息もできない夏祭り 9

 僕は病院で手当てと検査を受けると、すぐに警察に呼び出され、杏奈さんと別れた後の様子を事細かく聴取された。おかげで僕の帰宅は3日も遅くなった。

”余計なことに首突っ込んで! 殺される寸前だったって聞いて生きた心地がしなかったわよ!”

 電話越しに聞こえる母の第一声がそれだった。

「ごめんなさい」

”ごめんなさいで済む問題じゃないでしょうが! あんた今どこにいるの? 迎えに行くから教えてちょうだい!”

「それなら大丈夫。杏奈さんが送ってくれているから」

 僕を危険な目に遭わせたことが相当負い目になったのか、衣類や滞在中の食事、宿を手配してくれた。さらには手土産のアサリの佃煮つきで、家まで杏奈さんのミニバンに乗っけてもらっている。

”命はお金で解決できることじゃないでしょうに”

 母は電話先で黙った。もう一回「ごめんなさい」と言った。

”でも、あなたのように助かったわけじゃない人もいるのよね”

 少し悲しそうな声だった。

「そうだね」

 また後で、との一言で母からの電話は切れた。

 少しわがままを言って、事件のことを杏奈さんに教えてもらった。

 この事件は、楠原さんのストーカー被害から始まった。

 駅やVille natalesからの帰りに誰かにつけられている。

 そう感じた楠原さんは探偵をやっている杏奈さんに相談を持ち掛けた。杏奈さんは引き受けはしたものの、楠原さんとのスケジュールの兼ね合いや費用の面から杏奈さんに張り付いてもらうわけにはいかなかった。その代わり、楠原さんには夏休みに入るまではかなり遠回りでも人通りの多い道を選ぶようにしたり、家族の送迎を頼んだりしていた。杏奈さんが本格的な調査に乗り出したのは、去年の夏、ひいな祭りの初日だった。

 ひいな祭りの初日、今年同様出店していたVille natalesは夜遅くに店じまいをし、杏奈さんについてきてもらって例の道を歩いていた。1台の車が楠原さんのすぐ前に止まった。運転席から男が降りてくるのを見ると、すぐに杏奈さんは楠原さんに駆け寄った。案の定、男は逃げる楠原さんを追いかけて行ったという。杏奈さんはすぐに楠原さんに追いつき、男にカメラを向けた。しかし、男はすぐに逃げたようで、写真も体型程度しか分からなかったという。

 その後の調査で前日に強姦に遭ったと名乗り出た女性がいたらしい。性犯罪に遭った被害者が声をあげにくい実態があったと杏奈さんは言う。僕もそう思う。楠原さんが警察ではなく探偵の杏奈さんに相談したという事実からして。

 犯人は捕まらないまま、その後未遂を含め5件の強姦が起きた。現場はいずれも暗い夜道で、被害者たちは顔をはっきりとは見ていないと言う。何より、楠原さんを含めた被害者たちが、襲われたという傷も癒えぬままの連日の事情聴取で詳しいことを答えられる状況ではなかったために、捜査は難航した。 

 当時この被疑者として一番有力だったのが、杏奈さんが写真に収めた車の持ち主である高梨清吾の息子だった。しかし彼にはアリバイが成立し、逮捕には至らなかった。車に関しては、どの日時においても友人に貸していたと証言し、友人たちもそれを認めたために、捜査線上から彼の存在が消えていった。程なくして息子は海外への長期留学へと行ってしまった。

 杏奈さんはまず閉店間際のシフトに楠原さんを入れないように頼み込み、暗くなる時は楠原さんを迎えに行っていたらしい。杏奈さんも、それしかできなかった。それでも誰かがそばにいてくれるという安心感か、少しは明るくなったらしい。でも、長かった髪はずっと短く刈られたままで、スカート姿すら見たことがない、という。

 1年前。女の子の方も問題。ふらつきまわる。母と祖母が話していたのはこのことだったのか。

「やっと、楠原さんはストーカーから解放されたんですよね」

 僕は運転席の彼女に呼びかける。

「どうでしょうか。考えていた中では最悪の事態でした」

「どういうことですか?」

「なぜあのオーナーが久仁さんを襲ったのだと思いますか?」

 よそ者の僕がストーカーと間違え、殺そうとまでした理由。確かに信じたくない事実だった。

「――オーナーがストーカーだったんですね。そして高梨清吾を殺害した犯人も」

「全身で押さえつけ、声が出ないように口で口を塞ぎ、ゆっくりと首を絞めていったそうです。オーナー自ら出したゴミの中に、高梨の首を絞めたときに使われたとされるビニール手袋が発見されたそうですよ」

 僕はその犯行現場を想像する。人の車の中なのに吐いてしまいそうになった。

「翼さんは、アルバイト先のオーナーにストーカーされていただけでも十分人間不信にはなるでしょうに、別の人間からも性的暴力を加えられそうになった。解決したどころか、周囲からは数奇の目で見られ、一生傷を抱えて生きていきます。元通りには絶対にならない」

 弱かった日差しに、さらに陰が差した。振り返りはしない杏奈さんの表情を、見る勇気はなかった。

 きっと、彼女はずっと息もできないような毎日を送っていく。


スピンオフストーリーはこちら

https://kakuyomu.jp/works/1177354054882046943/episodes/1177354054892695297

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