第152話 三十六年前の死

 一九九四年。三つの民族が暮らす、とある国のどこかの戦場で、人々の死が漫然と繰り返されていた。


 風を切り、何かが落ちる音。

 それに次いで、鼓膜を破るような爆音と共に、建物が次々と弾け飛んでいく。

 無造作に飛び散る瓦礫はあられの如く降り注ぎ――逃げ惑う人間を、次々と押し潰していく。

 殺す意図も何もない、ただ爆発によって建物が壊れただけ。それだけで、多くの人間が。誰かにとってはかけがえのない誰かが、蟻のように、大勢。死んでいく。


 人を潰した瓦礫の下からは、赤い何かが弾けたように広がっていた。まるで、水風船を破いた後のように。

 その瞬間を目の当たりにして、悲鳴を上げる者もいた。しかし大半は、自分が生き延びることだけをただ切実に願い、何かを叫ぶこともなく、ひたすら走り続けている。

 誰かが、それを咎めることはない。自分も、隣にいる女や子供も大人の男も、考えていることは皆同じなのだから。


「あ……」


 その中に、一人。

 逃げ惑うことも出来ず、生きるために抗うことも出来ず。ただ呆然と蹂躙される街と人々――そして、災厄をもたらす空を見つめる少女がいた。年齢は、恐らく十四くらいだろう。


 家族とはぐれた上に足を捻り、助けてくれる大人もいない。そんな絶望的な状況に追い込まれた少女は、虚ろな碧い瞳に、有りのままの惨劇を映している。

 ただ人々を踏みにじるだけの、つまらない映画を流すプロジェクターのように。


 艶やかなブロンドの長髪も。みずみずしい白い肌も。全て混乱の中で汚され、身につけていた蒼く愛らしいドレスも、埃や血を浴び、今や見る影もない。


 この街を襲っているのは、セルビア人勢力の迫撃砲。その砲撃を浴びている、この都市――サラエボに住んでいた少女は、セルビア系の血を引いていた。

 瓦礫に囲まれ、砲弾の脅威に晒され続けている彼女を誰も助けなかったのは、そういうことだったのかも知れない。


 ――だが。


「大丈夫ッ!? 足をくじいたのッ!?」


 それだけが、現実ではなかった。


「……え」


 砲撃の雨は続いているというのに。今もなお、悲鳴と爆音と怒号が激しさを増しているというのに。

 そこへ駆け付ける者の叫びが、確かに届いたのだ。「諦める」ことを余儀なくされていたはずの、少女へと。


「ちょっと見せて頂戴。――どうやら、軽い捻挫みたいね。とにかく、ここから離れましょう。近くに砲撃頻度が少ない場所があるから、ね?」


 誰かが自分を助けに来た。その事実を飲み込めずにいた少女の気持ちを置き去りにするように、彼女の前に現れた一人の女性は、手早く彼女の肩を支えて立ち上がらせた。

 歳は二十代後半程度で、髪の色は黒く「動きやすさ」のみを追求するかのように、ひたすら短く切り詰められている。

 ボスニア人ともクロアチア人とも、セルビア人とも似つかない顔立ちであり、強い決意を秘めたように煌めく黒い瞳は、何物にも屈しない眼差しを空へ送っていた。


 少女は、この女性を知っている。彼女は巷でも優秀な女医として、しばしば話題に挙がっている人物なのだ。

 確かな医術と、謙虚な性格。そして民族や貧富を問わず、誰に対しても平等に接するその姿勢から、非民族主義の人々から絶大な人気を博しているのである。少女自身もかつての患者の一人として、彼女に救われたことがあった。

 一方で、過激な民族主義者からは酷く嫌われ、時には命すら狙われた時もあったのだが――それでも彼女は、この国を離れようとはしなかった。


 「民族主義だろうが非民族主義だろうが、助ける価値の有無など知ったことではない」。その気丈さゆえの言葉が、彼女の口癖だったのである。


 いつ砲弾が飛んできて、自身が粉々に砕かれるかわからないこの状況の中でも、その気高さに衰えはなかった。


「よしっ! いいわよ、その調子! 大丈夫大丈夫、おばさんが付いてるからね!」

「ヨシエ……さん」

「諦めちゃダメよ、絶対に助かるからねっ!」


 ヨシエと呼ばれた女医は、少女に肩を貸して片足で歩かせながら、懸命に励ましの言葉を投げかけている。自分もいつ死ぬかわからない身だと言うのに、その表情には微塵たりとも曇りがない。

 決して不安にさせないため。決して心を折らないため。少女の精神を守るべく、女医は可能な限りの「最善」を尽くし続けていた。


 それから数十分に渡る移動を経て、少女はついに砲撃範囲から離れた避難場所までたどり着く――が。


「じゃあ、私は他に取り残された人がいないか捜して来るから。お嬢ちゃんはここから動いちゃダメよ!」

「えっ……あ……!」


 自らに迫る危険も省みず、再び死地へ向かおうとする彼女を、止めることは出来なかった。

 兵士が救助に出払い、人員不足で民間人の誘導もままならず、避難場所では医師達が負傷者の治療に追われるばかり。その中で女医はただ一人、少女のような逃げ遅れた人間を捜し続けていたのである。

 医師の一人として患者に手を尽くし、励ましながら。


 女医は医者仲間の友人に少女を託すと、避難場所を後にして再び砲撃地帯へ飛び込んでいく。


「ヨシエッ! 待って! 迫撃砲はまだ全然止んでないのよッ!? 危険過ぎるわッ! 戻って、お願いッ!」

「ヨシエさん、ヨシエさんっ! ヨシエさぁあんっ!」


 その友人と共に制止の声を投げ掛ける少女だったが――その叫びだけは、最期まで届くことはなかった。


 そして、砲撃が止み。サラエボに束の間の平穏が戻る頃。


 女医が着ていた白衣が、血達磨の肉塊に紅く染められた姿で――発見されたという。


 それから、数日後。


「……ママ」

「ん?」


 荒れ果てた街と、煙が舞う空を見上げ、再会した母と手を繋いだ少女は、力無い声で呟く。


「エルナね。ゆうべ、夢を見たの」

「そう……。どんな夢かしら?」

「えっとね、悪い人が空を飛んでてね。空の上から、街の皆に酷いことをするの。それでね、おんなじように空を飛べる人がね、その悪い人をやっつけるの」


「……ふぅん。かっこいい……わね。ヒーローみたい」


 少女の見たという夢。それは、街を襲う無情な砲弾と、少なからず繋がっているようにも感じられるものだった。

 娘が、この戦いを止めてくれる――砲撃から皆を守ってくれる、そんなヒーローを求めている。そんな願いが夢に現れたのかと察した母は、無力な自分を憂いて俯くしかなかった。


 だが、夢を見た娘の真意は、母の解釈とは違っていたのである。


「だからね、エルナ……大きくなったら、その悪い人をやっつける人になるの」

「えっ……?」

「きっとね。あの夢って、エルナの将来のことだって思うんだ。ヨシエさんみたいな人も、ママも、街の皆も、エルナが守ってあげる。エルナ、もう……負けない」


 硝煙が登る空を見つめる、少女の碧い瞳。その眼差しには、あの日とは掛け離れた「生気」が宿っていた。


 ――在りし日の女医の姿を、再現するかのように。


 そして、それから六年後。


 少女エルナは、アメリカへ渡り――陸軍の道へ進んでいくことになる。


 それが彼女に望ましい未来をもたらしたのかは、誰にもわからない。

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