第192話 嫁姑戦争(物理)

 病院に勤めている看護婦や医師は、その多くが既に避難しており、元々ここに入院していた患者達も隣町に移されている。志願により残って働くことを許された医療関係者達は、十人もいない。

 そのため、院内のあちこちが閑散としており、場所によっては病院自体が閉鎖されているように錯覚してしまうこともある。


 受付が席を外していたロビーも、その一つだった。

 その中でうごめく、人影が二つ。


 母さんと――救芽井だ。


「ほら、龍太あそこ……!」

「ホントだ……二人とも、あんなところで何を……」


 駆け寄ろうとも思ったが、彼女達を包む空気は目に見えない重さを放ち、俺達の接近を拒んでいるようだった。

 自然と、俺も矢村も曲がり角に身を隠してしまう。誰かに隠れろと言われたわけでもないのに。


 ――なんだよ。何にビビってんだ、俺は。


 得体の知れない第六感の警鐘に、俺は思わず眉を顰める。隠れるように、と本能を導いたモノを肉眼で探し求めた結果、俺の視線は母さんの姿を捉えたところで落ち着いた。


 ――だいたい、あれはどういうことなんだ。本当に、あれが母さん、なのか?


 以前、俺の見舞いに来ていた時とは違い、全身を茶色のロングコートで包み込んでいる。しかも襟の周りは高級そうな羽毛で飾られており、慎ましい服装ばかりだった母さんらしからぬ出で立ちであった。


 さらにその瞳は、かつてない程に鋭い。長い年月を掛けて追い詰めた宿敵を睨むかのような、揺るぎなく――苛烈な眼差し。

 全てが、俺の知らない姿だけで埋め尽くされている。十八年間の思い出がなければ、母さんだと気づかないくらいに。


「いつかは、こういう日が来るやも知れん。そう思う時もあったが、まさかこのようなタイミングで来ようとはな」

「う、うおっ!? 親父!?」

「ひぁあ!?」

「龍太。それに賀織君。これは、母さんと樋稟君の問題だ。わかっているだろうが、俺達が手を出すべきではない」


 いつから居たのだろうか。俺達が隠れるために身を寄せた曲がり角で、親父は懸命に身を潜めていた。ガタイのせいで少々無理があるようにも見えるが、母さん達が親父に気づいている気配はない。


「な、なんだよそりゃあ。母さん、何をする気なんだ!?」

「じきにわかる。お前自身のことも含めて、な」


 親父は向かい合う二つの人影を見つめ、静かにそう呟いた。俺自身のこと……? なんだってんだ、そりゃあ。


「あなたがここへ呼ばれた意味、今さら考えるまでもないでしょうね。救芽井さん」

「……はい」


 そんな疑問に向かう意識を断ち切るように、母さんが重々しく口を開く。聞いたことのない、低く唸るような声色――これが、母さんの声、なのか?


「一年前、あなたは約束したわ。息子を、戦うばかりではない、拳法ばかりに頼らない――そんな、名前の通りの素晴らしい『ヒーロー』に育てて見せる、と」

「……」

「あなたの思うその『素晴らしいヒーロー』とは、今のあの子のように、一国の存亡を賭けた決闘に駆り出された挙句、元軍人の陰謀に巻き込まれるような人を云うのかしら。かけがえのない兄弟を失いかけるところまで行かないと、辿り着けない場所なのかしら」


 救芽井を追及する母さんの眼差しは、洗練された刀剣のように、鋭く――冷たく、そして容赦がない。今にも、救芽井の肉を切り裂かんと狙っているようにも見えてしまう。

 そのただならぬ雰囲気を肌で感じ取っていた俺は、反射的に母さんを止めようと動き出す――が、親父に肩を掴まれ、あっけなく止められてしまった。

 その手に込められた力は尋常ではなく、肩を掴まれているだけなのに、俺の体は金縛りに遭ったかのように動かない。


 俺は咄嗟に上を見上げて親父に抗議の視線を送るが、親父は無言のまま首を横に振るばかり。

 あくまで、母さんに任せておくつもりなのか。少なくとも、親父は母さんを信頼しているみたいだが……不安だ。


 ――それにしても、母さんは一体、どういう人だったのだろうか。十八歳を迎えた今になって、俺は不思議に思っていた。


 俺が知っている母さんは、何があっても柔らかく笑うばかりの人で、怒った顔なんて一度も見たことがない。怒ることがないわけではないのだが、そういう時はにこやかに笑いながら妖しいオーラを噴き出して、俺達を屈服させていた。

 ……そう。俺がクラスの女子と喋ったというだけでそわそわしたり、一緒に暮らしていた頃は、毎日弁当を作ってくれたり。少々思い込みが激しい点を除けば、基本的にはどこにでもいる普通の主婦だったはず。あんな顔をする人では、なかった。


 だが思い返してみると、普通と言うには違和感が残る部分もあった。


 実は母方の実家、というものを、俺は知らないのだ。親父と結婚するまで、母さんは孤児だったと聞かされていたからだ。亡くなった両親のことを思い起こさせるのは可哀想だから詮索するものじゃない、と親父に言い聞かされていたこともある。

 俺としても、無為に母さんを傷つけるような真似は望まないし、知らなきゃいけない理由もなかったから、特に母さんの過去を気にすることはなかった。きっと、兄貴もそうだったのだろう。


 それに、親父が以前話していた「母さんと結婚するために一煉寺を出奔した」という話もよく考えたらちょっと変だ。

 確かに身元不明の孤児との結婚ってのは、時代が時代なら嫌がられてもしょうがないのかも知れないが……親父の世代でそんな風習が残っていたとは考えにくい。爺ちゃんがよほど古風な価値観を持っていたから、とか?

 でも、爺ちゃんは親父に一煉寺を継ぐかどうかは、自由に決めさせていたとも聞いている。そんなにフリーダムだったという爺ちゃんが、孤児との結婚くらいでいちいち目くじらを立てていたというのは、違う気がする。

 親父が母さんと一緒になるために実家を飛び出したのには、別の理由があったのか……?


「……今回の、私の失態は……弁明の余地すらありません。決闘の話が出た時点で、外部からの干渉を警戒すべきでした」

「ああすればよかった、こうすればよかった。そんなことを語って罪を清算できるのなら、私がここに居る意味はないのよ。私はただ、あなたの今の考えを聞きたいのよ」


 そうして俺が思考を巡らせている間も、母さんと救芽井の会話は続いていた。母さんの眼光を真正面から受け止める救芽井は、俯きながらも母さんから視線を逸らさずにいる。

 逃げてはならない、と己に言い聞かせているようだった。


「今回の主犯とされるエルナ・ラドロイバーの身柄を確保することが、今の最優先事項です。龍太君とジェリバン将軍の決闘の件は、しばらく保留になるでしょう。――私は、確かに龍太君を守れなかった。そればかりか、龍亮さんまで……」

「……」

「……でも、彼がもう一度立ち上がろうとしている今、私だけがいつまでも悔いているわけには参りません。今度こそ彼を守り抜けるよう、可能な限りの最善を尽くして――」


「――そんな言葉には、もう何の意味もないわ。あなたには、もう何の信頼もない」


 全てを断ち切る、はっきりとした一声。


 その有無を言わせぬ気迫が、救芽井の言葉を遮り……彼女の瞳を貫いて行く。恐れを隠し切れなくなった救芽井の肩が、僅かに震えた。


「今までだって、あなたは最善を尽くしてきたでしょう。それでも、あなたは何もできなかった。そして、私の息子達を――その生贄にした。他に残された事実があるのかしら?」

「……ッ!」

「ここまでのことをしておいて、よくも私をお義母様などと呼べたものね。吐き気がするわ」


 畳み掛けるように、母さんは救芽井を罵倒していく。怒りよりも――冷ややかさを前面に出して。

 どうでもいい人間を、軽くあしらうような口調だった。その言葉を受けて、とうとう救芽井は目を伏せてしまう。


「あ、あわ、あわわっ……! ひ、樋稟っ……!」

「くっ……のっ!」


 矢村も、救芽井を案じて焦りを募らせていく。俺は救芽井の側へ駆け寄ろうと身をよじるが――親父の手は未だに離れない。


「離せよ! 離せ! あんなの、あんまりだろうがッ!」

「待つんだ、龍太。母さんは、樋稟君を見放してなどいない」

「な、なんだと……!?」

「試し方を、変えようとしているだけだ。心配はいらない」


 親父は、表情を変えないまま母さんを静かに見つめている。俺が訝しみながら、その視線の先を追った時――状況に、変化が現れた。


 茶色のロングコートが、羽毛を散らしてふわりと落ちる。その上には――紫紺のチャイナドレスを纏う、母さんの姿があった。

 豊満に飛び出した胸。くびれた腰つき。大きくも、引き締まった臀部。そして、細くしなやかな手足を覆う――人体の限界まで凝縮された筋肉。


 様になっている、なんてものじゃなかった。

 まるで、これが母さんの本来の姿であると思い込まされてしまうほどに、その凛々しい立ち姿は堂に入ったものだった。

 考えてみれば、今まで母さんは俺の前で露出度の高い格好を見せたことはほとんどない。一緒に風呂に入る相手はいつも親父だったし、常に体のラインが出ない服ばかりを着ていた気がする。


 だからだろうか。母さんなのに、母さんに見えない。


「おっ……お義母、様っ……!?」

「構えなさい」


 動転しているのは俺だけではない。救芽井は目を見張り、口を半開きにしたまま硬直している。

 しかし、母さんは全く表情を変えないままだ。まるで、母さんだけが時間の流れから取り残されているかのように。


 そんな俺達の動揺をよそに、母さんはスリットから覗いていた白く流線的な脚を上げ、何かの構えを見せる。

 無駄を感じさせない、洗練された佇まい。親父や――将軍に通じるものさえ感じてしまう。なんだ……!? なんなんだ、母さんは!?


「……もう、潮時ということだな。お前だけには知られまいと家族ぐるみで隠していたが……」


 その時、沈黙を破って親父が口を開く。その眼の色は、どことなく「何かを懐かしむ」思いを漂わせていた。


「母さん――久美の故郷は、この国ではない。だが、今の彼女にとってはこの国、この家だけが全てなのだ。かつて俺が壊滅させたチャイニーズマフィアの頭領『獄久美ユー・ジゥメイ』は、もうただの主婦でしかないのだから」


 母さんが、誰だったのか。


 それが明らかになる時――


「来ないのなら――私から参る」


 ――物理的な嫁姑戦争が、幕を開けた。

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