水守柚子と黒いトランクス

@9mekazu

水守柚子と黒いトランクス

「下着、くれない? ブリーフじゃなくて、トランクスがいいかな」

「へっ?」

 俺の間抜けな返答は、一気に騒がしくなった周囲の声でかき消された。教室にいる男子学生の九割……いや、俺以外のすべての学生が嫉妬の炎に目を燃やす。


 ――それは突然だった。

 九十分に及ぶ解析学の難解記号をひたすらノートに書き写す地獄から解放されて、思い思いにくつろぐ学生たちの中へ、上ノ浜大学のミス浜に選ばれた水守柚子が乱入してきた。

 教室に流れていた時間が停止する。ほとんどの男子学生が、帰り支度の手を止めて、彼女を目で追いかける。そんな好奇の目なんて全く無視して、彼女は颯爽と髪を靡かせ、教室を闊歩する。

 へぇ~、この教室に彼氏でもいるのかな。羨ましいやつだ。まっ、俺には関係ない。

 あまり気にも留めず、俺はノートとテキストをバッグへ片した。そして、首を廻し、肩を揉んでいた俺の前で、ふいに彼女が立ち止まった。

「ちょっと、あなた!」

 腰に手を当てて、豊かな胸を突き出して、俺を見下ろす。

 そして冒頭の言葉――。


 こいつ、俺を殺す気か。直接ではなく、間接的に。黒幕? 依頼人?

 殺気の籠った周囲の視線が俺を突き刺す。……っていうか、お前と、お前! 手に持った護身用のナイフをポケットに戻しなさい。頼むから。

「あのぉ、誰かと間違えてない?」

「でも使い古しは嫌だから……いいわ! これから一緒に買いに行きましょう!」

「あの、ちょっと、話を聞いていますか?」

 俺は周りを刺激しないように言葉を選ぶ。そうじゃなければとっくに怒鳴り返している。

 他人事ごとならきっと、羨ましいなぁ、とか、つべこべ言わずに買いに行けよ! とかツッコミを入れるところだろうけれど……。それが自分のこととなると笑っていられない。

「あなたこそ、話を聞いている?」

「もちろん。水守さんと一緒の買い物は光栄だけれど……。それがどうしてパンツなのかせめて理由を」

「あら、私、あなたに名乗ったかしら?」

 もしかしてこの女、螺子が一本抜けているんじゃないかと疑ってしまう。

 性格より、顔か? みんな顔とスタイルがよければ何でもいいのか。

 ……俺もそれでいいかな。

「さぁ、行くわよ!」

 水守は俺の腕にしがみつくと、教室の出入り口へ向かって、俺を引っ張っていく。

 しばらくは夜道を歩くまい。そう俺は自分に言い聞かせる。

 武器を持ってなかった学生さえ、嫉妬に狂ったらしく、ボールペンとかハサミとかを持った手を震わせている。

 殺意が実行されないように、しばらくは逃げ回った方がよさそうだ。

 しかし反面、こんな大勢に嫉妬されるほどのいい女と、二人っきりになれるのは気持ちいい。命を賭けてもいいかなと思わせる。

 ……あっ、ごめん、彼女の豊かな胸と密着した俺の上腕も気持ちいい。

 



「へっ?」

 マンションの三階、二月の冷たい風が吹きさらすベランダで、俺は声を漏らす。……いったい、今日、何回目だ。この理不尽な扱い。

 物干しに並んだトランクスたちが、五月の鯉のぼりみたいに冷たい風の中を泳ぐのを眺めながら、俺は彼女から受けた理不尽な扱いを振り返る。

 一緒に買い物と喜んだのも儚く、一人でデパートへ走らされ、彼女に指定された新しいパンツを十枚も買わされた。何故か自腹で。それもなんか高いブランド品だった。いつもの支払い額と二桁違う。

 十枚999円のパンツのどこが悪いっ!

 それでもそのあと、彼女の家に招待されたから、理不尽な労働と投資は報われだろうと思っていた。しかし彼女は俺を、マンションの部屋で労うでもなく、玄関から一直線にベランダまで連行した。

 暖房の効いた部屋の中に戻った彼女の監視のもと、俺は寒風吹き荒ぶベランダの物干しからぶら下がる水色の洗濯バサミにトランクスを干していく。強風のせいで、その作業はパン食い競争みたいに大変だった。

「終わった? じゃあ、さっさと部屋から出て行って」

 彼女は、作業をやっと終えた俺へ、そう言いやがった。

 読んだことないけれど、蟹工船の船長って、こんな奴じゃないのか?

 俺がいくら待てども、彼女は形式的な感謝すら口に出さない。

 俺は結局、彼女の下着泥棒対策に、男性用下着を並べさせられたわけだ。

「ほらっ、早く出てって」

 さらにゆっくりと彼女の部屋を見ることすら許されず、俺は部屋に漂う甘い香りだけを仄かに鼻腔で感じるだけで、さっさと玄関からマンションの廊下へ押し出される。

「お礼にお茶くらい出してくれたって」

「お礼? 何の? わたしの部屋を見られたんだから、差し引きゼロでしょ?」

 つまり俺の万札と女の子の部屋に遊びに行くのが同じ価値?

 まっ、確かに同じ価値かも……。そう一瞬、納得しそうになる。

「もしかして、それで納得してくれるの? なら助かるけれど……」

「いやっ、納得してないぞ!」

「だって、にやついてたじゃない」

「にやついてないって!」

「廊下で騒がないで」

「水守も! ……」声を荒げたじゃないか。

「なに!?」

「いや、いい……」

 最後まで俺は言い返せなかった。無駄だからだ。きっと水守は聞きゃしない。たった数時間で、俺と水守の間に、上下関係ができつつある。

「とにかく、つまりだ。だいたい、彼氏に貰えばよかっただろう?」

「彼氏なんていないわよ。男を好きになんてならない。あんな卑怯で汚らわしいモノが同じ人間だなんて、信じられない」

 男はモノ扱いですか……。「もしかして、水守さんってそっちの人?」

「ふざけないで!」

 水守が顔を真っ赤にして怒る。美人の怒った顔は美しいと言うけれど、確かに、引き締まった口元や、ノミ以下を見下ろすような冷たい視線は、俺の背筋をゾクゾクさせる。

 なんかこのままだと、新しい自分を水守に開発されそうだった。

 一緒にいると、危険だ。まぁ、合コンのときの笑い話ネタを一つ手に入れたということでヨシとしよう。

「それじゃぁ、さよなら……」

 俺は深いため息をついて、マンションの廊下をエレベーターへ向かって歩いていく。

「明日、学食の昼ごはんでいい?」

「へっ?」

 意外な声に追いかけられて、俺は素っ頓狂な声を出す。

「なによ? お礼はいらないの?」

 これもツンデレでいいのか? ……っていうかリアルでこんな女に会うなんてヤバくない?

「あ、ありがとう」

 俺は気を動転させながらも、ようやくお礼だけ言った。

「ちょっと、顔を赤くしながら言わないでよ。なんか……。大したお礼でもないのにそんなに喜ばれると、なんかむしろ申し訳ない気がするから」

 二人の間に気恥かしい雰囲気が漂う。

 そういうときは誰だって、恥ずかしさに耐えきれず、適当な会話で場を変えようとしてしまう。だから俺はつい、どうでもいいことだろうけれど、一つ気になっていた疑問を問いかける。

「えーとさぁ……ところでどうして俺のパンツ?」

 今度は、水守が「へっ?」と口を開ける。今更、そんな当たり前のこと聞く? そう馬鹿にされている気がする……のは被害妄想か。

「友達に聞いたら、この世の男の中で、最も臆病……じゃなくて安全で、犬……じゃなくて何でも言うことを聞いてくれる優しい人は君だって教えてくれたから」

 なんだ、それなら納得できる…………………………………わけがあるかっ!

 さらに、その友達がこの前別れたばかりの彼女だったら、俺の心は修復できないぐらい引き裂かれるだろう。

 すっごくその可能性が高い。確か彼女は、水守と同じ高校出身だと俺に自慢していたはずだ。

 カァー! と町のカラスがタイミング良く鳴いた。マンション正面の県道を挟んだ向こう側の電線にカラスが一羽止まっていた。俺がそのカラスを睨みつけると、援軍とばかりにカラスたちが次々と電線に集まってくる。その鳴き声の合唱はまるで、昔のマンガみたいに、アホォーっと俺を笑っているようだった。

 むかつく。




 次の日の昼休み。犬扱いされた俺は、ハチ公のように学食前で水守を待っていた。

「どうせ俺は犬扱いだし……」そうぼやきつつも、顔はにやける。

 あれだけ馬鹿にされてと思う反面、それでもあの水守と一緒に飯を食うという優越感は気持いい。

 昨日のあの後、同じ解析学を取っている友人から酒に誘われた。俺は誘われた居酒屋で二時間、虚構と、嘘と、でっちあげと、ちょっとの真実を混ぜて、水守の家にまでお邪魔した顛末を独演した。酒の力もあっただろうけれど、泣いた奴が二名、死んでやると醤油をたっぷりとかけた刺身のツマを一気食いしようとした奴が一名、泥酔が一名出た。幸せ者が酔っぱらいの看病をしろと、俺はその泥酔した友人を仲間から押しつけられた。一晩中、看病したせいで、着替えられなかった俺は、昨日と同じジーンズで授業に出席するはめになったのだが、寝言にまで水守の名前を呼ぶ友人を間近にしたおかげで、水守の人気ぶりを痛感できた。

 しかし、昨日の俺は優越感を増幅させるために水守を美化しすぎた。他の男も俺と同様に彼女を美化しすぎるから、水守の株が急上昇するのだろう。そのために眠りながら水守の名を呼び、泣いてしまうかわいそうな男が量産されてしまう。

 俺もその片棒を俺も担いだことになるのだろう。

 そう反省しつつも、俺はぷくくと笑ってしまう。人の目なんて気にしない。

 むしろ、俺を見ろ。どうだ! いいだろぉ?

 もうすぐ、ミスキャンパスが学食前に現れ、周囲が騒がしくなる。けれど彼女の瞳は俺だけをとらえ、俺にだけ手を振り、俺にだけ笑顔を向ける。

 妄想は暴走する。心が高揚する。たぶんそれって、クラスで一番たくさんの義理チョコをゲットしたときの胸の高鳴りに似ている。優越感はあるし、過分な期待を抱いてしまう。

 ただし、愛がないところまでそっくりだな。それはさておき――、

「噂をすれば……」

 学食前が騒然とする。

 水守が学食前の俺に向ってまっすぐ歩いて、

 歩いて……、

 走って?

 手を振りかぶって? 

「使えないやつ!」

 水守の瞳が俺だけを睨みつける。今度ばかりは美人だねと感心できない。

 パァーッン! 

 俺のかわいそうな頬と水守の怒りの平手との共同作業で奏でる甲高い音が、学食内に響いた。




「どうして俺が……」

 携帯電話を取り出して時刻を調べる。ぼんやりと光る液晶画面に2:00と表示されていた。俺はマンション前の自販機の横で、三階にある水守の部屋のベランダを見上げていた。ベランダに俺が干した男性下着に交じって、水守の下着も置いてある。

 使えないやつ。俺は冷え切った頬を撫でながら、彼女の怒声を思い出してしまった。

 つまり俺の用意した男性下着は、下着泥棒に効果なく、昨日もしっかりと盗まれたらしい。

 責任取りなさいよ。

 俺を大学から拉致した水守はそう言って、俺に徹夜の見張りを命じた。

 責任って……俺にあるのか?

 そのとき、へっ? と水守の理不尽さをアピールしたけれど、却下や無視どころか、叱られた。

 犬より使えない奴って言いふらすわよ!

 とにかくこれ以上、俺の評価が下がれば、本気で次の彼女を望めなくなる。俺は打算もあって、水守へ下着泥棒捕獲の協力を自ら進んで申し出た。決して、脅しに負けたわけではない。――それは、さておき。

 そして俺は、彼女のためにしかたなくこんな時間まで見張りを続けていた。

 二月の夜は寒い。足踏みだけで暖を取るのも限界がある。

 それでも明るいうちは、本人の了解のもと、薄ピンクやレースの白い下着を鑑賞できたのだから、男としてこれほど幸せなことはなかった。

 しかし一時間も経過すると、その下着もただの物体としか思えなくなり、今は闇に紛れて姿形も見えない。

「そもそも、この見張りすら意味がない」

 俺は白い息を吐きながら呟く。自販機の明かりで手を伸ばした先がやっと見えるぐらいの闇夜なのだ。下着泥棒が出没しても、俺は見つけられないだろう。

 実際、俺は〇時ごろ水守へそう進言した。

 やれっていったら、やれ。臙脂色のジャージ姿の水守が眠たそうな目を擦りながら、俺の意見を却下した。

 つい、へっ? と聞きなおしたら、玄関口に置いてあった箒で叩かれた。

 それぐらいの凶暴さがあれば、助けは要らないだろう。その反論は、俺の身の安全のためにもぐっと堪えて口に出さなかった。

 それはさておき。

 やっと今、二時五分。

「凍死?」

 とにかく気を許せば、目の前にお花畑が見えてきそうだ。もしくは熱いと叫びながら、服を脱ぎすて裸になるかもしれない。

「死ぬ前に、帰るか……」

 水守に俺のこと言いふらされてもいいやって気になってくる。卒業後、俺のことを誰も知らない土地で就職すれば俺の情けない評価も隠ぺいでき、新たにいい男としてデビューできる。

 帰るか……。

 そう何度も呟くけれど、俺の足は動かなかった。

 水守を好きになった……ってことは、全然ない。

 ただ、男として、卑劣な下着泥棒が許せなかった。

「あいつがあれだけ男にビビっていたのも、きっとそのせいだろうし……」

 本当に昔から男嫌いなら、ミスコンになんて出ないはずだ。

 俺が水守に声をかけられて優越感を感じたように、水守もみんなにちやほやされて有頂天だったのかもしれない。その結果、こんな手痛い代償を払わされたら、水守がもうこの世の男の全てを信じられなくてもしかたないだろう。

「ただし、あの性格の悪さは元からだろうな」

 俺は笑いながら、吐く息で手を温める。

 ここは八甲田山じゃない。それに日の出まであと四、五時間だろう。我慢、我慢。

 下着泥棒を捕まえられなくても、せめて一日ぐらい気分のよい朝を迎えさせてやろう。

 俺は止めていた足踏みをまた再開させながら、真っ暗な水守の部屋のベランダ辺りを見上げた。

「君? 何をしているんだ!」

 えっ、これって、もしかして……。

 厳しく誰何をする声を聞いて、俺は恐る恐る振り返る。

 それこそ奇跡のように、一人の警察官が懐中電灯を照らしながら立っていた。その後ろにはパトカーが停車してあって、もう一人の警官が窓腰に俺を睨んでいた。

 ツーマンセルのフォワードとバックアップ。俺って凶悪犯か?

「何をしているんだ!」

 職務質問……でいいのかな? 初めてだから確かなことはわからない。

 懐中電灯の明かりが緊張した警察官の顔を下から照らす。

「ちょっと荷物を見せてもらっていいかな。最近、この界隈で下着泥棒や痴漢が出ているからね。そのために全員にお願いしているから」

 俺は手荷物を持っていなかった。ポケットにも何も入ってないはずだ。

「おい、これはなんだ!」

 警察官の口調ががらりと変わる。人当たりの良さは消え、今まで俺を叱ったどの大人よりも容赦のない言葉だった。

「へっ?」

 俺のジーンズのポケットから何かを取り出した警察官が、後ろの仲間を呼ぶ。なんかタクシー無線と同じような感じで、パトカーの警察官はマイクで誰かと会話した後、俺のところまで走ってくる。その手は腰に納まっていた。

「それって何です?」

 俺も気になる。まさか、ここで喜劇ドラマや漫画みたいな展開はあるまい……。

「……って嘘。……いや、ありえない! 俺のじゃない。違いますよ! 信じてください!」

「君のじゃないから、問題だよ」

 そりゃそうだ。隙をつかれて、俺はすとんと納得してしまう……って違う、問題はそこじゃない!

「署まで来てもらうよ」

 後から来た警察官が俺の手首を掴んだ。

 職務質問をしていた警察官が俺のポケットから出したものを懐中電灯で照らす。

 ハンカチを丸めたよりも小さなそれは女性下着だった。

「なんで……、いや、偶然って言うか、何かの間違いで俺のポケットに」

「みんな初めはそう言うんだよ」

「……じゃなくて、これはさっき女友達の家に行ったときに」

「自白か? 友達でも下着を盗めば犯罪だ。その子に被害届を書いてもらわないと……」

 俺が弁解するたびに、状況が悪くなっていく。

「とにかく署で話を聞こう。罪を告白したら楽になるぞ」

「あぁ、もぅ、すでに犯人扱いされている!」

 俺の叫びが犬の遠吠えみたいに夜空へ吸い込まれていく。

「さぁ、来なさい」

「待って下さい!」

 涙を流していた俺は、「へっ?」と情けない声を出して振り返る。

 その横を水守が過り、警察官と俺の間へ割って入った。

「彼は、わたしが落とした洗濯物を拾ってくれただけです」 

 水守は国家権力へ向かって淀みなく嘘をつく。

 女って怖ぇ~。今回は有り難いけれど。

 俺は警察官と目を合わせると、うんうんと大きく肯いた。

「脅されているだけじゃないのか? こんな遅い時間に、男友達が都合よく……」

 すると水守は俺の腕へ抱きついた。

「この人、わたしの彼氏で、同棲しているんです」そう警察官へ捲し立てる。

「信じないんだったら、この場でキスでもしましょうか?」

 水守の瑞々しい唇が、互いの体温を感じ取れる距離まで、俺の唇に急接近した。俺はつい状況も忘れて、目を閉じてしまう。

「わかりました。しかしこんな夜遅くに感心しないよ。痴漢も出ているから、夜の外出は控えてください」

「わかりました」

 水守が俺の首根っこを掴み、俺に頭を下げさせた。

 警察官も苦笑いしながら、パトカーへ戻っていった。




「もっと上手く立ち回りなさいよ」

 パトカーが見えなくなった途端、水守が怒り出す。

 鈍く光る自販機に照らされた水守の顔は、怒っているんだけれど、瞳は潤んでいた。

「誰だって、いきなり犯人だって疑われたら、ビビって声が出せなくなるよ」

 安堵で気を大きくした俺は、水守へ言い返す。

 きっと百倍は言い返されるだろうなと身構えたが、水守は反撃を控える。それどころか、うつむいて一言、「ごめん。わたしのせいだね」

「へっ?」

 俺は驚いて聞きなおす。

「だからごめんなさい! わたしのせいだから謝っているのよ」

 怒り顔もいいけれど、こうやって照れながらも素直に謝る顔の方が、クラクラするほど美人に思えた。

 この顔を俺だけが知っているなら、これ以上に嬉しいことはない。まぁ、ありえないか。

「……けど、どうして俺が警察官に囲まれているってわかったの? あっ、俺の声が大きかったから……」そんなわけがない。それならマンションの他の部屋も騒ぎを聞きつけて部屋明りを点すだろう。

 水守は何も言わず、俺の前にステンレスの水筒を差し出す。

「寒いから、あったかいお茶……。お茶が欲しいって言っていたから」

 それは昨日の話だろ。そんなツッコミは入れずに、水守の親切を素直に受け入れた。

 いいところあるじゃないか。こんな一面があるから、女性からの支持も得て、ミスキャンパスに選ばれたのかもしれない。

 それは、さておき、です。絶対に聞いておかなければならない質問があります。

「もしかして、俺のポケットに下着を入れた?」

「あぁ、大丈夫。わたしのじゃなくて、下着泥棒対策にコンビニで買っておいた下着だから」

 水守のずれた説明に、俺は怒りを通り越して、脱力した。

「だからさぁ、なんで、それが俺のポケットに入っているの?」

「もしかしたら、『実はあなたが犯人』っていう可能性もあるでしょう。だから踏み絵代わりの囮よ。痴漢じゃなければ返すはずだし、痴漢だったらそのまま自分のモノにしちゃうもの。だから今日、返してくれなかったら、ちょっと怪しんでいたの」

「なるほど、だから部屋の中からベランダの見張りをさせなかったわけか……」

 昨晩、部屋の寝室の扉もカギ付きだから、不安なら閉めとけばいいって俺は提案した。けれど頑なに寒空の下へ行けと言った水守の気持ちを、俺はやっと「……って納得できるか! だいたい、なんで水守の家の場所すら知らなかった俺が下着泥棒をすんだよ!」

「だってぇ、絶対に同じ大学の生徒が犯人だって思っていたし……それに友達がそんなことするわけないし……あなたを紹介してくれた友達が、『あいつが犯人かも』って疑っていたから……」

 俺はその場に崩れた。

 俺はどういう男に思われているのだ?

 これだけ誤解されたら、もう絶対に、この町で彼女を作るのは無理だ。

「英語を……真剣に勉強しよう」

「何? 何の話?」

 水守が俺に対して謝る気配を微塵も見せず、明るい声で聞いてきた。

 俺は軽く無視してしまう。もう海外で彼女を作るしかない。そう思いつめていたからだ。

「もう返事してよ」

 水守は俺の肩を押す。

 お茶を渡す用事はすんだはずなのに、水守はマンションの部屋に戻らなかった。




「おい、起きろよ」

「なに? 朝? 寒い……」

 水守は器用に俺の肩に身を預けて、立ったまま寝ていた。

 真っ暗だった景色が、薄紫色から白ばむ。

「もぅ、上を見上げないで!」

 水守が俺の前に立つと、残像が残るぐらい手を振って、ベランダの下着を隠そうとする。

「いまさら……それに見張らないと、明け方の方が下着泥棒の出やすい時間……」

 確か、早朝の配達の仕事やジョギングを装って、下着泥棒をしている犯人を聞いたことがある。

「……だけれど……」

「ん? 何?」

 水守も俺と肩を並べて、同じように自分の部屋のベランダを見上げる。

「へっ?」

 二人が同時に、ひっくり返った声を出す。

 カラスが数羽、ベランダにとまっていた。

 すると一匹のカラスが、ぴょん、ぴょん、と横へ跳ねながら、乾してある下着へ近づく。

 黒いボクサータイプの男性下着や、色つきの下着を黒い嘴で器用に撥ね退けて、白いレース入りの下着をパッとくわえると一転、カラスは西の空へ飛んでいく。

「そう言えば、漫画で、鳥が巣を作る道具に下着を利用するって話があったっけ?」

 ふと俺の肩が寒くなる。

 横を見ると、水守が腰を抜かして座り込んでいた。

「大丈夫か?」

 俺は膝をついて水守へ声をかける。

 水守はうっすらと目を潤ませていた。

「よかった……下着泥棒じゃなかったんだ……」

「犯人はカラス。これでちょっとは男を見直してくれるか?」

 そう聞いた途端、水守の顔に傲慢な笑みが戻ってくる。ぱっと立ちあがると、膝についた土埃を払う。

「何で? 警察の人も言っていたでしょう? 痴漢や下着泥棒は別にいるんだから」

「まだ、男はみんな悪モノ、ってわけか?」

「違うわ!」

 水守が声を荒げたあと、ふと顔を逸らす。

「あなたは、違うよ」

 水守はそう言うと、駆け足でマンションの建物へと入っていく。

 呆然とそれを見送る俺の頭上で、カラスがアホォーと鳴いていた。

 ふふん、羨ましいだろ。

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