第205話 久水家の宴

「ん……」


 一煉寺の寺とは違う、畳や襖の匂い。枕の温もり。

 そして、この嗅覚を擽る香りは――味噌汁だろうか。

 意識が目覚め始めた俺を出迎えたのは、得体の知れない匂いの数々。その感覚が、自分自身が知らない場所にいることを悟らせ、えもいわれぬ不安を煽る。


「……ッ!?」


 その不安に追われるように、俺は飛び起き……そこでようやく、見知らぬ和室を目の当たりにするのだった。


「ここは……? 俺は確か、あの時……」


 茂さんとの決着を付けた直後、俺は意識を失って……ってことは、ここは久水家の中なのか?


「ん……?」


 その結論にたどり着いた俺の関心を次に引いたのは、味噌汁の香りの先から僅かに聞こえる喧騒。

 何を喋っているのかまでは聞き取れなかったが、数人が集まって騒いでいることだけは確かなようだ。


「……」


 その騒ぎに引き寄せられるように布団から立ち上がり、襖を開く。その時になり、俺は自分が見慣れない浴衣を着ていることに気づいた。

 「救済の超機龍」を彷彿とさせる、燃え上がるような真紅の浴衣。ただの客人用にしては随分と派手な色遣いだが……なんだろうな、何かしらの作為を感じる……。


 襖を開けた先では、屋敷の廊下が延々と続いていた。既に夜の帳も下りており、月明かりに照らされた庭の池が妖しく照り返している。

 それだけに、明かりが灯っていたとある一室の喧騒はひどく際立っているように思えた。そこへ近づくに連れて、聞き覚えのない声が響き渡ってくる。


「なんじゃあ茂ぅ! わしの酒が飲めんと申すかぁ!? おぉん!?」

「……ワガハイ、下戸ゆえ」

「まぁまぁ、あなた。嬉しいのはわかりますけど、茂はお酒はダメなんですから……」


 その部屋の襖を開くと、親子と思しき三人が整然とした和室で和気藹々と団欒に興じていた。その隅で、数人の使用人らしき人達が正座で待機している。

 藍色の和風に身を包んだ茂さんは、禿頭に貼られた絆創膏をさすりながら茶を飲んでいる。その隣で、わいのわいのと騒ぎ立てている初老の男性を、三十代半ばと思しき妙齢の美女が窘めていた。


 ……この女の人、写真で見た覚えがあるぞ。確か、久水先輩のお母さん、だったはず。てことはやっぱり、この人達は……。


「ん? おぉ目が覚めたか! 待っておったぞい、一煉寺龍太君! わしは先代久水家当主の久水毅ひさみずたけしっちゅうもんじゃ! あ、わしのバク転見る!? 見ちゃう!?」

「初めまして。わたくしは久水舞ひさみずまい、と申しますわ。いつも、茂と梢がお世話になっております」

「……ふん。ようやく目覚めたか、だらしのない奴め」

「あら、いけませんよ茂。お友達にそのようなことを言っては」


 やはり、茂さんと久水先輩の両親だったらしい。毅さんの方は見た感じだと六十代後半くらいのご老体のようにしか見えないが、酒を手に腹踊りしたり室内でバク転したりと、まるで落ち着きがない。

 一見子供のような振る舞いだが……あの頭、ご年配に違いない。茂さんのスキンヘッドとは違う、正真正銘の禿頭だ。


 一方、舞さんの方ははち切れんばかりのナイスバディを和服の中に隠し、慎ましく座っている。……本当に還暦近いんだろうな?


 茂さんは相変わらずの仏頂面だが、一人称は元通りの「ワガハイ」に戻っていた。その態度に舞さんが苦笑いで苦言を呈したが、当の本人に変化はない。


「いやー、まさかあの茂が、この本家に友達を連れてくる日が来るとはのぅ! 二十年間ぼっちだった茂にも、ついに仲のいい友達が出来たか……。ようし、龍太君も起きたことだし、今宵は飲むぞ! 朝まで飲むぞ! ううう……」

「あらやだ、泣かないでくださいまし。わたくしまで……もらい泣きしそうで……。そ、それに龍太様はまだ未成年なのですから……」

「何を言うか! 男と男の語らいに酒が入らんでどうする! 拳で語り合う友情には、最高の酒で応えねばならん! 瀬芭せば、酒を持ってこーい!」

「はは、ただいま」


 ――と思っていたら、急に親御さん達の方がさめざめと泣き始めていた。え、ぼっちって茂さんのこと? 友達って、俺のこと?

 しかも、酒瓶持って来てるあの使用人さん……和服のせいで気付かなかったけど、まさか茂さんの別荘に居たセバスチャンさんじゃない? 瀬芭って名前だったんだ……なるほど、だからセバスチャン。


「おうおう瀬芭、お主も飲まんかい! 今宵は無礼講じゃ!」

「ははっ! ……この瀬芭、坊っちゃんの此度の躍進に無上の喜びを感じております。しかし、それゆえに! 件の決闘の審判として、是非とも……立ち会いたかったッ! うおろろろろんっ!」


 ……いや、あの決闘に限っては来なくてよかったと思うよ。多分気が散っちゃうから。


「ワガハイが違うと言っても聞かなくてな。――こう騒がしくては話になるまい、外に出るか」

「お、おう……」


 肩を抱き合いむせび泣く久水家の面々を尻目に、茂さんはスッと廊下へ出て行ってしまった。俺は後ろ髪を引かれる思いをあの人達に感じつつ、そのあとに続いて行く。

 やがて茂さんが立ち止まり、腰を下ろしたのはさっきの池の目の前だった。その隣に俺が腰を下ろしてから程なくして、寡黙だった彼がようやく口を開く。


「……結論から言えば、この決闘は貴様の勝ちだ。あの一戦で、今の貴様でもワガハイよりは使い物になると証明されてしまったからな」

「……」


 ――茂さんはそう言うが、俺の胸中は晴れない。勝った、という気がしないのだ。

 精神面では終始、俺は茂さんに圧倒されていたように思う。真に強い者だけが正義を通せる、という話なら、否定されたのは俺の方じゃないだろうか。


「だが、これで終わりではないぞ。いや、始まりですらない。貴様はワガハイに勝った以上、是が非でも勝者としての義務を果たさねばならん。必ずラドロイバーを倒し、皆を守り抜くという責任がな」

「……わかってるさ。鮎子のことも、俺が守ってやる」

「……やはり貴様はわかっていない。彼女は貴様に命を――全てを託した。貴様のために『新人類の身体』への恐れを乗り越え、共に戦うために」

「……共に……」

「貴様が眠っている間に……彼女達姉妹の覚悟のほどは見せてもらった。鮎子君と貴様は、もはや一心同体。貴様は彼女を守るのではない。彼女と共に、人々を守り抜くのだ。肩を並べて、互いの命を懸ける――そのリスクと引き換えに得る力が、『二段着鎧』なのだぞ」


「……二段着鎧、か」

「そうだ。一人で戦い、一人で終わらせる『怪物』ではなく――仲間と共にリスクを背負って立ち上がる『人間』として、貴様は貴様の守りたい者を守れ。それが、貴様が望まれる強さだ」


 ――二段着鎧。そうだ。そいつを使いこなすために、鮎子は今までずっと……。


「そのリスクなくして、ダスカリアンを救うことは出来ん。彼女だけを修羅にはさせるな。修羅の道には、貴様も付き合え。それが、今の貴様が為すべき義務だ」

「……ああ。やって見せるさ」

「それに、ちょうど明日は七夕だ。今のうちに、貴様が果たしたい正義でも書き留めておくのだな」

「……は?」


 今、なんつった。七夕?


「ん? ああ、言っていなかったか。貴様は三週間以上昏睡状態だったからな。鮎美さんがいなければ、今頃は病院に強制送還になっていたところだ。感謝することだな」

「そんなに寝てたのか俺!? ――ってあれ? そういえば女性陣はどうしたんだ」

「彼女達なら夕食を取って先に就寝したはずだ。といっても、全員貴様のことが気掛かりで眠れない日々が続いていたからな。まだ起きている者もいるかも知れん」


 ……そっか。みんな、俺のこと……。三週間も眠りっぱなしじゃ、結構長いこと心配かけただろうしなぁ。

 せめてこれからは、いらん迷惑はかけねぇようにしなきゃな。


「……じゃあ俺、ちょっと部屋に戻るわ。もしかしたら入れ違いになってるかもだし」

「ああ。――それと、梢にも断りは入れておけ。ああ見えて、未練がましいところもある」

「……わかった」


 ――そうだな。ケジメは、ちゃんと付けとかないと。


 そのやり取りを最後に、俺は踵を返して自分が眠っていた部屋へ向かう。

 そこは――茂さんの見立て通り、襖の奥で人影が蠢いていた。あのボンキュッボンなシルエット、俺が知る中では一人しかいない。


 やがてその人影の主は、切迫した様子で襖から飛び出し――すぐ目の前にいた俺と相対した。


 寝間着と思しき薄い生地の浴衣を纏う、豊満な肢体。その美しいラインを、冷や汗がなぞるように伝う。

 茶色が僅かにかかった、その艶やか黒髪は――短くなった今でも、強く俺の脳裏に刻まれていた。


「龍太……様……!?」


 その全てを持つ女――久水梢は今、俺の目覚めに驚きを隠せずにいた。

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