第195話 褐色の少女と戦える理由

「明日……か」


 決闘前夜の空を見上げ、俺は窓の淵を握り締める。

 久々に帰り着いた我が家のベッドの上は、そこに込められた焦りを僅かに癒してくれるが……やはり、不安は拭えない。


 救芽井にああまで言わせたこと。四郷に過酷な訓練を強いている事実。久水先輩の、真っ向から俺に挑もうという、あの眼差し。

 そして、今だに百パーセントの力を出し得ない、この腑抜けた身体。


 自分自身の正しさも、強さも、全てが揺らごうとしている中で――時間だけがいたずらに過ぎてゆく。まるで、俺だけが時計の中から切り離されているかのように。


 きっと、長い間病院で眠り続けていたせいもあるのだろう。あのあと、意識のない兄貴に別れを告げた時も、家族三人で食卓を囲った時も。

 胸の内を蝕む孤独感から、逃れることは出来ないでいた。


 せっかくリラックスさせるための計らいとして、古我知さんに自宅まで帰して貰ったってのに――情けないったらないぜ。


 だが、それでも俺は勝たなくてはならない。今まで止められてきた時間を取り戻し、前に進むためにも。


「茂さん……待ってろよ……!」


 淵を握る手に、ますます力が入る。以前の俺なら、淵ごと握り潰しかねないような力み方だ。

 だが、淵には何の変化もない。何事もなく、ありのままにそこに存在している。

 その些細な現実さえも、今の俺には耐え難い光景になりうるのだ。もう俺には最年少資格者としての力すらないのだと、知らしめるかのようで……。


「……くそっ」


 例えどれだけ背中を押されようと、励ましの言葉を受けようと。実際に決闘の舞台に上がり、彼と戦うのは俺一人だ。

 そこから先の世界には、助けもなければ支えもない。全て、俺自身の力に懸っている。

 物理的に見れば、あまりにも不利。ジェリバン将軍との決闘の時のようには、絶対に行くまい。あの時よりも、今の俺は確実に劣っているのだから。


 そうであっても、勝とうという戦意を見失わずにいられるのは、救芽井や四郷――家族達みんなが、俺について来てくれているからだ。こんな俺を、見放さずにいてくれるからだ。


 そして、この世界に踏み込んでいく前から、ずっと俺の側に居てくれた彼女が……。


「……」


 振り返った先に飾られた時計の針は、夜の十時を過ぎていた。……まだ、あいつは起きてるだろうか。

 聞きたい。今だからこそ、あいつの声が。

 ……聞きたいんだ。


 悪いと思いつつも、気がつけば携帯に手が伸びている。普段なら思い留まりそうなところなのに。

 ボタンを押す指が、止まらない。気持ちが、止まらない。


『もしもし……龍太? どないしたん?』

「あ、えっと……よ、よぉ矢村」


 そうして何を話すかも思いつかないまま、気がつけば彼女の声が聞こえるところまで来てしまっていた。

 ……参ったな。それなのに、嬉しい気持ちが出て来てしまっている。手の震えも、いつの間にか止まっていた。


「なぁ、今……ちょっといいか」

『へっ? まぁええけど、明日は朝早いんやろ。大事な日なんやから、あんまり長話はしちゃいけんよ』


 今、矢村は厳重なセキュリティに護られた救芽井のマンションに仮入居している。四郷姉妹は別室だが、確か救芽井が同室だったはず。昼間、あんなことがあった彼女が近くにいるであろう状況の中で、こんな不純な動機で電話をしようとはな……。

 全くもって今更な話だが、ゲスい奴だな俺は。


「わかってる。ただ、お前の声が聞きたかっただけだから」


『え』


「あ」


 そんな時に電話を掛けていながら、気持ちに歯止めが効かない中で、思うままに喋りすぎてしまったせいなのか。

 あまりにもバカ正直で、歯が浮くような文言が飛び出してしまった。


「ん……えっと、今のはだな――」

『フニャァアァアアアァッ! フニュウウウゥッ!』

「――え、ちょ、なに!? 何事!?」

『な、なんなの!? どうしたのよ賀織っ!』

『りゅ、りゅりゅりゅ! 龍太がアタシのこと今すぐ抱きたいって! すぐに赤ちゃん作りたいってぇえぇぇえっ!』

『な、なな、なんですってぇぇえええぇ!?』


 さすがに照れくさかったので、もっともらしい理由を付け加えて誤魔化そうとしていた、俺の卑小な考えを吹き飛ばすかのように。

 矢村の強烈な絶叫と騒音が、電話の先から轟いて来た。皿が割れる音や本棚が倒れる音、救芽井の驚いた叫び。

 ありとあらゆる爆音がひしめき合う阿鼻叫喚の地獄絵図が、繰り広げられていた。


 ていうか矢村。俺はそんな下世話なことは口走っちゃいない。誤解を振りまくのはやめれ。


『龍太君! ちょっとそれ本当なの!?』

「誤解だ、誤解! 少し矢村に用があるだけだよ。夜中に脅かして悪かったな」

『べ、別にあなたが気にすることじゃないけど……じゃあ、本当は何て?』

「矢村の声が、聞きたかった。それだけだ」

『……聞きたいのは私じゃ、ないんだ』

「お前からは、昼間に元気を貰い過ぎちまったからな。これ以上お前の声を聞いてたら、お前に甘ったれて腑抜けになっちまう」

『も、もう……ばか! ……甘えても、いいんだからね。代わるわよ』

「あぁ」


 今は、俺と電話越しに話すのも恥ずかしいのか。

 矢村から強引に代わり、電話の向こうから俺に詰め寄ってきた救芽井は、昼間のことを触れられた途端、露骨に声を上ずらせて引っ込んでしまった。ちょっと可哀想だった……かな。


 そこから数秒の時を経て、気を取り直した俺は再び矢村に話しかけて行く。あの声を、もっと聞きたいから。


「矢村ぁ? おーい、大丈夫かよ」

『んにゅっ! だっ、だだ、大丈夫やで! どどど、どしたんや?』

「いや……なんだろうな。ただ声が聞きたかっただけなのに。今は、お礼が言いたい」

『おっ、お礼?』

「うん。お礼だ」


 この夜の闇の中で、不安に押し潰されそうになって。そうはなるまい、と半ば強引に意気込んで。

 それでも、恐れから逃げられなくなりそうだった時。気がつけば、俺は彼女の名を呼んでいた。


 そして、いざ声を聞いてみれば。

 耳をつんざくような騒がしい彼女が、いつもと変わらない雰囲気を纏って、いつものようにハレンチなことを口走っていた。

 今は、それすらも愛おしい。


 変わらないでいてくれる彼女と、その在り方が。それを大切にしたいと、俺を願わせるのだ。


『ア……アタシは別に、何もお礼なんて言われるようなことはしとらんよ。樋稟も鮎子もすごいことやってきとるし、梢先輩やってホンマはあんたが心配やからこんなことしとるんやろうし……。アタシは今も昔も変わらんまんまで、何の役にも――』

「変わらないで居てくれることに、だよ」

『――えっ? か、変わらん、こと?』

「そ。俺がどうなっても、周りがどんなに変わっても。お前はずっと、昔のままだ。昔みたいに口うるさくて騒がしくて、ちんちくりんで。……こんな時でも、電話に出てくれるくらい優しくてさ」


 不安な気持ちを、彼女の普段通りの姿にほぐされたからか。いつも

なら最後の砦となるはずの心のブレーキが、まるで仕事をしてくれない。


「もうっ! ちんちくりんは余計――」


『そんなお前がずっと好きだったから。お前の前でカッコつけたかったから、俺は今まで戦い抜いてこれたんだと思うんだ』


 そしていつからか。俺は、ブレーキを踏もうとする気持ちさえ、彼女に溶かされていたようだった。


『えっ……』

「だから、これからもきっと大丈夫。お前なら、そう思わせてくれるから。この先も、そうありたいんだよ、俺は」

『あ、や、う、うそ、アタシ、アタシは……!』


 ――それ見たことか。ブレーキを踏まなかったばかりに、慌てさせちまってよ。いちいち人を困らせることに余念がない男だな、俺は。


 まぁ、いい。言うだけ言ってスッキリした方が、明日の決闘のモチベーションになるってものだ。

 夜の闇に、自業自得で赤くなった顔が隠れているうちに――言いたい放題、言わせてもらうとしよう。


「矢村。お前は、俺のやることには反対か?」

『ん、んなわけないやんっ! アタシは、あんたがしたいことの邪魔なんて出来ん! アタシには、あんたをちょっとでも励ますことしか……やれそうなことも、ないんやから』

「だったら。俺は、お前のためにも勝つよ。おかげで、決心もついた」

『ひぅ……!?』


 矢村はさらに上ずった声でひっくり返ったような音を立てるが、電話の向こうからは嬉しそうな声が立て続けに漏れ出していた。

 ここまで来ておいて、やっぱ負けました。なんてことになった日にゃ、身体が完全になってラドロイバーが無事に捕まっても、一生着鎧甲冑には触れられなくなっちまうな。


 ま、勝てばいい話だ。


 ……って、我ながら現金なもんだよな。さっきはあれだけ決闘を怖がってたってのに。

 今は勝てる気しか、しないなんてよ。


「じゃ、お前の言うとおり明日は早いんだし。もう寝るわ」

『えぇえっ!? ちょ、ちょっと待っ――!』

「お休み。俺がぞっこんな、矢村賀織」


 明日どんな顔で会えばいいのか。そんなことはまるで考えていない、どストレートな告白の嵐。

 面と向かっているわけでもなく、つかは殺されるかも知れない今でしか、到底言えない台詞だっただろう。


 だが、これでいい。

 これくらい無茶苦茶に負けられない理由を作っとかなきゃ、現実の状況に呑まれ、戦う前から勝敗が決まっていた。


 瞼を閉じると――照れた褐色少女の愛らしい笑顔がふわりと浮かび、消えてゆく。


「……いい夢、見れっかな」


 決闘前夜の空を見上げて、俺は窓の淵を静かに撫でる。淵に触れる手に、震えはない。

 そして、まどろみに意識を任せる中で――俺はようやく。笑うことができた。

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