第七話:作家殺すにゃ刃物は要らぬ

 その日、俺が「トレジャー・レーシングサービス」に足を運んだのは、実のところ完全な気紛れからだった。

 次回分の原稿をほぼ予定どおりに描きあげ、あとはそいつを編集部あてに郵送するのみとなった俺は、途中でちょっと足を伸ばし、愛車のメンテナンスを行うべく同店を訪れたのだ。

 ただし、俺の「パルサー」が不調を訴えていたわけではないし、消耗品交換の時期がきたというわけでも別段なかった。

 店に顔を繋ぐため、と言ってしまえば、まさしくそのとおりの動機と言えた。

 前回同様、勢い良くひと言あいさつして事務所の門を潜る。

 カウンターの向こう側に悟さんの姿は見えなかった。

 ガレージのほうかな、と思った俺は、小脇に抱えた大事な原稿──まだ封をしていないひも付き封筒に押し込んだケント紙の束を、無造作にカウンターの上へと放り出した。

 いったん事務所の外へ出て改めてガレージに向かうと、予想どおり、悟さんは、奥で散乱気味の荷物を整理しているところだった。

 メーカーの名前が記された大小さまざまな段ボール箱を見た俺は、「この店、結構繁盛しているんだな」なんて、失礼ながら思ってしまった。

 まったく、何事も見た目だけではわかんないものだ。

「こんにちは」

 ちょっと遠目に俺のほうから声をかけると、悟さんは笑顔を浮かべて振り返り、「いらっしゃい」と、ありきたりな返事を寄越した。

 ぱたぱたとこちらに向かって歩み寄り、「先日は、うちの妹が迷惑かけて申しわけありませんでした」と、面と向かって頭を下げる。

 こうもまっすぐな応対をされては、誰だって強く文句は言えないだろう。

 良いクレーム対応のお手本みたいな仕草だった。

 湧き上がる好感を意識して押し止め、俺は単なる客として、愛車のオイル交換を悟さんにお願いした。

 エンジンオイルのほうだ。

 よくよく考えるまでもなく、ここ「トレジャー」にとって俺は、完全無欠なDQN客だった。

 初来店であれだけのいざこざ──まあ、悟さん本人との絡みではないにしろ──を演じたにもかかわらず、客としてびた一文落とすわけでないとなると、やはり常識的には問題ありだと言わざるを得ない。

 だから今回、本当なら不要なオイル交換をこちらから願い出たのは、前回のお詫び的な意味合いを込めてのことだった。

「銘柄はどうします?」

 ちょっと砕けた口振りで、悟さんが俺に尋ねた。

 これまでの俺は、走行距離五千キロごとにエンジンオイルを交換していた。

 場所は近くのディーラーで、使っているのはメーカー指定の純正オイルだ。

 説明書に書いてあるとおりの手続だった。

 だから俺はそいつに疑問を感じることもなかったし、「パルサー」のエンジンも、そのことで不平を述べたりしなかった。

 俺は素直に、その旨を悟さんに告げた。

 すると彼は、ちょっと考える素振りを見せたあとで別の選択を勧めてきたのだった。

「もしよかったらだけど、スポーツ走行用の化学合成オイルを使ってみませんか?」

 解説を交えながら悟さんが語るところによれば、街乗りなんかがメインなら純正オイルであっても問題ないけど、俺みたいにやまをガンガン攻めたりする人間なら、高回転に対応したそれなりのオイルにしたほうがいい、とのことだった。

「安いオイルには、やっぱり安いなりの理由があるんだよ」

 じっくりと咀嚼した内容を、悟さんは語る。

「特にエンジンをぶんまわして油温が高くなった時、それに対応したオイルのほうがエンジン保護に関して優秀だから、安心して踏んでいくことできる。摩擦係数が低くなるから、当然、エンジンの回転も滑らかになるしね。いささか値は張るけど、その分の効果は確実に感じられるはずだよ」

「じゃあ、そいつでお願いします」

 俺は、ふたつ返事でそう答えた。

「できれば、薫子──じゃなかった、妹さんのインテグラが使ってるのと、同じところが作った奴で」

 商売人としての悟さんを疑ったわけじゃないけど、自己保身も交えて、俺はそんな風に要求してみた。

 このあたりの知識に乏しい俺にとって、詳しいオイルの性能なんてわかるはずもなかった。

 だから、「悟さんの身内である薫子、その愛車が用いているのと同じ会社の製品であれば、大きく間違いが生じることもないだろう」なんて、せこい考えを抱いたのだ。

 薫子の「インテグラ」が使っているエンジンオイルは、「ニューテック」という会社の製品だった。

 その売り文句は「コストカットよりも高品質」というもので、なるほど悟さんの説明を聞いている限り、なかなか良さげな雰囲気が漂う。

 悟さんが推薦したのは、そのラインナップの中でも粘度が硬めの製品だった。

 理由は、薫子の「インテグラ・タイプR」が搭載するB-18Cエンジンと違って、俺の「パルサーGTI-R」のSR-20エンジンが過給機ターボを装備した大出力・大トルクエンジンであるからだ。

 「大出力エンジンには硬めのオイルを使用する」ってのは、巷でよく聞くセオリーだった。

 硬いオイルは燃費に悪影響を及ぼすけれど、その一方でエンジン保護の性能には優れている。

 パワーがあるエンジンはどうやっても痛みやすいし、やはりオーナーがいろいろと気遣ってやらないといけない。

 さすがの俺もそれぐらいは最低限の知識として持っていたから、専門家である悟さんの薦めに異議を唱えるような真似はしなかった。

 数分後。

 リフトアップされていく「パルサー」をぼけっと突っ立って眺めながら、俺は、ふと思い付いた質問を悟さんに向かって投げかけていた。

「薫子──その、悟さんの妹さんって、いったい何やってる人なんですか?」

「気になるかい?」

 仕事をする手をいったん止めて、悟さんは俺に応じた。

 車体の陰から顔をのぞかせ、何やら意味ありげな笑みを浮かべる。

 いたずらっぽい笑顔。

 どこか薫子のそれに似ている。

 なるほど確かに兄妹だ、と、俺は独りで納得した。

「い、いや、別にそういうわけじゃ」

 心中を邪推されているように感じて、俺は、彼の疑問符を否定した。

 でも悟さんは、「照れない、照れない」と片手をぷらぷら振りながら、なおも言葉を続けてくる。

「兄貴の俺の目から見ても、は本当に『いいオンナ』だからね。君ぐらいの年齢だったら、まあ興味を持っても仕方がないよ」

 俺は、あえて反論しなかった。

 半分とまでは言わないが、三分の一程度はその内容が真実だったからだ。

 それをきちんと察したものか、悟さんの口元が、次第にさらなる綻びをみせる。

「ああ見えても、実は女医さんなんだ。大学病院の産婦人科。研修医時代までは、この俺のほうが生活の面倒見てやってたはずなのに、いまじゃ、あいつのほうが何倍も稼ぎがいいくらいさ。最近、産婦人科医ってのは人手不足らしいからね」

「へえ」

 それを聞いた俺は、妙な感嘆符を口にした。

 意外といえば意外だった。

 こう言ってしまえば身も蓋もない話なんだけど、俺はどこかで彼女のことを、「オンナを売りにしている職業に就いているんじゃないか」と、思っていたのだ。

 水商売や、ある種の接客業、もしくは、さらに特殊な意味合いの──…

 もちろん、そこにわずかばかりの悪意が含まれていたことを否定はしない。

 とはいえ、悟さんの発言を嘘くさいものだと感じることも、またできなかった。

 アニメや漫画に登場する「年上の美女」

 その最右翼のひとつである「艶っぽい女医」というイメージに、あいつの姿形がぴたりとマッチしていたからだ。

 そんな俺の反応を楽しそうにうかがいながら、悟さんは発言を続ける。

「ずっと苦学生やりながら必死の思いで学校を出て、ようやく掴んだ栄光の道だよ。もともといいところのお嬢さんなんだから、本当なら、こんなに苦労する必要もなかったはずなんだけどな」

「本当なら──って」

 ふと彼がもらした一節が気になった俺は、不躾な質問を彼に飛ばした。

 あるいは尋ねてはいけない内容だったのかもしれなかったけど、この時ばかりは、好奇心が自制心をはるかに上回ってしまっていた。

「何かあったんですか?」

「う……ん、いや、まあ、そうだな」

 悟さんは言葉を濁しながら、結局は何も答えてはくれなかった。

 しまった、とでも言いたそうな彼の顔付きだけが、どういうわけか印象に残った。

 そうこうしているうちに、甲高いエキゾーストノートが遠方から轟いてきた。

 ホンダご自慢のV-TECエンジンが奏でる、数寄者にとってはたまらない、最高級のミュージックだ。

 間違いない。

 あれは、薫子の「インテグラ」から放たれたものだ。

 シフトダウンを繰り返しつつブレーキングしてきた白い「インテグラ・タイプR」は、前回と同様、ゆっくりとした足取りで駐車スペースへと進入を果たす。

 奇しくも、その停車位置は、俺の「パルサー」が停まる真横。すなわち、この間とまったく同じ場所だった。

 愛車から降り立った薫子は、ガレージにいる俺たちには気付かず、そのまますたすたと事務所の中へと消えていく。

 なぜだか俺も、その背中を追うようにして、いまいる場所をあとにした。

 あの高慢ちきな美人顔を目にすると、ムラムラと不埒な欲望──じゃなくって、メラメラと熱い戦闘意欲が湧いてくるから不思議だ。

 俺が事務所の扉を開けたのは、それから十秒ちょっとあとのことだった。

 そこで展開されていた光景を目の当たりにした俺は、思わず「あっ」と声を上げた。

 カウンターの前に立つ薫子が、手に持った白いケント紙の束をぺらぺらとめくっていたからだ。

 それは、カウンター上に置きっぱなしにしていた俺の大事なナマ原稿だった。

 監視もせずに放っておいたそいつを、あろうことか薫子に発見されたのだ!

 なんてこった!

 背筋の真ん中を、冷たい汗が流れ落ちる。

 俺は、自らの不用意さを心の底から後悔した。

 いや、それが普通のナマ原稿であるなら、俺もここまでの戦慄は覚えなかっただろう。

 だがあの原稿は、いわゆるひとつの「エロ漫画」だ。

 しかも、いまそれを読もうとしている人物は、作中で激しく凌辱されているキャラクターのモデル、そのひとなのである。

 扉を開けて入室してきた俺の姿を肩越しに認めて、薫子はにやりと笑った。

 嫌な予感が最大デシベルで駆け上がる。

「この漫画、圭介くんが描いたんでしょ?」

 振り向きざま、薫子は俺に尋ねた。

 そして、答えを待つことなくふたたび口元を歪めると、すっと小さく息を吸い込んだのち、手に持った原稿を声に出して読み上げ始めたのだった。

 作家殺すにゃ刃物は要らぬ。むかしの作品あればいい。

 こいつは、俺たち創作家の間じゃ、割と真実に近いと考えられている戯れ歌だ。

 確かに、経験を積んで明らかな上達をみせたいま現在を、その道に踏み込んだばかりの稚拙な初心者時代と並べた場合、後者の存在から目を背けたくなるっていう心情も、十分以上に理解できる。

 でも、そいつを自分の足跡として素直に受け止めさえすれば、少々の気恥ずかしさこそ感じても死ぬほど恥ずかしさには至らないってのが、まあ俺の抱いていた感想だった。

 温い。

 温い。

 まったくもって温すぎる!

 そんな程度の出来事じゃあ、まだまだ作家サマを「殺す」だけの破壊力を持っているなんて言えやしない!

 俺は、その事実をいま、身に染みて思い知らされていた。

 そう。

 刃物を使わず作家を、いや俺のような「十八禁作家エロ漫画家」を殺すには、それよりもはるかに有効な手段がある。

 そのことを、俺はいま、我が身をもって味わう羽目に陥っていた。


 ◆◆◆


「くッ……見事だ、剣士ガロー。よもや、これほどの実力とは思ってもみなかった。あたしの負けだ。さっさと止めを刺すがいい」

「残念だが、その希望を叶えてやることはできんな。俺には、女を殺す趣味はない」

「なんだとッ! 貴様、上級魔族であるこのあたしに、生き恥を晒せと言うのかッ!」

「生き恥か……そうだな、そのとおりだ。おまえには生き恥を晒してもらう。これから、たっぷりとな」

「な、何をするッ! 貴様ッ!」

「言うまでもない。味わわせてもらうのさ。その上級魔族の身体とやらを。力尽くで相手の意志を蹂躙すること。そいつは、おまえたち魔族の専売特許じゃない」

「やめろ、痴れ者ッ! それでも貴様、誇りある戦人いくさびとのつもりかッ! 恥を知れッ!」

「なんとでも言うがいいさ。だが俺は、おまえたち魔族が憎い。だから命を奪う代替えとして、おまえの『オンナ』を、その『魂』を折る。この俺自身の『オトコ』でな!」


 ◆◆◆


 坊さんの読経にも似た抑揚のない話し口で、延々と薫子の朗読が続く。

 早い話が「棒読み」って奴だ。

「返せッ! 返せったら!」

 必死に伸びる俺の両手を軽々といなし、薫子は頭上に掲げたナマ原稿、その台詞と擬音とを、拾い上げつつ口ずさむ。

 物理的なことから言えば、俺がこいつの手から大事な原稿を奪回することは容易いことだった。

 もっとがばっと接近してその華奢な手首を捕まえることさえできれば、さすがに男女の腕力差でどうにでもなる。

 そのはずだった。

 だが、あろうことかそのためには、俺が薫子と文字どおり「密着」することが必要だった。

 こう、お互いの胸と胸とをぴったり擦り合わせるようにして──…

 いかん!

 俺は、そのことを考えるだけで赤面しそうになる自分自身を発見した。

 眼前でこれでもかとばかりに存在感を主張する薫子の「巨乳」

 そいつをいったん意識してしまうと、先日夢の中に現れたこいつの痴態がどうしても思い出されてしまうんだ。

『いらっしゃいな、童貞少年チェリーボーイ

 そんな艶めかしい台詞までもが、まざまざと脳内に蘇ってきた。

 この状態で、いかに衣服越しとはいえあの「女性の象徴おっぱい」に接触するとなると、若さ溢れる俺の愚息マイ・サンは、まず間違いなくメタモルフォーゼしてしまう。

 そしてその事実は、やはり衣服越しに俺と密着している薫子の、嫌でも知るところとなり──…

 ぐああッ、それこそ最悪の結果ではないかッ!

 その黙示録的結末アポカリプス・ナウを回避するためには、薫子との間合いをそれなりにとらなくてはならなかった。

 そう、俺に選択肢なんて初めからなかったんだ。

 たとえ、そのことが原稿奪回作戦の成否に真っ暗な影を落とすことに直結したとしても、だ。

 俺の悪戦苦闘を尻目に、薫子の朗読は、いわゆる「年齢制限」のかかるべき場面へと差し掛かった。

 だが、こいつの口が閉じる気配はまったくない。

 ま、まさか、公の場でそれを声に出して読むつもりなのか?

 もしかしたら、その直前で遠慮してくれるのでは、と考えた俺の浅慮は、極あっさりと踏みにじられた。

 薫子は、作者であるこの俺が決して一般人に晒したくはない「オトナの絡み」にもいっさい躊躇することなく、実に平然とした顔付きで音読みに取りかかっていく。

 この時、俺に対する「公開処刑」は、文字どおり開始されたのだった。


 ◆◆◆


「あッ! んあッ! あッ!」

「そらそらどうした? 大言壮語を吐いてた割には、随分といい声で啼くじゃないか。どうやらおまえは、この奥のあたりが弱いらしいな。そらッ!」

「ああァッ!……あ、あたしを辱めて、それで満足か? そんなことで、おまえのプライドは、満たされるのかッ!?」

「ほう。これだけの責めを受けて、まだ音を上げないとはたいしたものだ。さすがは上級魔族。並みのオンナなら、とっくのむかしに気を失ってる。が……それもそろそろ限界かな。どうだ、魔戦将姫? 憎むべき敵の手で、天国に運ばれる気分は?」

「ぐッ! うぐぅッ! かはッ!」

「言ったはずだ。おまえの『魂』をへし折ると。俺のプライドなどは関係ない。おまえたち魔族が蹂躙してきた弱き者たち。それらが味わった屈辱と恥辱を、いまこの場で思う存分噛み締めるがいい!」

「あッ! あッ! あッ! こ……こんな格好でなんて……このッ! このッ! ケダモノめェッ!」

「はッ、ケダモノなのは果たしてどっちだ? 尻を突き出したその格好で何を言っても説得力がないぞ。まったく。上級魔族が聞いて呆れる。まあいい。ケダモノはケダモノらしく、ケダモノのポーズでイかせてやろう。自分の立場というものを、たっぷりとわからせてやろう。安心しろ。おまえがイく時は、この俺も、きっちり付き合ってやるからな」

「ッ! おまえ、まさかこのまま膣内なかで……あ、あ、あ、や、やめ……いやッ! ダメッ! ダメッ! ダメッ! 絶対にダメェッ!! おまえの子供なんか産みたくないッ! 産みたくないッ! いやッ! やめてッ! お願いッ! 外にッ! 外にッ! お願いッ! やめてッ! やめてッ! やめてッ! あ、あ、あァーッ!!!」


 ◆◆◆


「で、どっくん、どっくん……と」

 薫子がまるっきし投げやりな言葉尻で語りをやめるのと同時に、スペイン宗教裁判にも似た俺への凌辱も、また一応の終末を見た。

 最後の瞬間まで大事な原稿を奪い返そうと尽力していた俺の両腕から、すっと力が抜けていく。

 作戦失敗。

 それは、断頭台ギロチンの刃が落下した瞬間だった。

 おそらくは顔中を真っ赤に染めて半分泣きそうになっていたであろう俺を薫子は上から見下ろし、に~っといたずらっぽく歯を見せて笑った。

「避妊もしないで遠慮なくっていうのが実に童貞少年らしい妄想だけど、キャラクターとかは結構上手く描けてるじゃない。あたし、好きよ。君の絵柄」

 こいつから投げかけられたその言葉は明らかに賞賛の意を持つものだったが、不幸なことにそれは、俺にとってなんの慰めにもならなかった。

 歪んだ表情のまま凝固して、本当に微動だにしない俺。

 そんな俺の態度に直面した薫子の表情が、ほんのわずかに曇りを見せた。

 よく観察していないと気づかないほど微妙な変化だったけど、その顔付きには、紛れもなく「ばつの悪さ」が浮かびあがっていた。

 少なくとも、俺はそれを感じ取っていた。

 だからなのだろうか。

 薫子は、自らが浮かべた笑顔の種類を、ふっと一瞬のうちに変化させた。

 いたずら好きな小悪魔のそれから、やんわり優しげな女神のそれに。

 ルージュを引いた厚めの唇がおもむろに開く。

「偉いぞ。頑張ってるんだね」

 そう短く告げて薫子は──「こいつにだけは絶対自作を見せたくない」と思っていた人物は、手に持った生原稿の束で俺の頭頂をぽんと打った。

 その時はそう感じられなかったけど、実のところ、俺はこいつから本気で誉められていたのかもしれなかった。

 「ただ」と薫子は続ける。

「あたしをモデルにするんなら、その前にひと言欲しかった気がするかな。ましてや、そのキャラクターがレイプされちゃうなんて場合は特に」

「わ、悪かったよ」

 薫子の顔を直視できず、俺は目を背けながら、差し出された原稿用紙を受け取った。

 一応だが、謝罪の言葉も口にする。

 その意味をまっすぐ受け取ってくれたものか、薫子は、満足そうな表情を崩さずにカウンター席へと腰を下ろした。

 黒いストッキングに覆われた見事な脚線美が、俺を挑発するようにして交差された。

 心臓の鼓動が高まったのを自覚する。

「圭介くん」

 そんな俺の名を呼び、薫子は言った。

「今度のG6、君も来るんでしょ?」

 その問いかけに、思わず「え?」と疑問符を掲げる俺。

「それ、確か申し込みは締め切られていたんじゃ」

「莫迦ね。参加じゃなくって見学よ」

「見学?」

「そうよ」

 並んで腰を下ろした俺に向け、薫子は、弾むような口振りでこう告げる。

「君、ジムカーナやるのは初めてなんでしょ? だったら一度は実地で見ておいたほうがためになるわよ。パソコンの動画じゃ感じられないものが、そこにはきっとあるはずだから」

 見学か。

 こいつに言われるまで、そんなことは考えてもみなかった。

 だが、確かにそれは一理ある。

 未経験分野に挑戦しようとする人間にとって、その情報を肌で感じられる機会って奴は、マジに得難いものだろうからだ。

「もちろん行くさ」

 俺は即断し、そして答えた。

 もっともそいつは、半分以上が強がりから出た言葉だった。

 それを聞いた薫子の目尻がはっきりと緩む。

 頬杖をつきながら、にやっと笑ってこいつは言った。

「じゃあ、その時にお願いしようかしら」

「何をだよ」

「あたしね、おいしいお肉をお腹いっぱい食べたいな~って思ったの」

 それは、先ほど口にした俺の謝罪、その具現化を求める言葉に相違なかった。

 ぐッ、と小さく息を飲みながら、俺は薫子の要求を全面的に受け入れた。

 それは、こいつをモデルにした「魔戦将姫カオルゥ=コー」が蹂躙された背景に、俺の抱いた個人的感情が存在していたからだった。

 もし、薫子を模した「カオルゥ」というキャラを登場させたことについて非があるとするなら、それは一方的に俺の側にある。

 その点についての異論はなかった。

 だからこそ、薫子の意向をはねつけるなんて真似は、俺のちっぽけなプライドが許さなかった。

 当の本人にその原稿を読まれたあととなっては、なおさら筋が通らない話だとも思った。

 俺は薫子に告げた。

「焼き肉食べ放題プランにドリンクおかわり無制限付で手を打たないか?」

「妥当なところね」

 大きく頷きながら薫子は答えた。

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