第三部 着鎧甲冑ドラッヘンストライカー

第28話 雨季陸という男

 天坂結花あまさかゆかは、恋をしていた。

 それは恐らく、物心がついた時から。


 保育園の頃も、幼稚園の頃も、小学生の頃も。彼女の熱を帯びた眼差しは、ただ一人の少年だけに捧げられてきた。

 幼い頃から内気な上に小柄で、苛められやすかった彼女を守り続けてきた、その少年の名は雨季陸あまきりく


 東京の小さな街角にあるラーメン屋「らあめん雨季」の跡取り息子であり、天坂総合病院院長の娘である結花とは天と地ほどの身分差である彼だが……幼馴染である両者は互いの家を隔てる壁など意に介さず、共に過ごしてきた。

 三姉妹の中でも一際気が弱く、大人しかった結花にとって明るく快活な陸の存在はかけがえのないものであり、両親公認の仲になるまでに、そう時間は掛らなかった。


 何年経っても小柄なままの幼児体型である結花とは正反対に、年を追う毎に体格を増して行く陸は、いつだって学校の人気者であった。

 勉強こそからっきしだが、端正な容姿とそれを鼻にかけないあっけらかんとした人柄は老若男女問わず周囲の人気を集め、スポーツ万能というアドバンテージが女子の好意を独占する。さらにラーメン屋の息子というだけあって料理にも精通しており、彼の店にファンが並ぶことも少なくない。


 ――しかも、それだけではないのだ。


 小学生の頃から始め、その長身を活かした陸上競技において無敗を誇った彼は、中学陸上競技会で新記録を次々と叩き出し――世界大会で同世代のライバルを蹴散らすにまで至ったのである。

 日本の短距離走において、雨季陸の名を知らぬ者はいない。誰もが、そう口にして憚らないほどの成果だったのだ。


 まさに、誰もが羨む王道のような存在。そんな陸という身近な幼馴染に対して――結花は、あまりにも平凡だった。

 姉二人と比べ、まるで成長しない胸。幼児体型とからかわれ、あのトップアイドル「フェアリー・ユイユイ」の妹である事実もなかなか信じてはもらえない。信じられたらそれはそれで「なんで妹のお前は」と蔑まれる。

 いつも成績が危うい陸に勉強を教えているのは彼女だが、彼女自身も特別頭がいいというわけではない。せいぜい、平均より少し上という程度のことである。

 そのことから成績優秀な女子からやっかみを受けた回数は、計り知れない。


 運動もできない。勉強も大したことはない。姉達のように美人でもなく胸もない。愛嬌があって可愛らしいと言ってくれる友達はいるが、それでも家族や幼馴染に釣り合うものとは、到底思えなかった。

 なぜ自分だけが平凡なのだろう。どれだけそう嘆いても何かが変わることはない。せめて可愛くなろうとお洒落に気を遣っても、姉達はそんな努力を才能で踏み越えてしまう。


 それでも、彼女は絶望しなかった。――陸だけは、どんな時でも味方だったからだ。


 保育園や幼稚園で苛められた時は「ゆかをいじめるなー!」と男子達を相手に大立ち回り。小学校に入り、周りの女子達から陰湿な苛めを受けた際は「結花を苛めるってことは宣戦布告ってことだな! オレは逃げも隠れもしねぇ、文句ある奴は掛かって来い!」と周囲を一喝。

 中学校に入れば、苛めから守るために自分の目が届く陸上部へと、マネージャーとして誘い入れた。


 そのことでどれほど周囲からからかわれても、彼は「オレはやましいことなんてしてない。恥ずかしがることなんてない」と胸を張り、妬む周囲を黙らせるほどの実績を陸上で叩き出してきた。


 ――そんな彼に結花が熱烈な想いを抱いてしまうのは、ある意味では必然だったのかも知れない。

 それを自覚してからの彼女は、彼への献身にのめり込んでいた。


 朝早く彼の弁当を作り、早朝の練習をそっと見守り、疲れているようならタオルとドリンクを手に駆けつける。

 そんな毎日が、彼女の心に満ち足りたものを与えていた。


 そして、時は過ぎ――二◯三四年四月。

 結花は自分の半生を占めた初恋に、一つの決着を付けようとしていた。

 告白である。


 都内の高校「五野寺学園高校ごのでらがくえんこうこう」、通称「五野高ごのこう」への入学を決めた二人は、桜が舞うこの季節の中、入学式への道を歩んでいる。


「今日からオレらも高校生かァ〜……。なんか実感沸かねぇよな、結花」

「そ、そうだね。でも、きっと一週間も経たないうちに馴染むよ。どこでも構わず居眠りしちゃう陸ならね」

「あっはは! そうかもな! んじゃ、またオレが寝てたら上手い具合に起こしてくれよ。先生のチョークが飛んでくる前に、さ」

「もう。最初から私をアテにしないでよ! たまには自分で宿題もやらなきゃダメだよ?」

「ちぇ。結花先生は厳しいなぁ」

「厳しくありません! あと先生でもありませんっ! ――私がなりたいのは、こ、こいび……」

「おん?」

「えっ! えっ、えっと、その……」


 このタイミングで想いを告げ、華の高校生活を恋人同士として過ごしたい――それが、結花の願いであった。


 黒い髪を春風に靡かせ、少し着崩した制服姿で並木道を歩く幼馴染の姿は、少女の瞳には輝いて見えていた。

 百八十八センチの長身と、百四十五センチの幼児体型ではアンバランスにも程があるだろう。だがそれでも、彼女は想いを告げることに躊躇いはなかった。

 そんな理由では引き返せないほどに、強い想いなのだ。


(……い、言うしかない。絶対、絶対伝えて……ちゃんと陸と、愛し合うんだ……!)


 震える手を握り締め、ゆでだこのように顔を赤らめ――結花は、横目で最愛の幼馴染を見上げる。中学陸上競技会のスターとは思えないほど、だらしのない表情。だが、そんな表情一つ一つが、結花にはたまらなく愛おしかった。


 告白しよう、という時にそんな母性を刺激する顔を見せられたからか。彼女は考えるよりも早く、彼より前へ――横断歩道へと飛び出していた。


「結花?」


 彼女らしくもない突飛な行動に、幼馴染は目を丸める。――そして。


「……陸! あのね、私ね!」


 勇気を限界以上に搾り出そうと、彼女は両手で胸元を握り締め――想いのままに声を上げる。


「小さい頃から、ずっと、ずっとあなたが! すっ――」


 そして己の枷を外した彼女が長年募らせてきた想いを全て、解き放とうとした――その瞬間。


「――おい、結花っ!」


「――えっ!?」


 血相を変えた陸が、飛び込んできた。突然の展開に結花はまともに反応することすら叶わず、されるがままに突き飛ばされてしまう。


 視界の先を、大型トラックが過ったのは――その直後だった。


「いたっ!」


 陸に突き飛ばされるままに尻餅を付いた彼女は、一瞬だけ痛みに目を瞑り――すぐさま正面を見た。


 ――それは。想い人への告白に踏み切り、幸せな将来を夢見ていた少女の心を打ち砕くには、過ぎた威力だった。


 うつ伏せに倒れたまま動かない幼馴染。いつも能天気に笑っていて、辛い表情など一度も見せてこなかった彼は――初めて。彼女の前で、苦しげな呻き声を上げていた。


「……あ」


 余りのことに、結花はまともに言葉が出ない。それでもなんとか口を動かそうとする彼女の眼前には――


「……あ、ぁぅ、あ」


 ――鮮血に濡れた片足が、転がっていた。


 その足が誰のものか。どれほどのものか。彼女は知っている。利き足であるあの黄金の左脚で、彼がどれほど多くの功績を打ち立ててきたか。

 どれほど、みんなを元気付けたか。どれほど、自分の心を奪ったか。


「い、あぁあ、あぁあぁあ……」


 彼女には、わかっていた。


 だからこそ――無意識のうちに、己の心を砕いてしまったのだ。

 自分が招いたことの大きさに、自分の全てが破壊される前に。


「ぁあぁあぁ、あぁあぁあァァァァッ!」


 砕かれた心の嗚咽を、悲痛な叫びに変えて。


 無傷であるはずの結花は、血に濡れたまま愛する男の胸を抱き、絶叫を上げる。発狂を回避するために本能が命じた、最後の防壁であった。


 ――この日。

 かつて世界の陸上競技にその名を知らしめた雨季陸の存在は、スポーツ界から抹消されることとなる……。

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