたって良いじゃないか」
皇帝は拗ねたように口を尖らせ、衣装の飾りの先を指でくるくる弄っている。遊び半分で相手にされているのがシーマにとっては余計に癪に触った。
そんな様子に埒があかないと思ったのか、マリプレーシュでもちらと見た、側近風の金髪の青年が皇帝の後ろから鉄格子の前に歩み出た。深い紫紺の衣装に長剣を背負う姿は特に飾り立てている訳でもないが華麗である。皇帝のお抱え騎士だろうか。
「答えてくれ。これは真実を明らかにしてそなたたちの身柄を無事に解放するためにも必要な話なのだ。一体、ここに忍び込んだ目的は何だ?」
騎士は三人と同じ目線になるよう立て膝をつき、質問した。その訊き方はグランフェルテ七世のそれと違い、真摯で誠実であったが……例えその目的がどんなに帝国側から見れば馬鹿らしく聞こえようと、ここで口を割る訳にはゆかない。いや、むしろ奇跡の剣の名を出せば……今は生易しいと言える相手の態度も変貌するかもしれない。少なくともシーマはそう考えていた。
「……市民がこんな所に忍び込む訳は、大方決まっているだろう」
「我々のやり方に不満があるという事か」
騎士はそれも致し方ない、というような表情で頷く。会話が成立している様子に皇帝は何だか面白くなさそうにしているが、怒鳴り付けるような素振りを見せる訳ではない。この騎士、慇懃(いんぎん)ではあるがもしかすると皇帝以上の力を持っているのかも知れないと、再び何かを問おうとするその姿に三人はまた緊張を覚えた。
「どこから来たのかも、教えてはくれないのか?」
「……無理だ」
シーマが答えると諦めたのか、騎士は振り向いてグランフェルテ七世に目配せする。
「あまりだんまりとしていても、身の為にならないと思うけどな」
皇帝は呆れ顔で立ち上がり、燃え上がる髪を後ろへ払う。豪奢な耳飾りが音をたてて揺れると同時に、強い香が鼻をつく。マリプレーシュで侯爵を悪趣味だと蔑んでいたが、大して変わらないとシーマは思った。
「アル、俺はもう休む。これでも色々と気を使ってるから疲れてかなわないんだ」
皇帝は騎士にそう言うと、三人にふざけたように軽く手を振って部屋を出た。騎士もその後ろに従う。
数人の帝国兵と、囚われの三人のみが残された部屋は、途端に静かになった。
それから、そろそろ一時間経つだろうか。
身体が非常に疲れているにも拘らず、いつ処刑されるかも判らない恐ろしさに、三人は微睡む事も出来ずにいた。遠くに聞こえる潮騒の音も、子守唄にはならなかった。
「もう少し、慎重に出ていれば……迂闊だった……」
シーマは悔しそうにそう言いながら、壁を睨んでいる。
エマは自分がついてきたせいで彼にそのような屈辱的な思いをさせてしまっている後悔もさながら、あの女性の事がずっと気になっていた。皇帝の隣で会議に加わっていた、栗色の巻き毛の女性……彼女が自分達を陥れたなどとは、口ではああ言ったものの、どうしてもそれが真実だと考える事は出来なかった。
「レオナールさん……来てるんでしょうか……」
リュックが、ぽつりと漏らした。彼を信じても構わないのかと疑問の言葉を口にたこともあったが、こうなってしまうと頼らざるを得なかった。
そこで突然、部屋の鉛色の扉が開いて三人は驚き、身構える。……しかし顔を出したのは、エマが気に掛けていたあの女性であった。彼女は檻の前まで来ると、ロングドレスの裾が床についてしまうのにも構わず腰を落とした。
「本当にごめんなさいね。あなた達の出自さえ証明できれば、明後日には解放されるはず。だから、暫く我慢して協力して」
彼女は本当に申し訳なさそうに、鉄格子の隙間から三人の顔色を伺う。
「つまり俺達には、密偵の容疑がかかってここに捕まっていると言うことか」
シーマの厳しい口調に、女性は曖昧に首を振ることしか出来ず俯いた。奥にいたエマは彼女とゆっくりと話の出来る機会を見つけて、シーマの前に歩み出る。……と言っても狭い檻の中なので、膝で歩いてくるような感じだが。
「あなたは……あなたは、帝国の人だったの?」
「……ええ」彼女は視線を落としたまま、答えた。
「皇帝と……随分、親しかったようなのね」
「……」
「私達の事、判ってたの……?それで……」
「判ってた?……何の事?私、まさか港で偶然出会ったあなた達が、こんな事するなんて。あなた達こそ、まさか……」
女性は泣き出しそうな表情でやっとエマを見る。
……考えてみれば、その通りだ。自分達の方こそが彼女の純粋な好意を利用して、ここへ忍び込んだのだ。エクラヴワの王子だという若者と出会ったが、正式に契約を結んでいた訳ではないし……世界のエクラヴワ大王に戦争を仕掛けるような帝国が、予め自分達などに目をつけている筈がない。
……だが、目の前の彼女が帝国の要人であったなら、エマ達のこの軽率な行動は逆に怪しまれても仕方がない。況してやポーレジオン市民ではなく、余所者だと解ってしまっているようだし……エマとリュックだけならまだ誤魔化せたかも知れないが、シーマがいて意図的に彼女の後を追ったのが明確なら余計にまずいことになる。
「……」
蒼白な顔で黙ってしまったエマを見て、栗色の髪の女性は疑うように眉間に寄せていた皺を少し和らげた。
「とにかく、もう少しだけ耐えてちょうだい。あなた達が怪しい人だなんて思いたくないの。私も出来る限りの事は……」
彼女の言葉を途中で遮ったのは、シーマだった。
「本当に放されるかどうかなど怪しいものだ。市民とは言え、敵国の内情を知った者はそのように騙されて、最後に処刑されるものと相場が決まっている」
シーマは普段無口な割に、こういった所では余計な一言が多い。リュックはすっかりこの言葉に怯えてしまっている。女性は慌てて首を横に振った。
「そんな事はないわ。彼……そんな事は絶対に、しない」
「どうだかな。もし仮に放したとしたなら、グランフェルテ七世は相当な馬鹿だ」シーマは押収されて遠くの壁に立て掛けられている、自らの剣を見る。「……その場で、解放した事を後悔させてやる」
「やめて!」
咄嗟に叫ぶ彼女に、シーマは畳み掛けるように言う。
「こんな所にまで、私情を持ち込まん方が良いぞ。皇帝の飼い犬め」
「やめて……そんな事ではないの。彼は、皇帝は……私の弟なのよ……!」
……シーマは、すぐに意味を理解できずにいた。そんな表現の仕方があっただろうかと、一瞬考えてしまった。目の前の女性を、皇帝の女であると頭ごなしに決めつけていたからだ。……呆然と彼女を見ているのは、エマとリュックの姉弟も同じだった。
女性は、ぎこちなく姿勢を正すと、一息おいて話し始めた。
「自己紹介、まだだったわね。私はディアーヌ。グランフェルテの皇女……グランフェルテ七世の姉よ」
三人はそう言われても無言のままだった。自分の姿に注がれる視線の意味を察して、ひどく高貴な身分を名乗った彼女は先に口を開いた。
「……異父姉弟だから、あまり似ていないかもしれないわね。……あなた達も、姉弟だったわよね?」
ディアーヌは、エマとリュックを見比べながら尋ねた。二人は良く似ているので、誰が見ても血のつながりがあると確信できる。
「なら、判ってくれるでしょ?……あなた達にとっては敵でも、私にとっては家族。……唯一のね」
ディアーヌはそう言うと、再び琥珀の瞳を伏せた。穏やかで、哀しげな表情。彼女がグランフェルテ七世を、実の弟をどんなに大切に思っているのか、その表情だけで読み取る事が出来た。
帝国兵のひとりがディアーヌの傍らへ寄る。もう時間が遅いから、眠るよう勧めたのだろう。彼女は立ち上がり裾の埃を少し払うと、三人に声を掛けた。
「とにかく私の方でも、もう少し掛け合ってみるわ。それに、もう少し温かく過ごせるように次は何か持ってくるわね」
ディアーヌが部屋を出ると、再び遠くの潮騒が聞こえ始めた。
「姉弟だなんて……」
彼女はやはり帝国の人間だった。しかし彼女に対して恐怖や威圧的なものは、一切感じられない。高貴な衣装に身を包んだ美女ではあるが、内面は優しく親しみ易い素敵な女性である。その彼女と『炎』が血の繋がった姉弟だとは、エマには俄に信じられなかった。
「唯一の家族……って、言ってましたね」
リュックが呟いた。アルテュールの事を思い出しているのであろう、少し寂しげな瞳をしている。エマとて兄の事に思いを巡らせざるを得なかったが、その兄の手掛かりを掴む為にここへやって来たのだ。
明日はディアーヌなり、この際はグランフェルテ七世にでも、何かを聞き出さねばならない。間違っても、ここで一生を終えるような事になるわけにはゆかないのだ。エマの胸には堅い決意があった。
そういえば……ふと、エマは気付いた。シーマの口から、家族の話を聞いた事がない。もともと自分の事をぺらぺらと話すような人間ではないのだが、この機会に尋ねてみようかとも思った。しかし彼は眠っているのか、潮の音に耳を傾けながら物思いにふけっているのか、目を閉じてじっと佇んでいる。エマはまあいいか、と思い留まった。
三人はいつの間にか、波の演奏に意識を奪われていた……。
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