第二十一話:決意の土下座

「人間には、それぞれ異なる人生観があり、どのような生き方をしたいかという思い入れに、それ相応の差があります。とにかくお金が必要だ、と身を粉にして働き続ける方々もおれば、その一方で、お金は必要な分だけあればいい、と自分の時間を大切にする方々もおられます。また、他者にプライドを傷付けられることを何よりも嫌い、加えられた侮辱に対し容易く報復措置をとる方々もおれば、多少の不愉快は腹の底に収めて、人間関係の実利を重んじる方々もおられます。人生観の相違は、損得勘定の異なりと人格の不一致とをもたらすのです。

 そして、そのような身の振り方に対する哲学の差異は、当然のことながら、物事を見る目や判断の是非というものに大きな影響を与えます。これは現実の世界だけに止まらず、創作の世界においても、あってあたりまえのものでなくてはなりません。なぜなら、創作世界で描かれている内容は、ある意味で現実世界の精巧な写し絵シャドウでなくてはならないからです。そうしなくては、読み手の多くにリアリティーというものを疑似体験させることができなくなるからなのです」

 「なるほど」と俺は大きく頷いた。

 実を言うとこの時、俺は奴の言っていることの半分を理解するのがやっとという有様だった。

 持って生まれた頭の悪さというものを、思わず呪ってしまいたくなる。

 だが、その理解できた半分だけでも、俺にとっては類い希なる収穫だった。

 なお耳を澄ませる俺に向かって、画面のあちらの岡部のオヤジは、教師のように語り続けた。

「これは、かつて私の担当した、とある作品についてのお話です。その作品は、いま先生のお描きになっている『双刃のガロー』と同じく、こことは異なる別世界を題材としたアクション主体のファンタジーものでした。主人公は、こちらの世界で武術を究めた超人的な男子高校生。それが交通事故で命を失い、別世界に転生を果たしたことから物語が始まるのです」

 いわゆる「異世界転生もの」って奴か、と、俺は思った。

 それは、ネット界隈を中心に勢力を拡大してきた若者向けの題材だ。

 口汚い連中からは「単なる妄想オナニーだろ」と揶揄されることもしばしばだが、現実的には、いまどきを象徴する売れ線テーマの最右翼だった。

 少なくとも商業ベースとしては、成功作を排出している。

 岡部のオヤジがご高説の叩き台に選んだのは、そんなジャンルに所属している、とある作品の序盤であった。

「その、別世界に生まれ変わった現代人の主人公が冒頭でいきなり遭遇してしまうのが、懸命に逃亡する一台の馬車と、それを襲撃する武装集団という、なんとも切羽詰まった状況でした」

 俺の反応を待つことなく、奴は淡々と言葉を続ける。

「その光景を目の当たりにした主人公は、即座に介入を決断します。逃亡する馬車の側を助け、武装集団の側を排除する方向で、です。そして、突如として戦いを挑んできた主人公に対し、武装集団の側は全力でこれを迎え撃つ姿勢を取ります。ですが、双方の戦闘力には圧倒的を超えるほどの差がありました。武術を極めた主人公が無言で殺気を迸らせただけで、武装集団に属する数十人の男たちは、たちまちのうちにおのれの最期を理解します。そして、死ぬならせめて華々しく、と主人公相手に一騎打ちを挑み、次々と散り花を咲かせていったのです」

「はァ」

「武装集団を鎧袖一触した主人公は、離れた場所で彼の戦いを観察していた馬車の側との接触を試みます。逃亡していた馬車に乗っていたのは、見目麗しい王国の姫君と彼女を守護する凜々しい顔立ちの女性騎士でした。彼女らは王国の実権を握る大臣の陰謀に巻き込まれ、いままさにその命を奪われようとしていたのです。ふたりはともに、自分たちを救ってくれた主人公の誠意と力量とに感嘆し、彼を生涯のパートナーにすることを内心誓ってしまうのです──と、まあ、これがその物語のオープニングに当たる部分です。

 私はこの作品のネームを見せられた時、極めて強い違和感を覚えました。もちろん、扱っている題材の好き嫌いはまったく別の話です。では、それがいったいどこなのか、先生にはおわかりになるでしょうか?」

「わかりません」

 俺は正直に即答した。

 いま岡部のオヤジが口にした内容を俺なりに咀嚼してみたのだけど、奴が言うような違和感を覚える部分は特になかった。

 むしろ、最強主人公を戴くライトな作風においてなら、こういう展開は王道と言えるんじゃないだろうか?

 だから俺は、その旨を続けて岡部のオヤジに伝達した。

 極めて率直な感想だった。

 ひょっとして、この手の作品に対する偏見がアンタの中にあったんじゃないか、という底意地の悪い疑いを、失礼ながら言葉の裏に潜ませてさえみた。

「要はリアリティーの問題です」

 そんな俺の表情に、苦笑いしながら奴は応えた。

「『現実は小説より奇なり』と申しますが、それだからこそ、創作者側は因果と必然というものに対し、それなりのこだわりを持たなくてはなりません。あまりにも突拍子のない展開は、それが作り物であると承知している読み手の側を、かえってしらけさせることに繋がるからです。物語におけるリアリティーとは、作中における因果と必然によって支えられています。因果と必然によって支えられていない場面展開は、いわゆるご都合主義デウス・エクス・マキナの親戚であり、こと創作においては、禁忌に近い手法であると私は考えているのです」

「……」

「さて、話を元に戻しましょう。先の物語においてまず私が違和感を覚えたのは、なんの前触れもなく別世界の住人に生まれ変わった主人公が、いささかも混乱することなく合理的な思考を整えることができた、という部分です」

「それは──」

「先生。これは、決して揚げ足取りの疑問ではありませんよ」

 俺の言葉に先回りして釘を刺しつつ、岡部のオヤジはディスプレイ越しに微笑んだ。

「むしろ、作品の主題に近い問題だと思われます」

「作品の主題?」

「ええ、そうです。その作品の主題は『別世界に生まれ変わった主人公が、その世界においてどのように生きるか』というものです。なればこそ、そこには乗り越えるべき摩擦や葛藤が存在しなければなりません。そうしなくては、わざわざ別世界に生まれ変わるという主人公の設定が、なんの意味も持たないものになってしまうからです。

 ところが、その作品のネームにおいて『生まれ変わった』はずの主人公は、いささかの困惑にも陥ることなく、すぐさまおのれの置かれた現状に順応してしまいました。そのようなことができるかできないかの問題ではありません。そこまであっさり別世界の住人となりうるのであれば、なぜ『別世界に生まれ変わった』という設定が必要になるのでしょう? 主人公が、もともとその世界の住人ではいけないのでしょうか?」

「……」

「また、主人公に殲滅される武装集団の動向にも疑問が生じます。設定上では、彼らは馬車に乗った姫君の抹殺という目的を与えられた正規兵の一団でした。正規兵と言えば、訓練を受けた戦闘のプロフェッショナルです。そんな彼らが、自分たちの任務を一時的にしろ放り出し、介入してきた第三勢力に対して総員での迎撃を行うものでしょうか? 普通に考えるなら、一部の兵だけをそちらにまわし、残った者たちは変わらず任務を続行するのではないでしょうか? なんといっても、件の第三勢力は、たったの一騎に過ぎないのです。いかに主人公の戦闘力が絶大であるとはいえ、彼らはそれを察する術など持たないのです。むしろ、そのような真似をして肝心の馬車に逃げられるほうを恐れるのではないでしょうか?」

 岡部のオヤジの解説は続く。

「さらに言うと、彼らが主人公に倒されていく展開も、納得できるものではありませんでした。主人公の放つ殺気におのれの最期を理解したというのであれば、まずその場からの逃走を図るのが筋なのではないでしょうか? もちろん、その世界の戦士たちが死よりも名誉を重んじるという設定であるのなら、それはそれで構わないでしょう。ですがその場合、それほどに名誉を重んじる兵士たちが、集団でか弱い婦女子を殺害しようとした経緯についても納得のいく説明が必要となります。そうしなければ、設定上のバランスを欠くことになってしまうからです。

 馬車に乗っていた姫君たちの判断についても大いに疑問が残ります。なぜ彼女らは、追っ手が自分たちから離れた隙に、より遠くへ逃げ延びようとしなかったのでしょう? 確かに敵の敵は味方と申しますが、それでも介入してきた主人公が何者であるのかは、姫君たちにとって、まだまったくの未知数なのです。そんな不確定勢力の援軍に期待するよりも、追っ手がすべて近間から離れたという得がたい好機を活かす道を選ぶのが、人間心理としては普通なのではないでしょうか?」

「確かに言われることはそのとおりだと思いますけど」

 俺の口は、知らず知らずのうちに反論の弁を紡ぎ出した。

「でもそれは、主人公の強さと存在感を表すためのお約束って奴なんじゃ──」

「先生。それこそが、まさにこの問題の本質なのです」

 岡部のオヤジの反応は、まさしく「待ってました」と言わんばかりのそれだった。

「このネームに描かれた展開は、そのことごとくが主人公を際立たせるためといういち項目に集約されておりました。転生した主人公の行動も、馬車を襲っていた武装勢力の動向も、そして狙われていた姫君たちの反応も、そのすべてが、ただ主人公キャラの凄さ、素晴らしさを表現するため、それだけのために構成されていたのです」

「それのどこが問題なんです?」

「先に申し上げました、リアリティーの観点について、ですよ。楠木先生」

 俺の問いかけに対し、初老の編集者はさらりと答えを返してくる。

「このネームに描かれている短い物語には、登場人物それぞれの、これまで積み重ねてきたであろう人生が、まったくと言っていいほど再現されていないのです。武装勢力に属する数十人の戦士たちは、主人公に倒されるためだけに存在する、単なる的に過ぎませんでした。主人公に助けられ、彼に憧れを抱く姫君とそのお供の騎士のふたりもまた、女性という形態をとった装飾品に過ぎません。それどころか、精強無比な主人公の存在そのものが、描き手による自己満足の象徴に過ぎなかったのです。言葉を変えるなら、登場人物のことごとくが、ただ作者の欲望エゴを満足させるためだけに創造された、都合のいい道化。独り遊びに使われる人形の類に過ぎなかったのだ、とも言えるでしょう。

 残念なことですが、そのようなスタンスでは真剣な読み手を満足させることはできません。なぜならそれは、彼らの思いを馳せる対象が運命を司る創造神の側にではなく、その運命に翻弄される個性を持った人間の側にあるからなのです」

「……」

「いいですか、先生。良質なストーリーとは、その裏側に創造神の姿を、すなわち作者の欲望エゴを透けて見させてはいけないのです。たとえその物語がどのような展開に至ろうとも、ストーリーの主役はワールドを建築する神の側ではなく、あくまでもそのワールドに生きる人間の側でなくてはならないのです。私たちが生きるこの世界と同様、作り出された物語の中であっても、心を持った人間は、おのれの信念によってのみ行動します。その信念が賢明であるか愚かであるかはまた別の問題として、そのことだけは小揺るぎもしない事実なのです。この私や先生を含めた物語を創造する立場にある者たちは、そのことを決して忘れてはなりませんし、より慎重にそうした現実に接さなくてはなりません。そしてそれこそが、物語に真のリアリティーをもたらす一里塚となりえるのです。だからこそ、登場人物を作者の欲望エゴに従属させた物語など言語道断。人間は、神の操り人形などではないのですから」

 そうやって半ば哲学的な説教を終えた岡部のオヤジは、改めて俺の作品に対する実践的なアドバイスを開始した。

 その内容を短い言葉で語るなら、それは、「作者視点を一度投げ捨て、個々のキャラクター視点での現状を把握しろ」というものだった。

 つまり、時にはガローの、時には魔王の、時にはカオルゥの立場でもって場面場面を考えて見ろっていうことだ。

 こんな風に書くとなんだかあたりまえすぎて拍子抜けするアドバイスなんだけど、いざ奴とのブレインストーミングを始めると、俺はそいつが甘い考えだったっていうことに嫌っていうほど気付かされた。

 まだまだ俺はひよっこなんだ。

 ベテラン編集からの教戒を受け、俺は自分への評価をそんな感じに書き換えた。

 知らぬ間に抱えていたクリエイターとしての慢心が、骨身の奥で木っ端微塵に砕け散る。

 痛みをともなう一撃だったが、それはどこかしら痛快ですらあった。

 奴が度々口にしていた「物語のバックボーン」というものが、いったいどういうものなのか。

 その理解の端っこを掴み得たのも、まさにこのやりとりのおかげだ。

 それは、ひと言で表すなら「ゲームのルール」って奴だった。

 将棋を例えに挙げるとすると、岡部のオヤジの言っているワールドっていう奴は、いわゆる将棋というゲームそのもののことを指すわけだ。

 そして同じくバックボーンとは、その将棋というゲームを司るルール自体を意味している。

 歩が歩の、角が角の、金が金の動きをしなければ将棋というゲームが成立しないことぐらい、幼稚園児にだってわかるだろう。

 片方の差し手が突然そのルールを無視し、「ワープ!」とか言いながら初手で相手の王を刺しても、刺された側がそれを認めるはずはない。

 もちろん、対局を見ている観客の側だって同様だ。

 将棋の駒がどういう動きをできるのか。

 それは差し手の都合によってではなく、厳密なルールによって定められている。

 そしてそのルールとは、向かい合う双方の差し手においてだけでなく、将棋を楽しむすべての者たちにとっても、等しく共通の決まり事であるわけだ。

 難しい言葉を使っていいなら、「物語のバックボーン」とは要するに、「作者と読者とが等しく共有する、その世界観における法則性」ということになる。

 そこがぶれぶれのままだと、描き手の側が気持ちよくても、読み手の側は混乱すること疑いない。

 ふたたび将棋で例えるなら、物語の描き手って奴は、将棋盤を挟んで対局するふたりの棋士、その両方の立場をひとりでこなす役なのだ。

 そしてストーリーとは、その対局における棋譜のことだと言っていい。

 読み手の立場は言うまでもなく、それを楽しむ観客サイドだ。

 想像してもらいたい。

 両方の差し手役をやってる描き手の側が片一方に過度な肩入れを行った時、果たして観客の側、つまり読み手の側は、その対局自体を心から楽しめるだろうか?

 差し手の側のどちらかがゲームの中のルールを無視し、圧倒的に有利な戦況を盤上に描いた時、読み手の側は、果たしてその対局を受け入れるだろうか?

 おそらく答えは「No!」だと思う。

 定められたゲームのルールを勝手気ままにスルーする、いわゆるチート行為っていう奴は、やってる側こそ楽しいだろうが、やられた側はたまったもんじゃない。

 見ている側だって、たぶんそうだ。

 ゲームの推移を楽しんでいる観客が、日和見の展開に面白さなんて感じるわけない。

 俺は自分なりの解釈を加えつつ、岡部のオヤジの言葉を呑んだ。

 観客=読者の満足を得るためには、腰の落ち着いたバックボーンに支えられたワールドと、十分に必然性のあるストーリーとが必要なのだ、と。

 そしてそこで求められているリアリティーとは、読み手の側が等しく共通認識する、揺るぐことない将棋の駒の性能なのだ、と。

 都合よくぶれるな。

 作者とは、絶対権力を持つ調停者でもあるのだ。

 それらをわかりやすく自己消化した俺は、おのれの柱に座右の銘を刻み込んだ。

 言葉にすれば他愛ない、至極もっともな話である。

 だが面と向かって説かれるまで、俺はそいつに気付かなかった。

 自分の未熟を思い知ると同時に、教えを垂れる指導者というもののありがたさを、痛いくらいに噛み締めてしまう。

 ふと唐突に、ジムカーナのことが頭に浮かんだ。

 そう言えば俺、誰かからジムカーナの技術を教えてもらったことってなかったよな──…

 いつまでも我流のままでは駄目なんだ。

 そんな思いがひとたび心をかすめてしまうと、今度は急に、そっちクルマのほうでも指導者役が欲しくなる。

 俺みたいな未熟者グリーナーがレベルアップを果たすには、やっぱり鍛えてくれるトレーナー役が必要だ。

 それも、岡部のオヤジと同じように、無手勝流の俺を叱って世界のルールを叩き込む、そんなとびっきりのトレーナーって奴が。

 だが、いざそう考えて自分の周りを見渡すと、そういった役に足る人材は、ひとりたりとも見当たらなかった。

 まあ思い返せば、そういうのもあたりまえといえばあたりまえの話だ。

 なんといっても運転免許をとってこの方、この俺にクルマ関係の友人知人など出来た試しは一度もないのだ。

 当然だろう。

 「やまの走り屋」だった時分の俺は、誰彼構わず噛み付くような、危険人物として認識されてたのだから。

 クルマに絡んだ敵手はいても、仲間と呼べるだけの人間は、ひとりだっていないはず。

 そんな奇妙な自信で胸を張れる、それっくらいの状況だった。

 あーあ……

 心の中で嘆息する俺。

 どっかにいねえかなァ、俺の「師匠」になってくれそうな腕っ利きのドライバー。

 少しぐらいの授業料なら支払ってもいい。

 それなりの技術テク持ってて、個々の問題点を洗い出せるくらいに頭よくって、ついでに言えば、俺みたいなのひねくれ者とでもガンガン意見を交わせるような、そんな実力派のジムカーナ選手スラローマー──…

「いるわけねえよなァ」

 無意識のうちに独り言が漏れ出す。それは半ば以上、諦めの言葉に近かった。

 目線が薫子のほうを向いたのは、ちょうどそんなおりのことだ。

 よいしょとばかりに組み替えられた奴の美脚が、俺の注意を誘ったのである。

 黒いストッキングに包まれた、目を惹き付ける魅惑の曲線。

 大きな声では言えないが、魔戦将姫カオルゥを作画した時、再現に一番神経を使わされたパーツでもある。

 それを認めた俺の口から、畜生、と新たな愚痴がこぼれ出た。

 俺にも「ガロー」みたいな展開が訪れりゃいいのに、と妄想世界に逃げを打つ。

 ピンチのおりの予期せぬ援軍。

 まさにカオルゥみたいな助太刀が、いまの俺には必要なんだよ。

 この際だから贅沢は言わない。

 その立ち位置が敵でもいい。

 「仲間」と呼べない相手であっても、要求性能さえ満たしてくれれば、いっさい文句を付ける気はない。

 もし条件として出されたのなら、喜んで土下座だってしてやるぜ!

 だから、ぜひとも現れてくれ!

 スラローマーとしての俺を導いてくれる、腕っ利きのドライバーよ!

 それはまったく俺らしくない、完全無欠の神頼みだった。

 しかしこの時の俺は、そんなことさえしでかしてしまうほど、心理的に追い詰められてたのである。

 突如として目の前に立ちはだかった、現実という名の分厚い障壁。

 こいつを突破しないことには、先を目指すための道筋が欠片も見えてきそうになかった。

 視野狭窄とは、よく言ったものだ。

 客観的に事態を探れば、解決策なんて、たぶん無数に見付かっただろう。

 ひとつの思い込みに囚われたまま自分の枠を狭める行為は、端的に言っても悪手のそれだと断言できる。

 だが今回に限って言えば、そんな無様な視野狭窄が俺の活路を開いてくれた。

 光り輝く天啓が、悩み悩んだ俺の頭上に天使のごとく舞い降りてきたからである。

 いや待てよ。

 なんの脈絡もなく俺は気付いた。

 スラローマーとして俺を導いてくれ腕っ利きのドライバーなら、すぐ近くにひとりだけいるじゃないか!

 こちらに向かって苦言を呈するぽてっと厚めの唇が、記憶の底から蘇ってきた。

 そいつを何度も確認しつつ、俺は歓喜の笑みを浮かべる。

 もちろんそいつは仲間じゃない。

 それどころか、むしろ敵と評していいくらいの存在だ。

 でも、それでも奴は、俺の望んだ条件を完全無欠に満たしてる!

 そうとも!

 奴は間違いなく、それなりの技術テクを持ってて、個々の問題点を洗い出せるほどに頭がよくって、ついでに言えば、俺みたいなのひねくれ者とでもガンガン意見を交わせるような、そんな実力派のジムカーナ選手スラローマーなのだ!

 だとしたら、いまの俺がやることはひとつッ!

 そう、たったひとつしかないじゃないかッ!

 全身を雷に打たれたみたいに振るわせた俺は、次の瞬間、飛び跳ねるようにして行動を開始していた。

 長いスカートをばたつかせ、砲弾みたいに目指す地点へ突き進む。

 それは、たった数メートルしかない疾走距離だった。

 しかし俺は、そのわずかな距離を走る時間で、すべての覚悟を完了していた。

「薫子ッ!」

 突然のことに目を丸くするあいつの真下で、俺はコンクリートに額を押し付け思いの丈を発露した。

「この俺に、ジムカーナを教えてくれッ!」

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