ハツコイぱんている ~毎朝五分の暗号解読/おやすみ前にラブコメディー~

如月 仁成

PとAは、何色と何色か

 十二月二十二日。

 今日より恥ずかしい思いをすることは、きっと今後一生ないだろう。

 俺は真っ赤になった顔を両手で隠して視聴覚室の床に亀のようにうずくまり、体積を最小にすることに努めていた。

 つまり「この場から消えてなくなりたい」を体現しているのだ。


 この七色そらはし百太郎ももたろう、こと恋愛に関しては石橋をくまなく慎重に四半世紀くらいかけて叩き、少しずつ削り続け、どんどん渡りにくくするタイプだったはずだ。

 だが、三年間ずっと思い続けて来た子に、


「恋人になってほしい」


 などと言われて手を引かれれば、調子に乗ってスキップでついて行くのは仕方のないことだろう。

 その際に、自分が秘めていた感情を詞にして歌い出すのも当然の行為だろう。


「その……、不憫ふびんには思う。しかも責任の一端があたしにあるのだ、助けになってやりたいと、真摯しんしに感じてもいる」


 俺は首をもたげ、声の主、十河そごう沙甜さてんを見上げた。


 彼女は、天上に輝く月。

 清流を思わせる長い黒髪と、品格のある物腰が魅力的なクールビューティー。

 訳あって日本の片田舎なんかに暮らしているが、そのやんごとなき身分は立ち居振る舞いから溢れ出す。


 対して、俺はすっぽん。

 手も足も出ないとかうまいことを考え付く頭の回転と、すっぽんの手足は引っ込まないだろと突っ込める程度の知識量には自信があるが、いくらなんでも十河には釣合わないと自負している。

 だから俺は、ヘタレの道を選んだのだ。

 それなのに。


「だが、もう一度言おう。恋人になってやることはできない。あたしを好きだと歌ってくれたことはこの胸にありがたく受け止めてやるが、諦めてはくれまいか」


 分かっていたはずなのに。いつもの俺なら、自分が相手にされるなんてありえないとすぐに気付いたはずなのに。


 告白なんてしなかったはずなのに。

 ふられることなんかなかったはずなのに。

 いや、そもそも、こんな恥ずかしい勘違いなんかしなかったはずなのに。


「しかし聞き間違えるか? 来い、人に会って欲しいと恋人になって欲しい」

「恥ずかしいからもうやめて! 穴を掘りたいのに俺のライフはゼロなの!」


 俺は再び、頭を甲羅の中に引っ込めるのであった。


 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 今日は十二月二十二日。明日からクリスマスイヴを挟んだ三連休となり、明けた二十六日には終業式となる。

 高校三年生ともなれば、三学期に学校へ顔を出す機会も減るものだ。

 そう考えた俺は、放課後、通い慣れた図書室へお別れのつもりで足を運んだ。


 図書委員として鍵を預かっているから時間を気にすることもない。

 本の整理をいつもより念入りにしているうち、ふと、一人のクラスメイトの事を考え始めた。


 十河沙甜。

 高校入学初日に見かけて以来、ずっと好きだった。

 それが高三になって初めて同じクラスになったものの、結局会話をしたのはほんの数回。想いを伝えるなど夢のまた夢。


 卒業を間近に控えたこの日、彼女が意を決して俺に愛の告白をしてくれたなら、などと在りもしないことを妄想しながら本を並べ続けた。

 だから図書室の鍵を閉め、廊下を歩きだした時、正面から走ってくる女性が現実なのか妄想の産物なのか、すぐには理解できなかった。

 そんな彼女が俺の手をぎゅっと握り締め、息を切らしながら真剣な面持ちで言った言葉、それが……、


「七色! 恋人になって欲しい!」

「七色、来い! 人に会って欲しい」


 この簡単な二択問題。間違えた俺には過酷な罰ゲームが待っていたのだった。


 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 頭上から、澄んだ音色のため息が聞こえる。

 もう、かれこれ数分こんな姿勢のままだから無理もない。

 俺がこうしていても彼女に迷惑がかかるだけだ。とっとと用件を済ませてここから逃げ出そう。そうしよう。


「で? 誰に会って欲しいって?」

「ああ、あんな話の後で申し訳ないのだが、あたしはいているのだ。こいつらから理由を聞き出すのに協力してはくれまいか」

「…………手伝う。せめて恥の一部くらいはすすぎたい」

「ありがたい。我が校の前頭葉と称される七色の知力、頼りにしている」

「それ、でこに付いた称号だから当てにしないでね?」


 本を読むとき、前髪が邪魔だからたまにカチューシャをする。その為に付いた不名誉なあだ名で呼ばれた俺は、さらに重たくなった体をなんとか引き上げた。


 そこで、はじめて視聴覚室の異様な光景に気付く。


 この部屋には俺たち以外に、クラスメイトが四人いた。

 皆、十河の国の人たちで、彼女に忠節を尽くしている連中だ。

 その連中が、


「なんで揃ってペンキまみれなんだ?」


 赤と緑のペンキを頭から被ったまま、何かにれた様子で立っていた。

 皆、なにか言いかけようとしては口ごもり、頭を抱えて悩み続けている。

 なんだこれ?

 彼らの周りには緑色のペンキがぶちまけられ、その水たまりから点々と赤い足跡が教室前方の扉のあたりまで続いていて、そちらには赤いペンキが撒かれていた。


「お前は人の話を聞かん奴だな。だからそれを聞き出してほしいと言っている」

「…………って、十河が言ってるんだけどさ。教えてくんない?」

「すまん、七色! 頼むから口を挟まないでくれ!」

「訳を話したら……、多分ダメなのよ。ごめんね七色」

「ああ、姫様、私どうしたら……」


 ペンキマン&ペンキガールの四人組……、そうだな、クワットロ・ペンキーネと名付けよう。彼らは、腕を組んで頭を掻き、そのうち十河に訴えかけ始めた。


「姫様! これはですね、あの……」

「と、とにかく何とかしないといけないわけで、姫様は、その……」

「姫ではない。殿下と呼ばんか、ばか者。お前たちが困っているのを見過ごすつもりは無いのだが、どうにも意図が汲めん。さっぱりわからん」


 よく教室で見かける光景だ。十河はかしずく者たちに対して威厳をもって迎えるが、尊大な態度を取ることは無く、むしろ慈悲深い。まさに王の風格だ。

 これも俺が心奪われる所以ゆえんであり、そして俺が彼女を諦める原因だったりする。

 でも、今はそんなおそれも和らいでいた。異常なシチュエーションのおかげで、普通に彼女と会話できている。ちょっと嬉しい。


「今は一刻を争う状況なのだ、察してくれ。お前達にも連絡があったろう、あたしのレトリビューション・チェーンがまだ外れていないのだ」

「だからそれを……」

「バカ! 言ったらおしまいだろ!」

「そ、そうだった……。ああもう! どうしたらいいんですか、姫様!」

「殿下だ。…………やれやれ」


 十河は肩を落としながら目で助けを求めて来たのだが、あまりにも情報が少ないので俺にもどうすればいいのやら見当がつかない。そうだな、とりあえず、


「十河。お前はこのペンキ祭りについて何か知らないの?」

「緑のペンキはあたしのせいだ。赤いペンキは知らん」

「十河のせい?」

「真っ暗な視聴覚室の中からあたしを呼ぶ声が聞こえてな。「姫! ペンキ!」と言われたので教室から取って来たんだ」


 俺たちのクラスの隅に置きっぱなしだったあれか。文化祭で余ったベニヤなんかと一緒に放置されていて、終業式には誰かが引き取るよう先生から言われてたやつ。


「すぐに必要なのかと思って蓋を外しながら走って、視聴覚室の扉を開けたのだ。そこで……」


 息を大きくついた十河は、王女のオーラと黒髪とを右腕で大きく掻き上げた。

 そして切れ長の目を細めつつ、遠くを見やり、


「…………やっちまった」

「…………やっちまったか」


 窓には暗幕が引かれて外なんか見えないのに、彼女の視線の先に一番星が見える。

 お約束かよ。扉のレールに足を引っかけるとか希少価値にも程がある。


「ひょっとしてお前、ドジっ子姫だったのか? なんたるギャップ萌え」

「どj……っ! ……断じて違う。そういうのとは無縁。あと姫って言うな」

「でも、どテンプ」

「黙れ。それよりほんとに急いでいるのだ。もうこの際、あたしの方は間に合わなくても仕方無い。せめて皆の悩みを解決してくれ。……あと、そのにやけ顔は今すぐやめろ」


 ……やばい。かわいい。

 まさか、この期に及んで十河の魅力をさらに発見するとは思わなかった。

 ふられたけど、この気持ちは消えそうにない。

 もうずっと片思いのままでいいや。

 俺はにやけた顔を誤魔化すために、もうひとつのペンキ現場へ足を運んだ。


 教室の前側の扉、こちらも改めて見ると変な有様だ。

 天井近くを見上げると、口を下に向けたまま壁に張り付いたペンキ缶から赤い滴が今も落ちて、床に血の池を作り出している。

 照明パネルの真上に缶がくっついているが、パネルにペンキがかかったら発火の危険とかあったんじゃなかろうか。


 そして、雑誌を縛る時なんかに使うビニール紐がガムテープで雑に張り付けられ、天井から、壁から、至る所から垂れ下がってペンキの海に身を浸していた。


 あと、気になるのはペンキの蓋とS字のフック。これも血の池に浮かんでいる。


 …………待て。変な有様という認識は撤回だ。

 ここには、意図がある。これは発動した罠の残骸だ。

 そういえば、教室は真っ暗だったって言ってたな。


 俺は目の前の扉に鍵がかかっていることと、扉に付いている小窓が暗幕で塞がれていることを確認しながら、ちょっと声を張って教室の後方にいる十河へ聞いてみた。


「なあ、十河。電気はどうしたんだ? 消えてたんじゃなかったか?」

「ペンキは私が撒いたと言っただろう。そっちのペンキは知らん」

「ペンキじゃなくて電気。聞き間違うな。それもドジっ子か? お約束なのか?」

「ドジっ子ってゆーな! あたしがころん……、入って来た時は既に明るかった」


 一瞬、ムキになって怒らなかったか? 今日だけでいろんな十河を発見だ。

 それに、さっき俺の聞き間違いを散々バカにされたので溜飲りゅういんも下がった。

 なんだよ、自分だって聞き間違えるじゃないか。

 きっと今までだって……、何度も…………。


 そうか。


 聞き間違えたんだ。


 俺は、真相に気付いて容疑者たちの方へ視線を移した。

 彼らは今も、失敗した犯行を誤魔化すために頭を抱えている。


「お前ら……」


 俺が告発をためらうと同時に、一人が何かに気付いたように声を上げた。


「ちょっと待て! この状況を推理してもらえればいいんじゃないのか?」

「そうよ! 姫、推理してください! 私達がこんなことになっている訳を!」

「姫様!」

「姫!」

「…………お前達、まさか連絡を受けた後、謎を準備してくれたというのか?」

「そうなんです、姫!」

「あたし達、姫様を助けるために……」


「ストップ! いくらなんでも見過ごせねえ」


 会話の内容はまるでわからんが、丸く収まりかけているではないか。

 俺は皆の元に小走りで近寄ると、容疑者一同を指差して犯行を暴いた。


「これ、十河にペンキをかける計画じゃないか」


 俺の告発に対して青ざめるかと思っていたクワットロ・ペンキーネは、爆発するように非難の声をあげた。


「違う! でもお前、この謎を解いちまったんだな? そうなんだな!」

「あああああああ! 七色、きさまああああああ!」

「もうおしまいよ……!」

「姫様ぁ! こいつのせいで、こいつのせいで!」


 なんて往生際の悪い。

 俺は十河に、事の真相を説明した。


「十河。お前、聞き間違えたんだよ。ペンキじゃねえ。電気だ」

「まだ言うか。しつこい男はすぐハゲるぞ」


 なんとそんな因果関係が。ハゲはいやだ。じゃなくて。

 俺はそうじゃないよとばかりに首を振り、照明のスイッチを指差して、


「最初にこの部屋から聞こえて来た声のことだよ。あれは、お前に電気を点けて欲しいという意味だったんだ。つまり、「姫! 電気!」だったんだよ」

「…………まさか、またしてもか」

「またしてもというか、それが最初のドジっ子発動だった訳なんだがいてててて」


 痛いよ。無言無表情でつねるなよ。

 あと、なんで嬉しそうににやけてるんだ、俺。


「それと、こいつらがあたしにペンキをかける算段とどう繋がるのだ?」

「……パネルのそばにトラップが仕掛けてあった。照明を点けようと操作パネルに近づくと、ビニールテープに引っかかって十河にペンキが掛かる仕組みだ。でも、お前は部屋にすら入らなかった。その後の事情は分からんが、こいつらが灯りを点けようとして自分で罠にかかっちまったんだろう」

「「「「違う!」」」」


 うわびっくりした。なんだ、まだ抵抗するか。


「よし、説明してもらおうか。どう違う」

「姫様にペンキなんか掛けるわけないでしょ!」

「罠は、もっと手前で動く仕組みになっていたのだ」

「死体役のあたしが電気を点けた時に罠を動かしちゃったのだけは正解だけど」

「…………え? 死体役? 何言ってんだお前?」


 超展開が過ぎる。つくならもっとましな嘘を……、


「なるほどな。灯りを点けると、足元には血まみれの死体がある。そして現場の状況を見たあたしが、犯人は自分だと推理するわけだ。なかなかのシナリオじゃないか」

「はあ?」


 呆気にとられた俺を捨て置き、十河はゆっくりと皆に歩み寄ると、ペンキが付くこともいとわずに一人一人の肩に優しく手を乗せて行った。

 俺はその様子をただ見つめていることしかできずにいたのだが、そのうちに信じ難いことが始まった。


 ……十河の体から光の粒子がいくつも生まれ、それが宙へ浮かびはじめたのだ。


 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 最初は、王女のオーラを感じた自分が見せた幻影だと思っていた。

 だが皆にも等しくその現象が見えているようで、一人が気付いて泣き出すと、他の連中も揃って膝から崩れ落ち、泣き声の大合唱が始まってしまった。


「一体、何がどうなって……」


 俺はすべてが理解の範疇はんちゅうを越えたことを言葉にすることも出来ず、ただ救いを求めた。すると黒髪の王女は優しい表情でこちらに振り向いて、説明を始めた。


「あたしは、三十六時間に一つ、お前達人類が解き明かしていない何らかの謎を解明しなければカエルに転生させられてしまうのだ」


 なんだそりゃ。でも、この光景を目の当たりにしたら疑うことなどできやしない。


「だからあたしは、自分が解明したと宣言できる研究機関をいくつも抱えている。しかし、今日の分の研究結果が他の企業から先に発表されてしまった」


 説明を続ける十河から溢れる粒子は、今や俺の体まで覆いつくすほどになった。

 

「そこで彼らは、私に謎を準備してくれたのだ。殺人ミステリーなど慌てて作ってみたものの、そのトリック自体をあたしが台無しにしてしまった。だが、まだどうして失敗したのかという謎を解明すれば間に合うと考えた。そういうことだ」


 なるほど。そもそも死体じゃないし血でもないという殺人事件。そんなものでも解明できれば、誰も解いたことの無い謎を解明することになったという訳か。

 ……それを、俺が先に解いてしまったわけだ。彼らの想いを、それと気付かずに砕いてしまったのだ。

 でも、十河は俺を非難しない。それどころか、こんなにも優しく微笑んでくれる。


 ……そんな微笑ほほえみを、宙を舞う光の粒子が通り過ぎた。

 十河の体が、透け始めているのだ。

 

「待て! 消えちまうのか? カエルになっちまうのか? そんなの嫌だ!」


 俺は十河の肩を掴んだ。消えてしまわないように、無くしてしまわないように。


「好きと言ったのは無かったことにしてよいぞ? たとえ再会できたとしても、カエルは愛せまい」

「例えカエルになったとしても、お前のことが好きだ! でも、まだだ。助けてやるから待ってろ!」


 人間、切羽詰まるとキザな言葉が平気で口を付く。

 切れ長の目を丸く見開いて照れた表情を浮かべる十河に、俺は謎を突き付けた。


「人類がだれも解いたことの無い問題ならなんでもいいんだろ? ならば、これでどうだ! ……PとAは、何色と何色か?」


 誰もリアクションを取らず、固まってしまった。えっと、急過ぎたかな。


「さっき整理してた新聞に、JR神田駅の写真が載ってたんだ。そこにあった文字を見てたら、外人さんにはこう読めるんだろうなって気付いて、こんななぞなぞが頭に浮かんだんだ。まさか役に立つとは思わなかったけど」


 ここまで説明すれば、聡明な彼女は気付くはず。神田駅と「PとA」との関連性。

 ……だが十河は軽く嘆息して首を振るばかりだ。諦めてしまったのか?


 その時、光の粒子が大きく体から噴き出した。

 体は一気に透明度を増し、セーラー服だけが宙に浮いているように見える。

 やばい、時間がない!

 何かうまい方法はないのか! 何か……、


「そ、そうだ! 十河の下着の色、何さ!」

「こら。人が感傷に浸っている時に何を……、ん? そうか。詭弁きべんでしかないが、それも有りなのかもな」

「落ち着いてんじゃねえぞちきしょう! これだけ頑張ってるんだ、間に合わなかったら迷惑料としてパンツの色確認するからな!」


 こんな会話なのに、十河は優しく微笑んで俺を見つめた。

 そうじゃねえよ! むきになってパンツ守ろうとしろよ!


「……お前は本当にいいやつだな。では、足掻あがいてみようか」

「よし!」

「だが、下着の色の組み合わせとなると……、ピンクと白。赤と白」

「もっとシンプルだ」

「他には…………、赤と黒」

「なにそれ見たい」

「うるさいばか者! ……ごほん。邪魔をしたいのか助けたいのか分からん奴だな」


 うん。ちょっと黙ってろ、俺。


「えっと、水色と白」

「うそ」

「持ってなどいない! ああもう、あとは……」

「あ……、あーーーーーーーーーーーーーーーっ!」


 急にペンキの一人が大声をあげて絶望の表情を見せる。これ以上何が起きた?


「すいません姫! 俺……、答え、分かっちゃいました……」

「しまった! 下手にヒントを出したせいで…………」


 彼らに耳を塞いでいてもらうべきだった。俺は血の気が背筋を伝って引いていく感触を覚えると、視界が狭まり、思考がゆっくりと停止していった。

 そんな俺に、音もなく十河が近付いてくる。

 彼女の体からは色味が完全に失われて、輪郭くらいしか判別できないほどなのに、優しい微笑はますます慈愛の色を濃くしていた。


「答えを、教えてはくれまいか?」

「……PとA。英語にしたら?」

「P and A。…………あはははは! パンダか! 素敵な問題だな!」


 すべてを突き抜ける快活な笑い声。それ故に、胸を深く貫いて痛みに変わる。

 透明と言っても過言でない十河の体内に漂う光の粒子は、既に数えるばかりになっていた。


「すっきりしたよ。お前とは、もっと沢山話をしたかったな。センスがいい。……そうか、白と黒か。本当に素敵だ」


 もっと……、話をしたかった? そんなの……、


「俺だって、十河と話したかった! 三年間片思いしたままろくに話しかけることも出来なかったヘタレ舐めんな!」


 血液が頭に送られていくのを感じる。

 ……まだだ。


「そうだったのか。気付いてあげることが出来ず、辛い思いをさせていたのだな。だがあたしの方が嫌われていると思っていたのだ。お前にも責任があるのだぞ」


 ……まだだ!

 脳に火花が走る。摩擦で沸騰しそうな勢いの血流が思考を加速させる。

 

「ありがとう。…………最後に、お前と話せてよかった」

「まだだ!」

「七色……」

「パンツなんかいらん! 俺は十河に、お前にいて欲しい! 好きなんだ!」


 急げ、俺の脳! いつも暗号作ってたのは、このためだろうが! 

 考えろ、組み立てろ!

 誰も考えたことの無い問題と、それをこいつの口から言わせる方法を!


「最後に、そこまで言ってもらえて嬉しいぞ……。お前には、あたしの大切な物をあげよう」


 こいつは、消えるまでの間に何を言う? 大切な物?

 謎はどうする? PANDA……、間の文字を……っ!


「せ、戦争が起きて!」

「七色…………、お前…………」

「戦争が起きて、日米共同軍がパリを占領した。両国は世界からの非難を避けるために占有権を押し付け合うことになったんだが、日本人が地名に蟻が入ってる土地などいらないと言ったら、アメリカ人は急に笑い出しながら懐から大金を出した。……彼はなんと返事をした?」


 教室を埋め尽くさんばかりに溢れる光の粒子が、チリチリと音を立てて静まり返った世界を漂う。

 そこに、最初に音を注ぎ込んだのは十河のネックレスだった。


「……ばか者。心残りになったではないか。お前のような人間と、その問題の答え。でも、もういいのだ」


 例え神に負け、支配されているとしてもその誇りは失わないという誓い。

 魔族が自分の証として生涯身に着けると言われるネックレスを、彼女は外した。


「これは、私自身のようなものだ。どうか、お前にこれを受け取って欲しい」

「…………さっき、違う約束をしたはずだが」


 外したネックレスを握る十河の手は、もう完全に透けて見えていない。

 その手があるとおぼしき所に、光の粒子が一つだけ漂っている。

 

「ん? あはは! あれか! 私の最後の言葉になるやもしれんのに、お前……」


 空中を浮かぶネックレスと一粒の光が、俺の胸元に届く。

 俺は、その下に両手を差し出した。


「これをくれてやるから、パンツは勘弁してくれまいか」

「十河……、それが……」


 俺の返事を遮るように光の粒子が浮上し、そして、ネックレスが手の平に落ちた。


 彼女の瞳があったはずの所から、青い、白い光を放つ滴が零れる。

 涙が、こんなにも濃い色を持つものだなんて知らなかった。

 その滴が床に弾けた時、俺は命を使い果たした戦士のように両膝を崩れさせ、そして呟いた。


「それが……、正解だ」


 俺の言葉を起点に、辺り一面に漂っていた光の粒子が、まるで逆再生されるように十河の体へ戻って行った。

 周りの皆は驚いたことだろう。そして、十河の驚きは彼らの驚きを超えるものだったことだろう。


 鼓動すら聞こえるほどの静寂の中、皆は、一人の女性の姿を捉えていた。

 その女性は完全に元の色を取り戻した手を見つめた後、俺の目を見つめ、再び涙を零した。


「よかった……。お帰り、十河」


 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 静寂の時は終わりを告げ、今、歓喜の叫びによって世界は満たされる。


「うおーーーーーーーーーーーーーーーー!」

「姫様! 姫様ーーーーー!」

「七色、どんな魔法使ったんだ? ありがとう! ほんとにありがとう!」

「よかったですーーー!」


 皆は俺と十河を中心にもみくちゃに抱き着いて、喜びを体全身で表した。

 俺だって心底嬉しい。力強く抱き着かれる痛みすら心地いい。

 目の前には、十河の潤んだ瞳がある。大好きな人が、今、ここにいる。

 守れたんだ。俺、大切な人を守ることが出来たんだ。


「俺……、さっきの聞き間違いを本当のことにしたい! だから!」


 皆の興奮にあおられた。

 体中に走る痛みが理性のかせを外した。

 俺は本能のまま、もう一度、愛しい人に想いをぶつけた。


「俺の、俺の恋人にな…………って、さっきからなんだこれ! びりびり痛え!」


 さすがに耐え切れん!

 俺は強引に四人からの拘束を引きはがして体を見たが、どこにも異常はない。

 しかも、離れた途端に痛みが消えた。


「なんだ、今の電気みたいにびりびりしてたやつ。感電?」

「ああ、あたしもかなり痛かったのだが……」

「それは、十河沙甜のせいである。お前の犯した罪に対する罰である」

「だれだ!?」


 視聴覚室の扉の向こう、廊下に現れたのは、白い髪を膝まで伸ばした女性だった。

 彼女は俺と同じ人間ではなく、十河達と同じ魔族でもない。この地に住まう、第三の種族。つまり、


「天使……」

「先生と呼ぶのである」


 そう、十河達を監視するためにこの地へ降り立った存在。天使だ。

 そして彼女は、この学校の先生でもある。


「十河沙甜。神からの伝言である。傾注けいちゅうするのである」


 先生の言葉を耳にして、思わず緊張が走る。神様からの伝言だって?

 天使と悪魔を通してその存在を知ってはいたが、人類がおいそれと神に関わって良いはずは無い。

 おそれ多く、口の端に乗せるだけで罰が下るという認識だった。

 俺たちは、一体どうなってしまうのか。


 先生の口が開き、裁きにも似た覚悟と共にその言葉を聞いた。


「『あのさあ、サタンよ。俺は、三十六時間以内に一つ、人類が解明してない謎を解けない場合はその罪を罰にって言ったの。カエルじゃねえよ。なに大騒ぎしてんだよ』」


 ……………………は?


 それって。


 まさか。


 かっ!


 俺は十河の顔を覗き込んだ。自覚はないが、相当なあきれ顔になっていると思う。

 他の連中も、敬愛する主の顔を半目でにらんでいた。

 十河のクールな無表情は微動だにせず、険のある瞳は先生を貫いたままだったのだが、その口から苦しそうに言葉が押し出された。


「そ、そういうのと違うから。やっちまってないから」

「やっちまってるだろうが!」


 今日何度目だろう、俺は膝から地面に落ちた。

 じゃあ、今までのは全部茶番? こいつの勘違いで起きたこと?


「『体が消えそうになる演出も、ただの時間切れタイマーだって説明したろうが。なんで昔っからそうなの、お前? 昨日もハンバーガー屋で「テイクオフで」とか言ってたし。トレーにプロペラ付いてんのかよ、ウーロン噴いたっての』」

「そんな事実はない。もう覚えていない」

「『しかしそこの男、短時間でよく考え付いたもんだ。PARISパリARIアリ、ANTに変えたらPANTSパンツか。そりゃあ、勘弁しろって言いたくなるわな』」


 ああほんと。その言葉を答えにする問題、よく作れたもんだよ。

 でも、そんなことする意味無かったじゃん。

 脳が擦り切れそうになるほど考えて、恥ずかしいセリフ夢中で叫んで。


「『でもさ、俺は謎を解けって言ったんだ。答えを口にしただけじゃだめだって。だから今回は時間切れってことで、罰を与えといた。サタンよ、今後お前は、男に触れると感電します。男の方も痺れるのはちょい足しだ』」

「ちょい足しであれか。超痛かった」

「『ちなみに、男の方が十倍痛い』」

「「ちょい」の意味な!?」


 伝言相手に会話成立しちゃったよ。あと、神様に突っ込みとか正気か、俺よ。


「『じゃあ、そういうことで。今後も失敗すればどんどん罰が増えるから、もう失敗すんじゃねえぞ。困ったら、そこの男に助けてもらえ』…………以上である」


 先生はそのまま、何の感慨も無さげに立ち去っていく。

 残された俺達は、その後姿を目で追った姿勢で瞬き一つできずに、固まったままでいた。


 つまりこの騒ぎ、たった一人が起こした事件のせいで、その当人が被害を負っただけのような気がする。

 いや、もう一人、害を被った人物がいた。


「……十河が消えかけてた時の俺さ、熱演だったよね。愛を叫んでたよね。……すげえ恥ずかしい人だよね。…………出家してもいいレベルだよね…………」

「なんというか、その、すまんとしか言いようもない」


 うなだれる俺の肩に十河の白い手が触れようとして、慌てて引っ込んだ。

 うん、このうえ感電させられたら、俺は妖精覚悟で家から出ない。


「だが、恥ずかしくなどないぞ? お前があたしを助けたいと思ってくれた気持ちは本物だった。本当に嬉しかった。……だから、こうしてここに残った以上、ちゃんとお前の気持ちに向き合おうと思う」


 なんと。

 俺は勢いよく顔を上げると、十河を囲む四人が驚愕の表情で彼女を見上げている姿が目に映った。間違いなく、俺も同じ顔をしていることだろう。

 十河は、熱のこもった声音をいつもの凛としたものに戻して、


「だが色よい返事をすることは難しい。まずあたしは、恋愛感情という物を理解していない。さらに、人間と付き合うには面倒な手続きが必要だ。そしてその、あれだ。 ……………ドジっ子、なのだ。だから……」


 保留ということか?

 曖昧なままで終わらせてなるものか。これが最後のチャンスだ。

 どうせさっきまで赤っ恥かき放題だったんだ。毒を食らわばテーブルごと!

 俺は、自分の人生すべてを賭けて突撃した。


「そんなのが怖くて悪魔王に恋なんかできるか! 恋愛は俺が教えてやる。ドジも全部受け入れる。だから、俺と付き合ってくれ!」


 魂を込めた肉薄に、さすがの十河もたじろいで顔を赤くしている。もうひと押し。

 俺は誓いを証明するため、姫に対する騎士のようにうやうやしく片膝を突いた。

 そして、少し照れた表情を浮かべた十河がおずおずと差し出す手を取って、


「いたたたたたたたっ!」


 電撃に耐え切れずに、体ごと突き飛ばした。


 ……………………………………完璧だ。


 俺は、姫の腿あたりを突いたポーズのまま妄想に逃げた。

 ごんっと、まるで後頭部を床に打ちつけた時のような鈍い音が聞こえたけど、きっと気のせいだ。祝福の鐘の音がうるさくてまるで聞こえない。

 だってほら、彼女は幸せそうに笑いながら、俺の名を呼んでいるじゃないか。


「ふっ…………、ふふっ……、くっくっく。そー、らー、はー、しーーーーぃ」


 そして彼女は光に包まれた花畑のベッドからゆらりと体を起こして、どす黒いオーラをまといながら射るような目で俺をにらみつける。

 こら、妄想! 追いつけてないぞ、頑張れ!


「…………何か、言いたいことはあるか?」

「白と黒です」


 まあ、そう転べば見えるわな。


 俺は最期に言いたいことを言った満足感と共に、床にうずくまって沙汰さたを待った。

 そんなすっぽんが、ちらりと仰ぎ見た空には、くらく微笑む大きな月が静かに輝いていた。



 続く。


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