第164話 松霧町の日常にて

 木々のせせらぎと、鳥の鳴き声が耳に届く時。空を舞う雲を見上げ、俺は静かに立ち上がる。


「龍太。そろそろ戻らねば、学校に遅れるぞ」

「ん? あー、そういえばそんな時間かぁ」


 かつて、俺の親父や祖父ちゃんが暮らしていたという、人里から隔絶されたようにひっそりと存在する寺。

 松霧町から離れた山中にあるその場所で、俺は親父と二人で拳法の修練を続けていた。


 住む人もおらず、親父の定期的な手入れがなければ寂れる一方である、その寺――「一煉寺」は、山と森と青空に囲まれた自然の砦。ここからは松霧町も、車の通りも見えない。

 雑念を絶ち、修行に専念する上では申し分ない環境なのだろう。


 日陰になっている廊下の上に立ち、日なたの場所から空を見上げている俺の背後から声を掛けているのは――俺の父、一煉寺龍拳いちれんじりゅうけん

 母さんとの結婚のためにこの寺を捨て、今では超人的な拳法家でありながら一般の会社員を勤めている……という、何とも変わった父親なのだ。

 丸刈り頭と厳つい面相、百九十センチにも及ぶ体格の持ち主が原因で、取引先にビビられることも少なくないらしい。ソースは会社から帰った時の本人の愚痴。


「例の試験に合格したとは言え、高校くらい卒業しておかんことには話にもなるまい。しっかり学業を積み、将来に備えることだ」

「ああ、わかってる。ちょっと汗拭いたら、すぐ町に戻るよ」


 俺と僅かに言葉を交わしてから、親父は踵を返して寺の中に戻っていく。黒と白を掛け合わせた法衣を纏うその姿からは、現代から遠退いた世界を感じてしまいそうだ。

 対して、今の俺は白い道衣のズボン一着に上半身裸というスタイル。あんまりいい格好とは言えないが、修練が終わった直後で汗だくなんだし、致し方あるまい。


「……しかしまぁ、変わるもんだな」


 寺の近くにある、小さなため池。そこに視線を落とし、俺は親父に渡されていたタオルで身体を拭きながら、自分の体躯を見遣る。

 盛り上がった胸筋、六つに割れた腹筋、それに応じるように太く膨れ上がった両腕。もちろん筋肉量において、親父や兄貴には今でも遠く及ばないのだろうが――少なくとも去年までは、こういう身体つきではなかった。

 どうやらこの一年間での親父との修練や、レスキューカッツェの皆との訓練や戦いで、かなり鍛えられていたようだ。

 確か、着鎧甲冑の資格試験前の身体検査では、身長百七十六センチ、体重八十八キロという結果が出されていた覚えがある。身長こそあまり伸びてはいなかったが、体重の変化はかなりのものだ。


「試験当時だって、俺より上の奴はたくさんいたんだ――もっと鍛えとかなきゃな」


 だが、こんなものでは足りない。さらに上を目指さなければ、レスキューに命を懸けられる「怪物」にはなりえない。

 そう腹を括り、俺が着替えを取ろうと寺の方へ振り返った瞬間――


「龍太ぁあああ! 早う行かんと遅刻やでぇえええぇええっ!」

「う、うおっ……?」


 ――けたたましい叫びと共に、天に向かって土埃を巻き上げながら……制服に身を包んだ矢村が駆け込んできた。

 この場所は松霧町からは結構な距離があるのだが、彼女からすればほとんど問題にはならないらしい。

 俺の傍まで全力疾走で飛んで来たかと思えば、踵で火花が散りそうな程の急ブレーキを掛け――ピタリと俺の目の前で停止したのである。坂を駆け上がって来た身でありながら、息一つ切らさずに。


「全くもおぉ! 遅刻なんかしよったら龍拳さんも困ってまうやろっ! 今週末に久美くみさんと龍亮りゅうすけさんが帰ってくるんやったら、家族として恥ずかしくないようにきちんと学校にも行かないけんっ! ほら、もたもたしとらんでさっさと――」


 そして、文句を言いつつ愛らしい顔を上げ、


「――ブフッ!」


 鼻血を出して悶絶していた。


「お、おい大丈夫かよ。いや、毎朝ここに来る度にそうなってること考えたら、今さら感はあるけどさ」

「……りゅ、龍太っ……その、ばでぃーはいけんっ……ア、アタシどうにかなってまうっ……!」

「ば、ばでぃ? ま、まあとにかく鼻血拭けよ。こんなになるんだったら、もう無理して迎えに来なくたっていいんだし」

「そ、それはいけんっ!」


 ――相変わらず無茶苦茶だ。毎朝ここまで迎えに来ておいて、いきなり鼻血を流されてちゃ、こっちだって気が気じゃないのに。

 そんな目に毎回遭うくらいなら、欠かさず顔を出すこたぁないだろうがよ……。


「おぉ、賀織ちゃんか。龍太がいつも世話になっておるな。……また鼻血なのか?」

「……みたいだな」

「あ、おはようございまーす! い、いえいえ、アタシ全然大丈夫やし、心配いりませんてー!」


 そんな矢村の猛ダッシュを聞き付けたのか、親父もひょっこり顔を出して来る。どうやら親父も、毎度の鼻血噴出には困り果てているようだ。つーか矢村……いきなりビシッと立ち上がっての敬礼はやめとけ……立ちくらみ起こすぞ……。

 また、親父も既にこの事態は予期していたらしく、そのゴツゴツした手にはティッシュ箱が乗せられている。それを投げ渡された俺は、彼女の鼻に素早くソレを差し込んだ。


「そうか。まぁなんにせよ、毎朝こうして迎えに来て貰ってすまないな。さ、龍太も早く支度しなさい」

「わーかってるよ。んじゃ、ちょっと待ってろよ矢村」

「うんっ!」


 そして俺が着替えを取りに行く頃には、彼女もすっかり元気を取り戻したらしく、満面の笑みで手を振っていた。……鼻にティッシュを詰めてるせいで、「コレジャナイ感」もハンパないのだが。


 ――やがて、制服に着替えた俺は矢村と二人で山道を降り、松霧町へ向かう。その頃には、矢村の鼻血もなんとか完治していた。

 道中の商店街。交番。物心ついた時から見慣れた景色が、今日も俺達の日常を織り成していた。


「おー龍太かァ! なんか前と感じ変わったなァ、男って顔になってるぜェ!」

「おぅ、八百屋のおっちゃんか。ハハ、相変わらずニンジン売れてねぇな〜」

「しょーがねぇだろ、ガキ共にしても親にしても、嫌がる輩が増えちまったんだからよォ。お前が見本になって喰いまくれよ、安くしとくから」

「やなこったい、俺もニンジン嫌いなんだよ」

「こらっ龍太! 好き嫌いしよったら……その、もっと逞しく……なれんで?」


 八百屋のおっちゃんに茶々を入れる俺の脇腹に、いつもの如く矢村の肘がグリグリと押し当てられるのだが――当の矢村本人は、なぜか頬を染めて遠慮がちな声色になっている。

 ここ最近の矢村は、時々こうして行動と言葉がちぐはぐになってるんだよなぁ。……不思議だ。


「――しっかしよォ、お前らまだくっついてねぇのかよ。いい加減結婚しろや。お前ももう十八だろォ」

「あ、あのなぁ……!」

「ま、そんなに迷ってんだったら、若いうちに女を取っ替え引っ替えってのも、人生の寄り道としちゃあイイんじゃねーのか? 俺がお前くらいの頃なんてそりゃもう……」

「なぁーにバカなこと言ってんだい! 高校三年間で八十回告白して、一発も当たらなかったクセして!」

「ゲェッ!? か、母ちゃんッ!?」


 そんな矢村との仲を、鬱陶しい程に追及してくる八百屋のおっちゃん。会話を遮って現れたおばちゃんにビビる辺り、この夫婦仲は今日も相変わらずのようだ。


「賀織ちゃん、おはよう! あらぁ、なんだかゴールデンウイーク前よりスッゴく可愛くなってない!? やっぱり恋は女を変えるのよねぇ〜」

「えっ、あっ……そ、そやろ……か? えへ、へへへ……」

「もー、龍太君もいけずねぇ。早くご両親に挨拶に行かないと、賀織ちゃん、誰かに掻っ攫われちゃうわよぉ? 可愛くて明るくて、料理も上手で優しくて……こんなに素敵なお嫁さん、今手放したら一生捕まえられないんだから! 賀織ちゃんも、しっかり龍太君のこと、捕まえとくのよ!」

「もっ……もぉおっ! おばちゃんったらぁ!」


 一方、そんなおばちゃんと矢村は、謎のガールズ(?)トークに突入していた。


 ……手放したら……か。俺がレスキューヒーローとしての人生に没頭して、彼女を置き去りにしてしまうことを考えるなら……その方が、もしかしたらマシなのかも知れない。

 もう一年近く、俺はあの告白に何の返事もせず、ただ着鎧甲冑のことばかり考えて生きてきた。そんな奴の近くにいるくらいなら、いっそ新しい恋を探す方が、本人のため……なの、だろうか。

 矢村。俺の一年間を見てきたお前なら、俺がそんな奴だということもわかっているはずだ。それでも、俺を必要としてくれるのだとしたら、俺は――


「なぁーにをシケたツラしてんだ龍太よォ! それでもお前、この町のヒーローかァ? 男ならどんな根拠のねぇ決断でも、いざとなったらドンと構えて突き進むもんだぜ!」

「――え?」

「ちょ、ちょっとあんたッ!」

「……あ、やべ。ま、まぁほらアレだ。この町のヒーローも、そ、そんなこと言ってたぜぇ。もしかしてお前のこと、将来の後輩だとか思ってんじゃ、ね、ねーの?」


 ――すると、おっちゃんが「ヒーロー」という単語を出した途端、おばちゃんが切羽詰まったような声を上げた。何だ……? 途中から、何か言おうとしていたことを変えたみたいだったけど。


「ほ、ほらそんなことよりお前ら、もう学校が始まっちまうんじゃねーか? 急いだほうがいいぞ」

「あっ……そうだった! 行こうぜ矢村!」

「え……う、うん! そ、それじゃ行ってきまーす!」

「あ、ああそうだね。賀織ちゃーん、気をつけて行っておいでー!」


 だが、その疑念を断ち切るようなおっちゃんの発言で、俺は我に帰る。刹那、俺は矢村の手を引いて八百屋の傍を飛び出した。

 そして、矢村とおばちゃんの挨拶を最後に、俺達は商店街を抜けて住宅街へ出る。


 後は、ここから矢村の家を通り抜ければ、松霧高校まで一直線なのだが……。


「フーッ、フーッ……! どこに隠れとんやぁ、一煉寺龍太ァ……!」

「もー、お父ちゃん何やっとんの。龍太君の頑張りを認めて、賀織のことを認めるって話はどうしたんや」

「それとこれとは全くの別問題じャア! あいつを認める前に父として、一発殴らにゃ気が済まねぇ!」


 ――鬼気迫る表情で、玄関前で仁王立ちしている一人の男性が、それを阻んでいた。

 角刈りの頭に、親父に劣らぬ体格。――そして、その威厳に溢れた顔立ちに反する、可愛い熊がプリントされたパジャマ。

 矢村の父さん……武章たけあきさんだ。あの外見から察するに、ずっと寝間着のまま俺達を血眼で待伏せているらしい。

 その傍には、恰幅のいいおばちゃんが呆れ顔で佇んでいる。矢村の母さんだな。


 ――しかし、俺の頑張りってどういうことだ? あのご両親の前で、特別何かをしたような覚えはないが……。


「前々からああして怖い顔してたような気はするけど……なんだろうな、ここ一年間はさらにオーラに気迫が込もってる気がする」

「もっ、もぉ……お父ちゃんのバカッ!」


 さすがに両親のあんな姿は見られたくなかったのか、矢村は顔を真っ赤にして文句を垂れている。あの怒りようは……まさか、あの、矢村とのファーストなアレがバレた……とか?

 となるとソースはやはり、あのお喋りなお巡りさんか……!? ち、ちくしょう……やってくれるッ!

 「いやー実はですねー、龍太君とお宅の賀織ちゃん、とうとうAまで行っちゃったんすよー」という彼の軽い口調が、軽く想像できてしまう。おのれ、今度会ったら覚えとけ!


「あの男……! 賀織の大切な唇を強引に奪った挙げ句、押し倒すとはッ……!」


 ……え?


「おまけに自宅に連れ込んで、風呂場で互いの隅々まで洗いっこしたとか! 二人きりで秘密の旅行に出掛けて、くんずほぐれつとかァァァァッ!」

「最近の若い子は進んどるもんなぁ〜。賀織やってもうすぐ大人なんやし」


 ――お巡りさん、話盛りすぎィィィィィッ!

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