【I-009】帰還

 今が真夏である事を感じさせないほど、心地良い風が城の中にまで吹き込んでいる。そこに暮らす華やかな人々の心にも、ひとときの快適さを届けていた。

 一年を通じて気候の穏やかなこの美しい草原に城を建てたのが、今から三百年前に世界にその名を轟かせた初代皇帝バルタザール。この国を『大いなる誇り』――グランフェルテと名付けたのもそのバルタザールだ。

 しかし彼の亡き後間もなくの頃から、つい五年ほど前まで……ここは異国の役人達が幅を利かせ、ごてごてと無駄に飾り付けられて趣のかけらもなく、自然のもたらす美しさを敢えて掻き消すような雰囲気を醸し出していた。それが今では再びすっかりと一掃され、豊かな緑の木々がコリドール脇を鮮やかに彩っている。そこに上級騎士達が立ち並んでいるが厳めしい空気はなく、優雅な振舞いで最敬礼をする。

 皇座の間の扉が開き、この国において最高の位を持つ青年と、その側近を務める金髪の騎士が回廊に降り立った。

 いくらか、ふたりは歩を進める。……やがて騎士は、自らの主君であり、しかし親友でもある最高位の青年に向かって、公の場ではずっと我慢し続けてきた言葉をようやく溢した。

 「ヴィクトール。……あれは、流石にやり過ぎではないか?」

 「何の事だ?」

 「マリプレーシュ侯爵の、首を……何も、あそこまでする必要はなかったと思うのだが……」

 「エクラヴワの犬に、無駄な情けなど必要無い。それにマリプレーシュの市民たちも、奴がああなる事を心の何処かで待ち望んでいたはずだ」

 ヴィクトール・セレスタン・ド・グランフェルテ……第七世帝国皇帝は、燃えるような真紅にところどころ蜂蜜色の束が隠れ見える華麗な長髪をかき上げると、少し疲れたような表情でそう言った。

 幼い頃に天使のような可愛らしさを振りまいていた男の子も、数年経つとすっかりと豹変して周囲を驚かせたりする事がある。……しかし彼は二十歳を迎えた現在でも、母親である前帝イザベルの極めて神秘的な美貌をそのまま受け継いでいた。いや、それ以上と評価する者も多い。人間離れした髪と瞳の色を持っている事もひとつの要素ではあるが、その類い稀なる麗しさと独特の存在感は、それを目にする全ての者を魅了してしまう。老いも若きも、女性はおろか同性である男性さえ惑わす事も、少なくはない。

 その特徴的な容姿も、たった五年前の『あの日』までは……単に利用される手段に他ならないはずだったのだが。


 それはそうと、こちらも見目麗しい金髪碧眼の側近、帝国騎士兵団元帥……アルベールの説教は続く。

 「そうは言うけどな。あの時のお前は、けなされて、逆上したようにしか見えなかったぞ。作戦が始まった矢先にこれでは後々……」

 始めはいつもの事だと流していたヴィクトールも、一向に止む兆しのないアルベールからの耳の痛い話に、次第に眉根をひそめ始めた。側近の言う通りヴィクトールはもともとあまり気の長い性格ではなかったので、すぐに限界に達して歩みを止め、怒鳴った。

 「うるさい!俺は初遠征の直後でとても疲れてるんだ。もう風呂に入って寝る。城に帰って来てまでそんな細かい話なんかするな」

 多くの配下は、この『炎』に一喝されれば身を竦ませ、押し黙る事であろう。……しかし十五年来の親友であり、兄であるも同然な立場であるこの騎士は、さすがに一筋縄ではゆかないようだ。

 「ヴィクトール、お前はすぐにそうやって怒る。その癖を直せば毎日の会議だってすんなり進むんだ。そもそもマリプレーシュの時だってなあ……」

 ヴィクトールは少し項垂れて溜め息をついた。今、アルベールに取った行動は逆効果である事を学んだ。彼は方法を変える事にした。

 「……なあ、アル。お前が俺を心配してくれているのは、痛いほど判ってる。お前の助けがなかったら今回も成功しなかったに違いない。本当に有難うな」

 たった一度の遠征で何度も全世界を震え上がらせた、氷の笑みの持ち主と同一人物とは思えぬ程の、太陽のような爽やかな笑顔であった。突然素直になった彼に、アルベールは不意を突かれた。

 「えっ?……あ、ああ、判っているなら構わないのだが……」

 「お前を困らせるような事は、もう神に誓ってしないから。じゃあ忙しかっただろうし、今夜はゆっくり休めよ。また明日な!」

 「えっ、おい、ヴィク……」

 肩をひとつ叩かれ呆気に取られているうちに、ヴィクトールは華麗な衣装と真紅の髪を翻して素早く宮廷の廊下の角を曲がって姿を消す。……うまく逃げられてしまった。

 まったく器用な奴だと、アルベールは心の底から感心して、しかし呆れたように溜め息をついた。



 節介焼きの側近の目から逃れ、ひとり別の通路へ出ると、ヴィクトールはようやく本当に重圧から解放された気分になった。

 ここまで全て予定の通りに進めることができたが、逆を言えばもう賽は投げられたのだ。明日からはまた新たな戦いの日々が待ち受けているに違いない。せめて、今日残された時間はゆっくり休もうと決めた。

 このようにして自分の城の中を自由に歩く事さえ、五年前のあの日……『奴隷国』の内部にまで入り込んで牛耳っていたエクラヴワ摂政たちを全て捕らえ、まだ世界には極秘のうちに、このグランフェルテの主としての権力を彼が取り戻した革命の日――それまでは、不可能であった。だが今日からは、自分の力の自由を世界に隠す事さえしなくて良くなったのだ。

 本殿から寝所へ繋がる渡り廊下の入口が見え始める。そこに、ひとり女性騎士の姿があった。……遠征の時は兜の下に仕舞っていた金と銀の間の色の艶やかな長い髪は、彼女の長身に映える。こちらに気付いて向けた顔は美しいだけでなく、思わず吸い寄せられてしまうような色香を匂わせていて、しかしそれを凛とした意志で封じ込めようとする表情は、普段から人々の目を奪っている。騎士にしておくには勿体ないほどの、孤高に咲く一輪の白薔薇のような姿の持ち主であった。

 「……マリー」

 ヴィクトールは思わず一度、立ち止まってしまう。……彼女を配下として扱うのではなく、個人的に接するのは随分と久しいことだ。ゆえに彼女を姓ではなく名の方で呼ぶのにも思わず少し戸惑ってしまった。

 「……ここに来るなんて珍しいな。凱旋で気分を変えてくれたか?」

 「馬鹿な事言わないで……」

 彼女は表情をしかめて、薄碧の瞳を長い睫毛の下に伏せた。

 「あの時の……マリプレーシュで助けてもらったお礼を言いに。それから挨拶に来ただけよ。本当のお別れのね……」

 「何?」

 「私、あんな光景は見たくなかった……」

 マリーはため息をつくと……今度はしっかりと、射るように強く真紅の瞳を見上げる。

 「今日で騎士の身分を返上するわ。……もう、あなたの元では働けない」

 全く予想していなかった台詞ではなかった。彼女はずっと、ヴィクトールのやり方に意義を唱えていた。しかしこの時に湧いた思いは、何故今になってそのようなことを言うのかという腹立たしさでもあった。

 「……なら、どうしてこの作戦の前に……」

 言いかけたが、解っていた。初心を覆し目的を遂行せずに投げ出すような行為を嫌い、彼女は今回の遠征を全うすることによって義理を果たしたのだ。……それは解っているのに、何処かで一瞬でも淡い期待をしてしまった自らの心にヴィクトールは嫌気が差した。

 「……そうか。勝手にしろ」

 わだかまりを追い払うかのように息をついて、彼は低く言い放った。

 「……」

 寂しげに目を逸らすと、マリーは彼に背を向けて、彼の来た方向と逆の回廊をゆっくり歩き出したが……今一度、歩みを止めて首だけで振り向いた。

 「ヴィクトール……」

 最後の迷いを見せる彼女に手を伸ばすのは、簡単な事だった。

 ……しかし、ヴィクトールはそれをしなかった。

 マリーもそれ以上の期待を、諦めた。

 「……さようなら」

 彼女は、今度は二度と立ち止まる事もせず……ゆっくりと静かな足音を響かせて、その場を去って行った。

 ヴィクトールも彼女のその背から意識を逸らすように、自ら足早に寝室への渡り廊下へ足を踏み入れた。



 湯浴みを済ませると、彼はほのかに月明かりの差し込む寝殿の、広い寝台の上に腰を下ろした。

 ……先ほどアルベールに説教された内容を、冷静に思い返してみる。確かに、いきなりあれは良くなかったかも知れない。恐怖におののいた一般市民が一丸となって自分に立ち向かって来たのでは、この革命を起こした意味がない。

 しかし、あの言葉だけは……どうしても許せなかった。

 紅い瞳の、化け物。

 マリプレーシュ侯爵の丸顔を思い出し、彼は再び、嫌悪に美貌を歪めた。その心無い言葉に……幼い頃から何度、苦しめられて来たか。

 もう、微かにしか憶えてはいないが……木漏れ日溢れる森の中の小さな家で、優しい母と、二人で幸せに暮らしていた。自分の髪や瞳の色が何故母のそれと違うのかなど、その時はまだ心に留める事はなかった。

 そして強烈に記憶に残っているのは、母との突然の別れ。辛い船旅の上、彼を捕えた見知らぬ男たちに引きずり込まれた巨大な建造物……それが、このグランフェルテ城であった。



「第七代皇帝陛下、御即位万歳!」

 大人達がそう言って、一斉に声を上げる様に……幼い彼は思わず身をすくめた。

 ……早く頭の重たい飾りを取って、彼の身体には大きすぎるこの椅子の上から逃げ出したい。だが、そんなことをすれば……ここに来るまでの間に何度も与えられてきた手酷い罰がまた待っているだろう。ヴィクトールはそう思いながら、身体の震えを懸命に抑え、怯えながらただただ時が過ぎるのを待つだけだった。

 その数時間前にこの城に到着して、見た事もない人数の大人達が彼を出迎えたが……その殆どは、母や、母と共に彼を育ててくれたサラ夫妻のような優しい眼差しとはほど遠い好奇の目で、彼をじろじろと定め見ていた。

 「あれが……イザベル様の……?」

 「あの髪、あの瞳……人間じゃない……」

 その視線が恐ろしくてたまらず、彼はずっと俯いていたため、かなり長い廊下を歩いて来たにも拘らず紅い絨毯の色しか憶えていない。やがて重たい衣装を無理矢理着せられて、何も判らずにこの椅子に座らされ……何か、大きな催しごとが行われているという事だけを辛うじて察することが出来ていた。

 ようやくそれが終わると、ヴィクトールは別の部屋に連れてゆかれた。……灯りも最低限しかついていなかったのでよく判らないが、大変狭い、物置か何かのようだった。

 「皇帝陛下……と呼ぶのは、表舞台でだけだぞ」

 太っていて意地悪そうな、髪の毛の薄い男……彼をここまで連れて来たデジレという者と、さらに体の大きな役人達が寄り集まって幼い彼を囲んだ。

 「いいか、お前は化け物の子だ。愚かなお前の母親が、化け物と交わって生まれたのがお前だ」

 「本来なら、見つけ次第すぐに……殺しているところだがな」

 今まで聞いた事も無かった、恐ろしい響きを持つ数々の言葉は、まだ意味が飲み込めなかったにも拘らず、感覚の強い彼の背筋を凍らせるのに充分だった。

 ……早く逃げたい。逃げてお母さんのところに帰りたい……だが逃げ場など無い以前に、足が竦んでその場を動く事も出来なかった。

 その時、ひとりの男が持っていたトーチが彼の顔のすぐ横に近付けられた。眩しさと熱さに、思わず顔を背けるが……ぐいっと無理矢理に頬を掴まれ、正面を向かされる。

 「……化け物の子よ。運が良かったな」

 近寄ってきたデジレはにやにやと笑いながら、品定めをするようにヴィクトールの顔を覗き込み、それから舐めるように全身へ視線を這わせる。……人間の自然の摂理では考えられぬ彼の特徴は、神話で語られる精霊や吸血鬼の子を思い起こさせる。

 だがそれだけの現実離れした姿から、ただ不気味だと目を離せるわけでもなく、逆に魅惑されてしまうかのような感覚を覚えるのは……母、イザベル譲りの美しさであった。誰もが一度は美術品の人形かとも見紛う程、その顔立ちは整っているが、ただ人形とは違い生きている証をしっかりと感じさせる、上気した頬と潤んだ大きな瞳。感受性の強さを思わせるそれらが、人を惹き付ける要素を一層に際立たせていた。

 「手のつけられぬ本物の化け物ならあの場で処分することも考えていたが……何としたことか、ほとほと魅了されてしまいそうなほどに美しい。母親に感謝するんだな」

 「やめて……」

 痛くて、怖くて……彼は思わずそう声を漏らす。しかし…。

 バシッ!!

 ……一瞬の出来事に、何が起こったか判らなかった。突然視界が衝撃的に揺れたことにまずは驚いたが、後から込み上げて来る、強烈な頬の痛み……顎を掴まれていた時のそれとは比べ物にならないような痛みに、彼は思わず、真紅の瞳を潤ませる。

 だが、嗚咽を出そうとしたその口も、乱暴に塞がれる。そして……。

 「……!!」

 ぎらりと恐ろしい、あの光……母と引き離された時に自らの腿を突き刺したあの恐ろしい光を、目の前に突き出された。その瞬間、まだ生々しく残る傷がずきんと痛み……そして酷い目に遭わされる母の姿、彼女から無理やり離される恐怖と痛烈な悲しみが、胸に追い上げてくる。

 「泣くな。お前は奴隷なのだ。殺されて然るべき存在であるお前は、その不気味で珍しい美しさを持って生まれたが故に生き延びられ、我々の奴隷として働けるのみでなく……『皇帝』の名をかたる事さえ出来るのだ。形だけだがな」

 厭らしいクックックという笑い声を上げて、デジレはますます強く彼の口を締め上げる。周囲の男達も、小さな彼の事を蔑み笑った。

 「ああ、そうそう。お前の持つ、あの力……あれは二度と使うな。もし、約束を破れば」

 短剣がぐっと突きつけられ、白磁の頬を少しだけ切り裂き、その瞳と同じ色を滲ませる。

 「……このような、優しい対応ではないと覚悟しておけよ。それから……あれ以上の処分を免じてやったお前の母や、近所に住んでいた女とその夫の命も、どうなるかわからぬと思え」

 ……ヴィクトールはほんの少しだけ安堵を、そしてほんの一握りだけの、希望を覚えた。母もサラたちも、まだ、殺されてはいないのだ。

 この過酷で、卑屈で、あまりに残酷な洗脳の儀式は…それからしばらくの間、毎日のように行われる事となったのだ。



 「……」

 彼は顔を上げた。

 やめよう。今日は、そんな事を思い出すべき日ではないはずだ。人並みの幸せさえ奪われたあの忌わしい日から、ちょうど十五年。やっと憎々しい奴等に反撃を始められる時が来たのだ。

 顔を上げたその先には、装飾に彩られた大きな鏡があった。彼は立ち上がると、ゆっくりとその前へ歩を進めた。

 燃える色の瞳と、髪。父から譲られたものだから大切にしなさいと、幼い自分に母は優しく諭した。

 母と一晩だけの、行きずりの恋をして去って行った『魔族』の父。いまだ世界にごく少数が生き残っているとは聞くが、魔族とはどんな種族なのかはっきりと書き記したものは、国中の書物から故意に破棄されたかのように見つからなかったし、無論、実物を目にした事もない。

 想像を絶する、恐ろしい姿をしているかも知れない。それでも、自分の父がもしどこかで生きているのなら……。

 彼が自ら戦場へと赴くのには、そんな願いも込められていた。勿論、自分が統治する事となる土地の民にその姿を知らしめ、また自分の目でその地を見て、そこに暮らす民のことを知る必要がある。それが国内の改革を推し進めていた頃からの、彼のやり方であった。

 しかし世界へ赴く、その僅かな滞在時間にでも、何か父の手掛かりを掴む事が出来れば……。

 「若様、まだ起きていらっしゃるのですか?今日はお疲れでしょう……」

 彼付きの女官ラウラが、部屋の外からヴィクトールにそろそろ床に就くことを勧めた。この寝所には、皇帝の身の安全を守るため扉はおろか壁と呼べるものさえ存在せず、大きな数本の柱の間に美麗な飾り格子が填められているだけだ。少しばかり前まではこの格子も無かったのだが、常に見張られているのを嫌うヴィクトールが無理に付けさせたのだ。……と言っても格子ではあまり意味が無く、彼としては分厚い壁で仕切ってしまいたかったのだが。

 ともかく彼女の声を受けてようやく眠ろうと考えた時……夜更けであるにも拘わらず寝殿の外から甲高い女の声が聞こえた。……マリーがここへ近付いてくれなくなった頃から、彼は気を紛らわせる為に各々の区別が危うくなる程の数の女を呼んでいたので、それが誰のものか直ぐには見当がつかない。しかし近衛の騎士たちと言い争いをしているその女の正体は、前述のような造りの部屋であるがゆえに格子の隙間から覗き見れば判別が出来た。

 「……ロジーヌか」

 ヴィクトールは少し不機嫌そうな顔で呟いた。ロジーヌはどうやら近衛を押し退けて無理矢理関門を突破したようだ。彼女は寝殿の入口に立つと急に気取って豪奢に巻き付けたブロンドの髪を少し整え、彼に向かって微笑んだ。

 「初遠征の御成功、おめでとうございます。ヴィクトール様」

 「……ああ。相変わらずだな、あんたは」

 ヴィクトールはちっともめでたくなさそうな表情のままそう言うと、鏡に背を向けて寝台へ引き返した。

 「お待ちになって。今夜、マリプレーシュ攻略が成功したら飲みましょうと約束したじゃない」

 「憶えてないな」

 彼女は古くから皇家に仕えるバティーニュ伯の一人娘であった。ヴィクトールが革命で城内からエクラヴワ勢力を排除し、国内で本来の皇帝としての力を顕著にするようになると突然彼に近付き始め、彼女とその両親との間で知らぬ間に『婚約者』として奉られていた。……そのような図々しい貴族はバティーニュに限ったことではないので、ヴィクトールは自分に何人の『婚約者』がいるのか把握もしていなかったのだが。

 ロジーヌは先程のように取り乱していなければそれなりの貴族らしい品格を身に付けているし、決して不美人でもなければ、纏う色気も皆無ではない。だから彼も機嫌の良い時は積極的に寝台に招き入れる気にもなるのだが……それ以上の関係に進めようと思える女ではない。完全に遊びの用途に使うためだと割り切っているのである。

 「またそうやって誤魔化すのね。わたくし、もうすぐあなたの妃ですのに、どうして……」

 (……始まった)

 ヴィクトールは頭を押さえた。ロジーヌは殊に最近は鬱陶しいほどに、何かとこの台詞を口にするのだ。普段ならば適当に流すのだが、今日はさすがに疲れており、余計に癪に障る。しかしそんなことはお構いなしに、彼女は興奮気味に喋り続けるのだ。

 「あなたはいつも、わたくしから逃げようとするのね。自由になって遊びたいのは山々でしょうけれど……もう観念してくださいまし、国の長としていつまでもひとり身でいらっしゃるのは国民が」

 ロジーヌの言葉はそこで唐突に途切れた。……唇を塞がれたので続きを話す事が出来なくなったのだ。

 「今夜は祝いの夜だ。……騒がないでくれるな?」

 これ以上、この金切り声を聞いていなければならないならさっさと封じてしまった方がましだ。……そんなヴィクトールの考えなど露知らず、ロジーヌはうつろな瞳で微かに頷いた。『炎』の魔性に、例え彼女にその気がなかったとしても普通の人間が抗う事など出来る訳もない。

 彼女はもう一度、唇の自由を奪われるのを感じ、そのまま絹の寝台へ身を沈ませた――。

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