第29話 天坂忠道の苦悩

 ――二◯三四年、七月上旬。


 梅雨も明け、眩い夏の陽射しが雲の隙間から覗く季節。アスファルトが敷かれた街道に漂う熱気が視界を歪め、道行く人々は絶えず汗を拭っている。


 その猛暑の幕開けとも言える時期でありながら――漆黒のスーツに身を包み、サングラスで顔を隠した一人の男が、東京の道を歩んでいた。通り過ぎる人々はみな、怪しげなその男の姿を振り返り、訝しむような視線を送っている。

 だが、男はそんな視線を気にした様子もなく、ただ悠々とある場所を目指して足を進めている。


 ――そのサングラスの奥の瞳に、この熱気さえ凌ぐ情熱を秘めて。


『……つまり。このシステムを外部の人間に使わせるつもりはないというのね?』

『はい。……社長。あなた方は、人命のために最善を尽くした凪を杓子定規の判断で追放し。「合意の上」と謳って、生きる道を見失っていた雲無を体よくモルモット同然に扱った。そこにどんな理由があろうと、俺は決して許せません』

『……』

『俺が開発した「ストライカーシステム」のテスト装着者は、俺が「自分の目」で探します。あなた方のような汚い大人達が利権絡みで選出した、どんな腹黒い陰謀を抱えているかわからない連中には、死んでも触らせません』

『容赦のないことを言うのね』

『俺をそこまで駆り立てたのは、あなた方です』

『――あなたも「あの人」と同じね。理想に邁進するがゆえに、職業としてのヒーローから乖離していく……』


 男の脳裏には、上司と交わした言葉が過っていた。職業と理想。相反する二つの言葉が、男をこの場へと誘っていたのだ。

 彼はやがて、ひと気の少ないとある街角に入ったところで、ようやく足を止め――顔を上げる。


 そこには、「らあめん雨季」と殴り書きされた看板が立てられていた。


(……相容れないのなら、妥協するしかないというのはわかる。だが、俺にも決して許せない境界というものがある。それをやすやすと踏み越えて行く連中に、俺の「正義ストライカー」は渡さん)


 男は黒い手袋を嵌めた手を顔に伸ばし、静かにサングラスを取る。そして、苛烈なまでに強固な意思を宿した瞳が、オンボロの看板を射抜いた。


(俺の「正義」を託す先は、俺が決める)


 ――その時。四十代半ばと思しき筋肉質な男が、店の暖簾を上げて顔を出してきた。


「へいらっしゃい……って、なんだ兄ちゃん! どえらい暑そうなカッコしてんなぁ! 今何月だと思ってんのよ!?」

「――失礼。こちらが、雨季陸君のご自宅であると伺ったのですが」

「あん? 兄ちゃん、陸のお友達かい?」

「いえ。どちらかと言えば、彼のファン……のようなものでしょうか」


 店主らしきその男は、スーツ姿の男の言葉に目を丸くして――爆笑する。


「ファン〜? ――がっははは! 陸上辞めたってぇのに、まだまだ人気者なんだなァうちのドラ息子!」

「御父兄の方でしたか」

「ああ。しかし、悪いな兄ちゃん。今あいつ病院行ってんのよ、リハビリで。帰ってくるのは夕方になるんじゃねぇかな」

「この辺りで病院――となると、天坂総合病院でしょうか」

「おおそうだ。……兄ちゃん、うちのドラ息子に用があるんだったら店で待ってるかい? そのカッコは暑いだろう」


 店主は男を店に招き入れようとするが、男は無用とばかりに手を振ると、一礼して踵を返してしまう。


「いえ、お構いなく。彼に励ましのお言葉をと思いましたので、早速、病院にお伺いします。お気遣い、感謝致します」

「いいってことよ。無理に止めはしねぇが、道中気をつけてな。――事故ったら人生、ひっくり返っちまうぜ」

「……そうですね。御忠告、痛み入ります。では……」


 そして、どこか含みを持たせた店主の最後の言葉を受け――目を伏せた後。男は、次の目的地へ向けて歩み出して行く。

 その目に宿る炎で、この猛暑を焼き払うように。


(……事故ったら人生ひっくり返る、か)


 店主の残した言葉を、僅かに思い返して。



 ――その頃。

 天坂総合病院の、とある診察室では――ある壮年の男性が、受け持ちの患者である少年と向き合っていた。


「陸君、足の具合はどうかね?」

「んー……すこぶる良し! いやー、案外ちゃんと動くんだね義足って」

「ここまで可動域が人間に近い筋電義肢が実用化されるようになったのは、着鎧甲冑が生まれて間もない頃……ほんの数年前のことなんだけどね」

「へー、そんなに前なのか。もっと最近のことかと思ってたよ」

「着鎧甲冑が世に出てからここ数年、科学技術は過去に類を見ない速さで発達しているからね」


 だが、二人の間には単なる主治医と患者とは思えないほどの「近しい距離感」があった。しかしその一方で、医師の態度には気まずさや申し訳なさが漂っている。


「――だが、生身に比べれば不便であるには違いない。……すまない陸君、もっと精巧な義足さえあれば……」

「いいっていいって。おっちゃんがこれ作ってくんなかったら、今頃松葉杖か車椅子生活だったんだ。感謝してんだぜ、これでも」

「……ありがとう、本当に。君には、感謝の言葉もない……」

「あーもー、いつまでも院長先生がそんなメソメソしてちゃダメだろう! ガキはいつだって、大人の背中を見てんだぜ!」

「ああ、そうだな……すまない」


 そう言って頭を下げる、壮年の医師の眼前には――「しょうがねぇなぁ」と苦笑いを浮かべる長身の少年の姿があった。

 艶やかな黒髪と黒曜石の色を湛えた瞳は、精悍さと凛々しさを兼ね備え――その一方で、右頬に傷痕を残した端正な顔立ちは、幼い少年のような屈託無い笑みを浮かべている。

 赤いTシャツの上に炎柄のベストを羽織った彼は、野暮ったい黒のGパンには不似合いなほどの長い脚を組んでいる。何を着ても絵になる美男子が、そこに佇んでいた。


「しかし、あれからもう三ヶ月とはなぁ。早いもんだぜ、この足にもすっかり慣れたしよ」

「ああ……。しかし、君はもう陸上が……」

「だからさぁ。オレがいいって言ってんだから、それでいいじゃない。おっちゃんまでいつまでもそんな調子じゃあ、結花だって立ち直れねぇぞ」

「わかっているとも……わかっているさ……」


 三ヶ月前の、五野高の入学式。通学途中に横断歩道から飛び出した天坂結花を、トラックから庇った陸は利き足である左脚を轢き潰され、陸上の道を絶たれた。

 結花の父であり、天坂総合病院の院長である天坂忠道あまさかただみちは、事態を知って緊急手術を行ったが――彼の足を復元するには至らなかった。


 ――娘と陸の仲は忠道も深く知っており、小さい頃から結花を守り続けてきた陸のことは、彼が陸上で成功する以前から実の息子のように想っていた。自分が男児に恵まれなかったことも理由の一つだが、それでも彼にとっては陸は息子同然だったのだ。

 結花も心底彼に惚れ込んでいるし、ゆくゆくは陸上選手として華々しく輝く彼を支える妻として、「らあめん雨季」を切り盛りしていくのだろう。そう確信した、矢先の出来事だった。


 陸は左脚を失って陸上を辞めることになり、結花はショックのあまり引きこもってしまった。もうすぐ夏休みという時期なのに、彼女は一度も学校に行っていない。

 忠道自身はもちろん、姉の結友や結衣、母の結香梨ゆかりも懸命に励まし、従姉妹の佐々波真里さざなみまりも見舞いに駆け付けたのだが――結果は芳しいものではなく、部屋から出るようにはなっても外出する気配は見られない状況が続いている。


 この件の被害者である陸自身も、一度は見舞いに来たのだが――彼女は義足になった陸を見るなり怯えて部屋に逃げ込み、泣きながら謝罪の言葉を叫ぶようになってしまった。

 さすがにこれには陸も堪えてしまい、以降彼は天坂家には来ていない。下手に刺激して自殺にでも走られたら、本末転倒だからだ。


 ――彼女が外に出られない原因には陸への罪悪感もそうだが、学校への恐れも含まれていた。

 期待の超新星として華々しく高校デビューするはずだった陸の夢を潰し、学校にも来ない。さらに幼馴染という理由だけで陸に庇われ続けている。

 そんな彼女を周囲がいいように思うはずはなく――実際、陸が退院して学校に復帰した時、彼女が座るはずだった机は傷と落書きだらけになっていた。

 どれだけ拭き取っても消えない落書き。満足に机として機能するかも怪しいほどの傷。その悪意を目の当たりにした陸は烈火の如く怒り、教師陣や生徒会にことの重大さを訴えたが――結果として陸の人柄が評価されただけに終わり、結花への不評が覆るには至らなかった。


 それから、三ヶ月。結花への表立った苛めがなりを潜めた代わりに、彼女は「いないもの」として扱われるようになっていた。

 陸は陸上部への入部こそ叶わなかったが、コーチとして協力して欲しいという部の要請に応える形で、マネージャーを務めている。かつて結花がそうして、彼を支えていたように。


 高校に入ってからも難航していた彼の勉強は、結花に代わって長女の結友が見るようになっていた。

 「らあめん雨季」に通い、陸に勉強を教える結友は、結花を案じる陸に知っている限りのことを伝え、彼を支えている。……次女の結衣はアイドル業が多忙である上に陸に劣らず頭が悪いため、この人選となっていた。


 結友は高校三年の受験シーズンではあったが、すでに志望校への推薦入学が決まっているほどの才媛である。今は陸の勉強を手伝う一方で、自らが想いを寄せる命の恩人・海原凪の行方を捜す日々を送っていた。


 忠道は娘の命を救ってくれた恩と、将来を奪ってしまった罪に報いるため、陸の主治医を引き受け積極的に彼のサポートを尽くしていた。


 ――そうして、どうにか彼らは事故から立ち直るための道へと進み出しているのだが。当の結花だけは、未だに回復の傾向が見られないのだ。

 将来を捧げると誓った、最愛の幼馴染の未来を奪ってしまった――という事実を思えば、無理からぬことではあるのだが。


「……なんだかんだ言っても、結花もオレもちゃんと生きてる。出来なくなったのは、陸上だけだ。どうせいつかは親父の店を継ぐつもりだったんだから、それがちょっと早まっただけなんだよ。オレにとっちゃあな」

「そうかも知れん。だがあの子は、違っていた」

「って言われてもなぁ。千切れちまったもんはくっつけようもねぇんだし、いつまでもカリカリしたって仕方ねぇだろ。そんなことよりオレは早く結花の顔が見たいし、あいつが作る弁当が食いてぇ」

「――陸君。そのことなのだが……話があるんだ」

「おん?」


 そこから忠道は、娘の幸せを願う父として一つの決断を語る。

 ――それは結花を祖父母の実家がある田舎へ転校させ、噂の届かないのどかな町で暮らさせる、というものだった。


 ここまでの事態になった以上、もはやどれだけ取り繕ったところで、結花が五野高に復帰することは不可能に近い。

 ならばせめて、ほとぼりが冷めるまで――最低でも高校卒業の年齢に至るまで、田舎の「松霧町まつぎりちょう」に転居させるしかない。幸いあの町には、町内唯一の高等学校「松霧高校まつぎりこうこう」もある。

 あの町は善良な住民が多く、治安も善い。自然も豊かで祖父母も優しい。結花のケアには最適な環境である。それが、忠道の判断であった。


「……ふぅん」

「すまない。私とて、君と結花を引き裂きたいわけではないのだ、むしろ一日も早く一緒になって欲しいと思っている。だが、しかし――」

「――一応、聞くけどさ。その話、結花は知ってんのか?」


 そんな彼に対し、陸は真剣な表情で厳かに問い掛ける。到底、「一応」という範疇の質問ではない。

 その威圧を肌で感じた忠道は、彼に負けぬ真剣さを帯びた眼差しを、真っ向から注いだ。


「無論、結花にも話はしてある。その上で、この転校の話を決めた。――あの子も、『このままじゃ陸に合わせる顔がない』と泣いていたんだ。今を変えるには、きっかけが必要であると私達は思っている」

「――そうか」

「それに転校といっても、いつまでも引き離すつもりはない。それに休暇があれば会いに行ける距離だ。あの子は『陸にもう会えないなんて嫌』とも言っていたしな……」


 忠道の真摯な言葉を受け、陸は厳かな表情のまま天井を仰ぐ。――そして。


「……だったら、オレから言うことは何もねぇ! 結花がそうしたいって言ってんなら、男のオレがグチグチ抜かす道理はねぇわな!」

「陸君……」

「それも全部、結花を元気にするために必要なんだろ? だったら、オレはおっちゃんを信じるぜ! 絶対、結花の笑顔を取り戻そうな!」


 いつものような溌剌とした笑顔で、頷いて見せた。そんな娘の想い人に、忠道はシワの寄った頬を綻ばせ、胸を撫で下ろす。


「ありがとう……本当に。君が、結花の幼馴染で良かった」

「よせやい照れくさい」


 頭を掻いてにへへと笑う陸に、忠道は穏やかな笑みを向けた。


 結友の命を捨て身で救ったと聞く、海原凪という青年。川に流された結衣を間一髪救い出し、満身創痍になりながらも奮闘したという「救済の超飛龍」。

 長女と次女がこの二人に恋心を抱いていることは忠道も知っていたが、人柄や実態が不明瞭である彼らに対し、忠道は父として不安を募らせていた。

 だが、幼い頃から知っている陸に対しては至って好意的であり、三女のために戦ってくれた彼には深く感謝を捧げている。


(ヒーローとの恋……か。私の娘達は皆、そのような運命の中にいるのかも知れんな

。ただの偶然にしては、出来過ぎた結果だ)


 そして、とある思いを胸に抱えた彼は――再び真摯な表情で、陸の顔を見遣る。そこからただならぬ様子を感じ取った陸は、何事かと首をかしげた。


「……おん? どしたのおっちゃん。オレの顔になんか付いてる?」

「……いや。さしたる意味はないが――陸君。私は、君はヒーローと称賛されるに相応しい人物であると思っている」

「は? なんだ急に」

「私がそう思った、というだけの話だ。大した意味はない」

「……?」


 それ以上語ることはなく、忠道は陸の瞳を見つめ続けた。今一つ要領を得ない陸は、彼の言葉の意図が読めず、きょとんとした表情になる。


 ――その日の夕暮れ。病気を後にして、自宅への帰路についた陸は、未だに忠道が残した言葉に引っ掛かりを覚えていた。


(なんだったんだろうな? さっきのおっちゃん)


 まるで何かを伝えようとして、上手く言葉に出来なかったことのような……言い知れぬ不自然さが、あの時の忠道に感じられた。

 あれは一体、何だったのだろう。


 ――その思考を、目の前の光景が中断した。


「雨季陸、だな」

「おん?」


 ふと、顔を上げた先には――いかにも怪しそうな、黒スーツのグラサン男。

 この季節には余りにも似合わないその不審者を前に、陸は手馴れた動きで構えを取る。こうして因縁を付けられ喧嘩に発展した経験は、数え切れないほどあるのだ。


「カツアゲかい? 悪いね、帰りの電車賃くらいしか持ち合わせはねぇんだ!」

「――何を勘違いしてる、俺が喧嘩をしにきたとでも?」

「おん?」


 ――だが男は殺気をまるで見せず、何かする気配もないままサングラスを外して見せた。まるで敵意を感じない相手の雰囲気に、陸は毒気を抜かれたように構えを解く。

 経験則と噛み合わない男の様子に不審を抱きつつも、陸は出方を伺おうと素顔を覗き込む。そして――目を丸くした。


「あれ? 兄ちゃん、どっかで見たことある顔してんな」

「――伊葉和士だ」

「うっそぉおぉぉおぉん!?」

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