第182話 どこまでも、いつも通りに

「龍太ぁ……ちぃっとばかし痛いかも知れんが、辛抱だぜ?」


 兄貴の全身を覆い隠す、深緑のスーツ。一切の表情を遮断する翡翠色の仮面。その奥で、聞き慣れた笑い声が聞こえたような――気がした。


 このくっくっと笑うような声は、昔から知っている。俺が四歳の頃、熱を出して「僕、死んじゃうの?」と泣き声を漏らした時も、兄貴は「んなわけあるかバカ」と笑い飛ばして、今のように笑いながら、ずっと傍で看病を続けていた。


 そう、夜が明けても日が沈んでも。旅行に出掛けていた両親が帰ってくるまで――あの日の兄貴は、一時も俺の傍から離れなかったんだ。

 確か兄貴はそのあと、四日間一睡もせずに看病を続けたせいで体調を崩して、俺が治った直後にブッ倒れて病院に搬送されたんだっけ。


 ――なぜ、それを今になって思い出したのだろう。なぜ、こんなに寒いのだろう。これはきっと――悪寒。


「えっ……!?」

「りゅ――龍亮、さん……?」

「……なんだというのだ、これはッ……」


 その悪寒が、形となって顕れる時。


 救芽井と古我知さんと将軍の三人が、同時に兄貴の変貌に目を見張る。


 そして俺は――声にならない悲鳴を上げていた。


「あっ……ちぃなぁ、全く……ハハハ」


 人の命を守るべく、生まれてきたはずの「救済の先駆者」は今――得体の知れない猛火で、守られるべき肉体を焼き尽くしている。

 俺も「救済の先駆者」を行使して古我知さんと戦った三年前は、火炎放射器で全身を焼かれてスーツごと黒焦げにされかけたが……今の兄貴の状況は、それとは根本的に掛け離れている部分がある。


 この発火は――内側からのものだ。


「な、なんやアレ!? おっ……お兄さんどうなっとんの!?」

「あれは……外部の損傷による炎上とは違いますわね……!?」

「……お兄さん、四肢から発火してる……。だとしたら詳しい原因まではわからないけど、間違いなく人工筋肉のショートが関係してる……!」

「人工筋肉ですって……?」


 突然兄貴を襲う謎の炎上に、周囲にも緊張が走る。着鎧甲冑部の面々からは人工筋肉がどうのこうの、という問答が聞こえていた。


「あの現象は一体……!? 四郷先生、これは!?」

「あ、あぁああ、あんなに火がっ、あんなにっ……!」

「……人工筋肉……なるほど、そういうことね」


 一方、この状況に困惑している伊葉さんとダウゥ姫に対して、比較的冷静な鮎美先生は兄貴の手足を一瞥すると、沈痛な面持ちでありながら、どこか納得したように相槌を打っていた。


「……おぉーう、樋稟ちゃん。古我知さん。ついでに将軍さん。あぶねーから離れときな」


 しかし、これほどの状況になっていながら、当の兄貴は軽い口調のまま。

 手足が震え、炎に包まれ、全身の関節からは煙さえ噴き出しているというのに。その奥から聞こえて来る笑い声は、あの日のままなのだった。


「よっ……と!」

「あ、にぎ……」

「あーバカ喋んな喋んな。傷に余計に響くだろーが。ここは愛しいお兄ちゃんに任せときなさい」


 スーツに全身を密閉された状態で高熱を浴びることが、どれほど苦痛なのかは俺だって知っている。逃げ場のない苦しみが際限なく身体の隅々まで覆いかぶさる、あの感覚が……今も兄貴を襲っているはずだ。


 ――だというのに。


「てっ……天井がッ!?」

「樋稟ちゃん、ここは龍亮さんの言う通りにしよう! 止血剤の用意だ!」

「は、はい!」

「……信じられん。我ら三人でも全く動かせなかったというのに……!」


 炎に包まれ震える両手で、今まで超人が三人掛かりで挑んでもビクともしなかった天井を、たった一人で動かし始めた兄貴は――どこまで追い詰められても、いつも通りだったのだ。


 兄貴一人の力で動き始めた天井は、栓が勢いよくすっぽ抜ける直前のように、小刻みに震えている。その光景を目の当たりにして何かを予感したらしく、いち早く我に帰った古我知さんが救芽井に止血剤の指示を出していた。


「……すまねーな、樋稟ちゃん。大事なスーツ、ダメにしちまってよ。ここは俺の首一つで、堪忍してくれ」


 表情を動揺の色に染めながらも、震える手で止血剤を握る救芽井。そんな彼女に向け、兄貴は小さく――何かを呟いている。

 ……なんだよ。首一つ、って、なんなんだよ。何の話だよ、それ。


 そんな俺の胸中に気づくこともなく、兄貴は古我知さんと僅かに視線を交わし――互いに頷き合っていた。


 ――そして。


「じゃー、行くぜ」


 あっけらかんとした、どこまでも「いつも通り」な掛け声と共に。


 兄貴が扮する「救済の先駆者」は――幾多の鉄骨に貫かれた円形の天井を、俺の胸に刺さったモノを含めての、全ての鉄骨を。

 一瞬にして、大穴が開いている天井「だった」部分から、この廃工場の外まで――投げ飛ばしてしまうのだった。


 鉄骨を引っこ抜くとか、天井を退かすとか、そんなレベルの騒ぎではない。兄貴が一瞬の踏ん張りから繰り出した上方への衝撃が、俺を苦しめる物体の全てを吹き飛ばしていたのだ。

 まるで、小さい頃の俺を虐めていた悪ガキを、土手から川までぶっ飛ばしていた時のように。……そう。スケールが違うだけで、兄貴がやっていること、やろうとしていることは……昔から何一つ変わっていないのだ。


 俺を守る。ただ、それだけのために。


「――樋稟ちゃんッ!」

「はいッ!」


 この衝撃的な光景を前に、ほとんどの人間は硬直してしまっており、周囲の時が止まっているかのような状況になっていた。

 しかし、例外はある。兄貴が何をしでかすかをあらかじめ予感していた古我知さんと――止血剤を持った救芽井だ。


 そう。鉄骨を抜かれたということは、俺の出血を止める物体が失われたことを意味する。鉄骨が抜ける瞬間、俺の胸と背中からは鮮血が噴水のように噴き出していたのだ。

 それを止められるのは、出血剤を持った救芽井以外にない。


 彼女は古我知さんの怒号のような叫びに応え、音さえ凌ぐような速さで純白の球体を投げつけて来た。

 俺の胸にぶち当たったボールは、風船のように破裂し――白くトリモチのように粘っこい物体となって、胸と背中の傷に絡み付いていく。


 その粘っこさが消え、かつて球体だった止血剤が、セメントの如く硬化された時――廃工場の外から、俺を苛んでいたもの全てが、激しく墜落する轟音が響き渡った。


 ひとまずは、助かった。その僅かな安心感が、俺の意識を刈り取っていく。そして、眼前には――


 ――俺と同様に、俯せに倒れ込もうとしている、兄貴の姿があった。

 既に着鎧は解除されているが、表情は見えない。……常軌を逸した業火に包まれ、黒焦げになった肉体しか、見えないのだ。


 今すぐ、兄貴を助けたい。安否を確かめたい。なのに――身体が、動かない。どうあがいても、動かない。

 こんなにも痛くて苦しいのは――きっと、傷のせいじゃ、ないんだ。


「――上に誰か居るわッ!」


 そんな俺の意識を、兄貴から逸らさせるかのように、鮎美先生の叫び声が轟く。固まっていた皆が咄嗟に上を向く姿に釣られ、俺は震える片手で身体をひっくり返し、仰向けになる。


 目に映るのは、暗雲と豪雨。


 そして――天井の大穴から微かに覗く、金色の長髪。


 ……それが、この日に見た最後の光景だった。

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