短編集

千景

人違いからはじまる記憶の捏造

「あっ、よっすー!」

 女子高生が誰かに挨拶していた。

 ぼくは学校帰りに繁華街の本屋に着いたところだった。自転車を降りて鍵をかけ、カバンを取って店内に向かおうとした。夕方であり、周囲にはたくさんの通行人がいた。ぼくと同じような放課後の高校生もそこそこ見受けられた。

「おーいってば」

 突然、すぐ背後から大きな声がした。

 ぎょっとして振り向くと見知らぬ女子高生がへらへら笑いながら立っていた。制服からして違う高校の生徒だった。全く面識はなかった。誰に話しかけているんだろうか。ぼくは無視して本屋の中へ行こうとした。

「ちょっと!」

 服をぐいっとつかまれた。

「は?」

「なんで無視すんの?」

「はぁ?」

「はぁ?」

 お互いに間抜けな声を上げて顔を見合わせる。相手の顔が次第に困ったような色を帯びはじめる。きっとそれはぼくの表情でもある。

「どうしたの?」

 女の子はおどおどと小さな声でたずねてきた。それこそこっちの台詞だった。ぼくは改めて考えてみたけれど本当に全く見覚えが無かった。はっきり言って目の前の女子は高校生の中でもかなり化粧が濃い方で、そんな友人はぼくにいない、というより、そもそもぼくに女子の友達などいなかった。ついでに言うなら男子の友達だってほとんどいない。学校での休み時間で一番よく遊んでいる友達は本だった。クラスメイトの誰かが放課後になって原形をとどめないくらいとてつもない化粧を施し、何かの気まぐれによってぼくに声をかけたのか。それとも赤の他人がぼくを誰かと取り違えたか。ひょっとしてからかわれているのか、もっと悪ければ詐欺か何かか。これから僕は路地裏に連れ込まれて待ち構えていた不良に金をむしり取られるのだろうか。

「すいません、急いでいるんで」

 ぼくはわざとぶっきらぼうに言って本屋の中に急いだ。

 もちろんぼくは急いでいない。今日は週刊漫画雑誌の発売日だったから立ち読みしに来ただけだ。マンガはぼくを急かさない。いつもの場所でじっとぼくを待っているだろう。逃げたりはしない。逃げたいのはぼくだ。

 しかし女子はなぜかぼくについてきた。何も言わずにてくてく歩いてくる。

 店に入って数歩歩いたところでぼくはおもむろに振り返った。

「なんですか?」

 すると女の子はなぜか悲しそうな顔をしてぼくを見上げてくるのだった。

 こっちが悪いことをしているかのような気になってくる。しかも女の子はバツが悪そうにうつむくばかりで、離れていく様子もない。らちが明かなかった。

「すいません、人違いだと思いますよ。ぼくはあなたのことを全く知らないので」

 彼女の表情がますます悲しげになっていき、しかし去っていこうとはしない。

 どうしようもなく、ぼくは書店に併設されているカフェに入った。彼女は少し表情を明るくしてついてきた。女の子とカフェに入るのは生まれて初めてだった。ぼくは単刀直入に、あなたが誰なのか、そしてなぜぼくのことを知っているのかたずねた。彼女はなぜか悲しそうに小さく笑い、注文したアールグレイのアイスをスプーンでサクサクと刺しはじめた。

 彼女が語ったぼくと彼女の出会いは驚くべきものだった。それはどちらかと言えば現実ではなくてマンガの中の出来事に近かった。一言でいえば、ぼくは彼女を助けたらしい。彼女には万引き癖があって、先日も薬屋で化粧品を万引きしようとしていたのだけれど、通りかかったぼくが彼女を止め、あまつさえ説教をはじめ、逆切れした彼女をなだめながら高い化粧品を数個買い与えて去っていったのだという。しばらくして冷静になった彼女はぼくがとてつもなくいい人であることに気がつき、逆切れしたことを謝りたいと思っていたそうだ。そして今日ぼくをみかけたというわけだった。それでよっすー? 馴れ馴れしすぎやしないか。まぁそれはいい。

 そしてぼくには全くそんな記憶がないという点を棚に上げても、かなり奇妙な点がいくつかあった。まずぼくは薬屋に行かないし、ましてや化粧品売り場を通りかかることなどありえない。さらにはお小遣いも多くはないから数千円の買い物をポンとするほどの余裕などない。

「あ、それでね、今日つけてるの。買ってくれた化粧水と乳液と、マスカラと、あとマニキュアと、あとなんだっけ……?」

「そうなんですか」

「そうなの」

 彼女はアイスを食べながらニコニコしている。

「申し訳ないですが、やはり人違いではありませんか? ぼくには全く記憶がありません」

「記憶喪失なのね」

「いえそういうわけではなく」

「でも一緒だよ。この前もそんなふうに堅苦しい感じだったし」

 別にぼくは堅苦しくねぇよ。初対面だから敬語使っているだけだよ。

「っていうことは、あれだね」

 どれだよ。

「人助けなんていつものことで一々覚えてないってことなんだね」

 ぼくは絶句する。

 彼女はきらきらした笑顔を浮かべていた。

 残念ながらぼくは聖人君子などではない。どこにでもいる、ありふれた、友達の少ない、根が暗めの、単なる野郎でしかない。一切記憶がない以上、やはり彼女は空前絶後の勘違いをしているか、前代未聞の妄想をしたか、あるいは単に嘘を言っているかしかない。それ以外の状況なんて何かあるだろうか?

 ぼくはうすら寒い気持ちになってきた。

「……すみません。実はぼくは急いでいたのです。行かなければならないので代金だけ置いていきます。ゆっくりしていってください」

「あ、そういえばそうだったね! お茶付き合ってくれてありがとう!」

「いいえ」

 ぼくは席を立った。自分の分だけお金を置こうとしたもののなんとなく見栄を張りたくなって彼女の分もお金を置いた。これで今月は金欠確定だった。

「あの、さ」

 女の子がもじもじしながら上目遣いで見てくる。

「ライン知りたいなー、なんて」

「ぼくはラインしてません」

「あ、そうなんだー」

 わかりやすくしょげた表情を浮かべている。たぶんぼくが間接的に連絡先の交換を断ったと思ったのだろう。しかしそうではない。ぼくは部活に入っていないし友達もいないし、クラスのライングループの連絡網などすら参加していないから本当に使っていないのだ。それがとても珍しいことは承知している。

 ぼくはなんだか少し悪い気がした。

「本当にラインをしていないんです。家族とかとのやりとりはスマホの電話番号のショートメールでしています。それでよかったから交換しますか?」

 彼女はレトロだと叫びはじめた。叫ぶようなことでもないのに。ぼくらは電話番号を交換した。やや気味が悪くは感じていたが、結局、同情心か何かから連絡先を交換してしまった。というかなんで連絡先を交換したのか自分でも不思議に思った。ぼくが女子と連絡先を交換するなんて、真夏に雪が降るのと同レベルの出来事じゃないか。そしてぼくは急いでいるという事になってしまったので立ち読みをせず本屋を出て自転車に乗り、駅へ向かった。駅の本屋で立ち読みしようと思った。そんなことを思いながら通り沿いの薬屋の前を通ったときだった。

 ぼくはギョッとして自転車のブレーキを強く握りしめた。

 止まる。

 別に何もなかった。通行人がぱらぱら。それだけだ。何の変哲もない通りだった。しかし妙な既視感があった。ぼくはついこの前、薬屋の前をこんなふうに自転車で通ったことがあるかのようだった。そしてぼくは薬屋のショーウインドーの前で自転車を停め、店内に入っていった。何のために? お腹がすいたからだ。菓子パンか何かを買おうとしたのだ。でも僕はついさっきの瞬間までそんな記憶はなかったはずだ。

 でもなぜか思い出した。ぼくは菓子類の売っている棚を探して店内を練り歩き、たまたま、化粧品の棚の列でバッグに化粧品を入れている女子高生を見つけ、一回通り過ぎてからやっぱり戻っていって、そして――?

 フラッシュバックした記憶に呆然としてぼくは立ち尽くした。

 全く身に覚えのない記憶を思い出すという意味不明の現象。

 スマホが振動した。

 ぼくはびくりとしてから恐る恐るスマホを取り出した。

 ショートメールが届いている。

(自己紹介してなかった! 私は瀬々瑞希です。よろしくね)

 文末に絵文字が四つくらいついていた。

 ぼくは何をどうしたらいいものかわからず、ただ問題を棚上げにすることにして、スマホをポケットにしまった。

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