第三章 束の間の休息

第76話 修羅場の朝

 ――久水は、今夜が最後、と言っていた。


 だからきっと、彼女の気持ちは今日を境に「変わっていく」のだろう。今さらこんなことを言うのも失礼だろうが……もう、俺に振り回されることもなくなるのかも知れない。


 ……けど、それでいい。きっと、それでいいんだ。彼女には、彼女の時間がある。これ以上俺に付き合わせて、苦しめちゃいけないはずだ。


 こんな俺のことを、ずっと気に掛けていてくれて、ありがとう……「こずちゃん」。


 そして――今度こそさようなら。俺の、初恋。


 ……。


 ……と、自分なりに割り切ろうとしたところへ。


「ふふっ、いい朝ざますね……小鳥の囀りが聴こえてきますわ」


 ――この状況である。


 夕べ、涙ながらに「最後の思い出を残したい」と懇願していた少女は今、俺の腰に腕を絡め、さらに俺の肩に自分の頭を預けている。ピッチリと黒いレディーススーツを着こなしてはいるが、今にもボタンが弾けそうな状態だ。

 そして、朝日の輝きを窓越しに浴びながら、きらびやかな絨毯を敷いた廊下を渡る俺達。何か……何か違うくない? いや、俺が適当な私服なのに隣の久水がスーツだってところじゃなく。


「あ、あのさ久水――」

「さぁ朝食に向かいましょう。今日は海外から取り寄せた、本場ドイツの最高級ソーセージがありましてよ?」

「いや、それより俺の――」

「まぁ! 『俺のソーセージ』だなんて……まだ明るいうちですのにっ!」


 久水は俺の話を華麗にガン無視しつつ、蕩けた表情で背中を叩いて来る。「俺の話を」って言いたかったんですけど……。


 昨日の切なげな夜は、結局なんだったのだろう……? 俺がそんな疑問を持つこと自体が滑稽なくらい、当の彼女は、まるで何もかも吹っ切れたかのような笑顔と共に頬を赤らめている。

 それが意味するものは、何なのか。彼女は、俺を諦めたわけじゃなかったのか。その答えが出せないまま、俺はズルズルと引きずられるかのように、会食室まで到達してしまった。


「え? ――えぇえぇええっ!? 龍太君ッ!?」

「ちょっ――龍太ァァァッ!? 何しとんッ!?」

「んのほぉぉおッ!? 梢ぇぇッ!?」

「……おはよう……」


 そして、予測可能回避不可能なこの反応である。

 四郷を除くほぼ全員が、仰天して目を見開いている。全身包帯だらけの茂さんに至っては、ムンクみたいな顔になってるし……。


 それにしても、他のみんながピシッと正装した格好なのが気になる。救芽井と矢村の折檻ゆえか、包帯だらけでスーツが着るに着れなさそうな茂さんを除けば、全員が久水と同じスーツに身を包んでいるのだ。

 スーツを持参してこい、だなんて話は聞いてないはずなんだけど……まさか、俺だけ忘れてたとか言うオチじゃあるまいな!?


「なぁ救芽井、そのカッコはどうし――」

「どういうつもりよ龍太君ッ! 私というものがありながらッ! ……ま、まさかこれが、噂に名高い『NTR』ッ!?」

「あんたはどこから情報仕入れとんやッ!? ――それより龍太ッ! なんで朝っぱらからその人とくっついとんやッ!? まさかとは思うけど、ホンマに一晩一緒に寝てたとか言い出す気やないやろなッ!?」


 俺の話など、どこ吹く風のガン無視状態。彼女らは寄ってたかって俺に詰め寄ると、思い思いの不安をここぞとばかりにブチ込んで来やがった。

 つか、俺が久水と一緒に寝たって話を、何で矢村が知ってるんだ? まさか――


「……ぶい……」

「……ですよねー」


 ――うん、なんか予想通り過ぎて泣けてくる。四郷! てめぇの血は何色だァァーッ!


「いやあのな、これにはいろいろと事情が――」

「そう、いろいろありましたのよ。そうざましょ、『龍太様』?」

「――ぬぇぇぇッ!?」


 ちょ、な、なんだそのむず痒くなる呼び方は! つーか、首にほお擦りすんな! みんな超見てるから!


「……龍太くゥゥゥゥゥンッ!」

「りゅ〜うぅ〜たぁ〜ッ!」


 そんな俺の胸中など知る由もなく、救芽井はドス黒いオーラをメラメラと背面から噴き出し、鋭い眼光で俺を射抜く。視線は氷のように冷たいのに、纏う雰囲気は焼け付くように熱い。

 ……女湯の時ですら免れた鉄拳制裁が、今度こそ俺の顔面をブチ抜こうとしているッ! こ、ここまでか、ここまでなのか……ッ!


 許しを乞う暇すら与えられず、そのまま約二名のバーサーカーに滅殺されようとした、その時――


「お待ちなさい! ワタクシの愛人を傷付けようなど、言語道断ざます!」


 ――過去最大のスキャンダラス爆弾発言到来。なにを言い出すのこの娘は!?


 久水は俺を庇うように救芽井達の前に立つと、ただでさえ大きい胸をこれでもかと言わんばかりに張り出した。その威圧感に、二人は女性として覆し難い何かを覚えたのか、一瞬後退りしてしまう。


「あ、あ、愛人ですってぇぇぇぇ!?」

「ど、どういうことやそれぇぇぇ!?」

「梢ぇぇぇ! 愛人とは一体どういう了見――ンゲェッ!」


 それから一拍置いて、救芽井と矢村は再び声を張り上げる。その声色には、それまでの「怒り」の色に加え、「驚愕」の色も交わっていた。

 茂さんも似通った反応を示してこちらに迫ろうとしたのだが、その直前で救芽井のエルボーに沈められてしまう。い、痛そう……。


 そんな周囲の反応を楽しむかのように、久水は手の甲を頬に当てると、あの滑舌の悪い高笑いを始めた。


「フォーッフォッフォッフォ! どういうこともなにも、そのままの意味ですわ。確かに『正妻』はあなた方のどちらかかも知れませんが、そんな形式だけの男女関係など、何の意味も持ちませんのよ? 結局のところ、全てを決めるのは――深い情愛に結ばれているか否か……ざます」


 久水は絡み付くかのように俺を抱きしめると、甘い吐息を耳元に掛けて来る。か、体に当たってる胸の感触も相まって、これはかなりマズい……!

 しかし、いよいよ久水の心境がわからなくなってくる。昨日の夜から考えたら、こんな展開なんてどう考えてもありえないのに!


「ちょ、ちょっと待てよ久水ッ! 夕べが最後って話だったんじゃあ……!」

「そう、あの夜が『最後』でしたわ。ただ離れ離れになっていただけの、幼なじみとしての関係は――もう、終わりですの。これからワタクシ達は、一人の男と女……」

「んなああぁあ!?」


 そ、そんな話を急に持ち掛けられても……! お、恐ろしい……これがセレブの世界だというのかッ!


「ゆ、許さないわよそんなことっ! 龍太君は私と結婚して救芽井龍太になるんだからっ! 人の婚約者に、当人の前で色目使うなんて正気の沙汰じゃないわよ!」

「あらあら、大事なスポンサーにそんな横柄な態度をして大丈夫ですの? ワタクシ達の助力を得られないと困るのは、どちら様でして?」

「ぐぬぬ……ひ、卑怯者っ!」

「なんとでもおっしゃいなさい。この殿方がいずれ『久水龍太』となるのも、時間の問題ですわね……」

「こ、梢……一応実権を持っているのはワガハイなのだが――ブファッ!?」

「だまらっしゃいツッパゲール!」


 眼前で繰り広げられる、見るも悍ましい修羅場の連続。迂闊に立ち入れば顔面に蹴りを入れられる――という危険性は、茂さんが自らの身を以って証明してくれた。


「ちょ、ちょっと龍太もなんとか言ってやってや!」

「なんとかってなにをだよ!? ――うわっ!?」


 この事態に憤慨している矢村の無茶ブリに頭を抱えた瞬間、俺の袖が後ろから急に引っ張られる。何事かと振り返れば、そこには上目遣いで俺を凝視する四郷さんが。


「……梢を泣かせたら……許さない……」

「お前も無茶苦茶言うんじゃないッ!」


 あーもう、わけがわからんッ! 俺は一体どうすりゃいいんだ!?

 得体の知れない展開に、状況判断がまるで追い付かない! 俺は救芽井の婚約者であって、だけど久水を泣かせたらダメだって言われて……ああああっ!


「ぐおううぅ……ん?」


 その時、俺の肩にポン、という軽い感触が伝わってきた。肩を軽く叩かれた感じだ。


 今度はなんだ……と訝しみつつ振り返ると、そこは包帯でグルグル巻きにされながら顔面が血だらけになっている、見るも無残な茂さんの姿があった。


「し、茂さん……?」

「……梢は、ワガハイが当主を継ぐと決めた時から、家族のためにと一心不乱にワガハイを支え続けてくれた、大切な妹だ。あの娘は今までワガハイのため、懸命に仕事を手伝ってくれていた。……会いたい人に会うことも、我慢してな」

「久水が……?」


「そうだ。ワガハイに叶えられるわがままなど僅かだが……それでも、たった一人の妹の願いを蔑ろに出来るほど、ワガハイは樋稟のことに没頭できてはいない」


 いつになく真剣な顔で、茂さんは俺を真っすぐと見据えている。昨日までのデンジャラス変態野郎と同一人物だとは、到底信じられないくらいに。


「今の間で、しばし悩みはしたが――それに応えうる力を持っている貴様だからこそ……梢の気持ちには、なんとしても応えて貰わねばならない。例えそれが、どのような結果を生むとしても、だ」

「茂さん……」


 ……茂さん、なんだかんだでやっぱり妹思いの、いいお兄さんじゃないか。こんな真摯な眼差しを向けられてしまったら、生物災害的ド変態だと思っていた自分が恥ずかしくなってくる。

 反省しなくちゃ、な。


「――嫁に出す気はさらさらないが、婿として貴様が来るなら、歓迎してやらんでもないぞぉ?」

「そっか……ん?」


 ……あれ? なんか、だんだん声のトーンが上がって行ってる気がするな。風呂覗きの時のような、破滅的な上機嫌さが滲み出てる。こ、これはまさか――


「そしたら貴様は義理の弟! そして貴様のコネを通じて今度こそ樋稟と……ムヒヒヒヒ!」

「――台なしだァァァッ!?」


 ここまでいい感じだった雰囲気が、その本音一つで完膚なきまで粉砕されてしまった。相変わらず脳髄まで樋稟一色かコイツはァッ!


「フヒヒヒヒ! さぁ一煉寺龍太、ここに婚姻届がある! 後はハンコを押すだけだぞこのヤローめ!」

「用意周到過ぎんだろ!? またキャラが崩壊してるぞあんた!」


 ひらひらと一枚の紙を見せびらかしながら、茂さんは挑発するようにマヌケな踊りを披露している。おまわりさんこいつです。


「デュフフフフ! これでまた一歩野望に近づき――べぶらァッ!」

「ええかげんにせぇやぁッ!」


 勝手に一人で舞い上がっていた彼の脳天に、ゴージャスな椅子が炸裂する。……矢村さん、それはやり過ぎだと思うんだ。プロレスの反則技じゃないんだから。

 しかし、周りの使用人一同、主が椅子で殴られてるのに助ける気がゼロってどういうことなんだ。「当主様は一度お灸を据えられた方がよろしいかと」って感じの冷ややかな視線向けてるし……。


「全く、そんな自分勝手なことばっかりしよるけん、バチが当たるんやで」

「いや、どう見てもバチを『当ててた』と思うんだが」

「そんなことどうでもええやん! それよりずっと大事な話があるんやからっ!」

「な、なんだよっ?」


 すると、今度は矢村がぴょんと俺の胸に飛び込んできた。咄嗟のことなので反応もできず、俺は彼女の体当たりを真正面から受けてしまう。

 久水といい矢村といい、最近の女子の間じゃ捨て身タックルが流行りなのか?


「えへへへ……アタシも龍太の『愛人』になったろーかなってさ」

「――うえぇ!?」

「だって、そうやろっ? 久水が結婚しなくても一緒におる気なんやったら、アタシだってやったるで! ――そんで、いつか龍太が振り向いてくれさえしたら、そのまま『一煉寺賀織』に……えへ、えへへへへ……」

「おい落ち着け! よだれ垂れてる! 超垂れてる!」


 全く、こいつもとんでもないコト思い付きやがって!


 ……だけど、こんなに俺と一緒にいたがるって、もしかして……その、矢村も――俺が好き、なんだろうか?

 ――いやいやいや! 落ち着け俺こそ落ち着け! いくら久水がそのパターンだったからと言ってだな……!

 ……でも、もし……久水と同じ気持ちだったとしたら、俺は――


『この際やから言うとくけどな、アタシは龍太が好きや! 大好きなんや!』


 ――その仮説を後押しするかのように、約二年前のあの発言がフラッシュバックしてくる。

 もしアレが本心だとしたら……俺は、二年近くもずっと、彼女をほったらかしにしてきたということなんだろうか……。


「な、なぁ矢村」

「ん? なぁに?」

「あのさ、前にファミレスで――」


「さぁ龍太様! 今日の隣はワタクシざます! 世に云う『あ〜ん』とやらを実践して差し上げますわっ!」

「ぬわっ!?」

「きゃっ!? ……む、むーっ!」


 だが、矢村の気持ちを確かめようとしたところへ、久水がここぞとばかりに割って入ってきた。彼女はグイグイと俺の襟を引っ張り、食事の席へと強制連行していく。

 なんか彼女がジロッと矢村を睨んでるようにも見えたけど……気のせいだよね? なんかお二方の目線がぶつかって火花散ってる気もしたけど、気のせいですよね?


「さぁ皆様、御席へどうぞ。今日の朝食にはドイツ産の本場ソーセージがありましてよ?」

「サラッと流さないでくれる!? 龍太君の隣は婚約者の私よっ!」

「二人ともなに言うとるんやっ! 一番付き合いの長いアタシが、責任持って監督するべきなんやけん、アタシが座るっ!」

「あら、どうぞご自由に。それならワタクシは彼の膝の上に座りますわ」

「……梢、がんばれー……」


 彼女達は俺の心労などまるで気づく気配がなく、それどころか各々が自分の欲望に従いまくっている。メダルとか入れてみたら余裕で怪人とか出て来そうだな……。


「ぐふっ……ふふふ……モテる男は辛いな? 一煉寺龍太……」

「……茂さん、あんたはもう何も喋るな。いろんな意味で傷口が開く」


 血の涙を流しながら、心身ボロボロとなって倒れ伏している茂さん。もう見ていられない……。


 こんな一般的感性が行方不明な状況のまま、朝を過ごさなければならない、という状況にため息をこぼしながら、俺は一人席につく。


 久水との関係。矢村の気持ち。そして四郷研究所とのコンペティション。

 もし夏休みの宿題に絵日記でもあれば、さぞかしいいネタになっていたことだろう。ソレを担任が信じるかは別として。


 そんな予測不能奇想天外な今後を憂いつつ、俺は女性陣の騒動を尻目に窓を眺め――


 ――固まった。そして、自ずと目を見開いてしまう。


 快晴の空に包まれた世界に映り込む、白い装束。

 木陰の中に立っている分、その白さはより際立っているように見えた。隠れているつもりは……恐らくないのだろう。


 そうして図太い木の枝の上に立ち、真っすぐに俺を見つめる白銀の仮面。その姿を、俺は知っている。


 ……なんで、あんたがここにいる!?


 ――「必要悪」!

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