村上春樹風昔話『桃太郎』
村上はがす樹
第1話
台所でスパゲッティを茹でながら、桃太郎は名前が人生に与える影響について考えていた。言語の違いや同姓同名の場合はあるにせよ、すべての人間はその肉体を表す固有記号として、例外なくひとつの名前を持っている。肉体と名前は密接につながりあい、一生離れることはなくその人生を全うする。肉体が死ねば名前も消滅し、名前が消滅することは肉体が死ぬことを意味する。まるで、宿主と寄生生物みたいに、肉体と名前は共依存の関係を築いている。
彼は物心ついた頃から、常に自らの名前のことで悩まされてきた。世にも珍しい名前を持つ桃太郎は、多くの日本人がそうであるように、同調圧力というものを何よりも重んじるクラスメート達にとって、格好のいじめの標的だった。桃太郎はそのことで、自ら死ぬことすら考えていた。きっと彼が普通の人間であれば、つまり男女の性行為による授精によって生まれた生命体であれば、あるいは自ら命を断つことも可能であったかもしれない。しかし、彼は死ぬことが出来なかった。桃太郎は、クラスメートを始めとする通常の人間とは根本的に異なっていたのだ。彼の体は、一般的な十代の男性に比べて遥かに頑丈にできていた。例えば、桃太郎はナイフで自らの手首を切りつけても痛みを殆ど感じることはない。さらに、その傷は驚くほどの早さで癒えてしまう。また、彼の腕力は男子中学生の平均を遥かに超えるものであり、プロレスラーが五人がかりで持ち上げるような大きな丸太を、一人で軽々と持ち上げ、運ぶことが出来た。彼は明らかに特別だった。しかし、それは桃太郎が望んで得たものではなかった。彼は普通の名前で、普通の体で、普通の人生を歩みたかったのだ。
桃太郎はパスタを鍋から櫛で引き揚げ、そのうちの一本をつまんで味見をした。そして、子気味のいいアルデンテに茹で上がっていることを確認した後、三枚の皿にパスタを均一に盛りつけた。おじいさんと、おばあさんと、そして桃太郎の分のパスタだ。ハカリで測ったみたいにきっちり3等分に分けないと、桃太郎はあとで酷い目に遭うのだ。彼はパスタ皿を三枚並べて様々な角度からそこに盛られた分量が平等であることを確かめた後、予め別のフライパンで作っておいたひき肉と茄子のミートソースをかけた。
桃太郎が台所のテーブルにスパゲッティ・ミートソースを置くのとほとんど同時に、奥の居間からおじいさんとおばあさんがゆっくりと台所に入ってきた。そして、まるで一仕事を終えたロボット掃除機みたいに、入口から最短距離でそれぞれの所定の場所に移動し、静かに腰を降ろした。正方形のテーブルの上辺にあたる部分がおばあさん、底辺の部分が桃太郎、そして右の側辺がおじいさんという席順だ。物質に万有引力が存在するのと同じように、桃太郎が物心ついた頃から、この席順は不変のものだった。
「ねぇ、おばあさん」桃太郎は言った。おばあさんは寝床で蚊の羽音を聴いたみたいに、怪訝そうに顔を上げた。「どうして、おばあさんは僕に桃太郎という名前を付けたの?」
「桃から生まれたからだよ」おばあさんは抑揚のない声で言った。
「だけど、必ずしも生まれた状況を名前の由来にする必要はないはずだよ。例えば、翔とか智樹とか、そういったありふれた名前にすることも出来たはずなのに」
「黙って食べなさい」おばあさんは言った。桃太郎は黙った。
おじいさんとおばあさんは、その後、一言の言葉も発することなく目の前のスパゲッティ・ミートソースを見つめ、ゆっくりとフォークに巻きつけてから、まるで未知の食材を食べるみたいに口に入れて咀嚼した。桃太郎はその様子を、文字通り固唾を呑んで見守っていた。胃が締め付けられ、朝飲んだコーヒーの匂いが喉の奥まで登ってくるのを感じた。おじいさんとおばあさんは、まるで桃太郎の存在を忘れてしまったみたいに、黙ってスパゲッティを食べた。まるで廃墟の柱みたいに乾いた唇からクチャクチャという二つの咀嚼音が発せられ、不可解なリズムを刻んでいた。やがて、二人は表情を変えること無く二口目をフォークに巻きつけ始めた。桃太郎はほっとため息を付き、自分の分のスパゲティに手を付けた。パスタの湯で具合が少しでも気に入らないと、おばあさんはひどく怒るのだ。今日の夕食の出来は、少なくともおばあさんを怒らせる程度の酷さではなかったみたいだった。しかし、それがかろうじて及第点というレベルなのか、あるいは完璧なアルデンテであったのか、おばあさんの表情からは読み取ることは出来なかった。しかし、桃太郎にとってそれはどうでもよいことだった。桃太郎は美味しいパスタを作るためではなく、おばあさんに叱られないために毎日料理をしていた。彼にとって、完璧なスパゲティ・ミートソースを作る技術などまるで意味のないものだった。その日その時におばあさんに叱られるかどうかということだけが、桃太郎の人生の構成要素の全てだった。彼は、将来どころか、明日の生活のことすら考えることができない。
「お前は桃から生まれたんだよ」何の前触れもなく、おばさんは言った。「いいかい、お前が生まれた日、わしは川へ洗濯に行ったんじゃ。寒い寒い雪の日じゃった」彼女はスパゲッティを食べる手を止め、テーブルの上のただ1点を見つめながら、ゆっくりと話し始めた。
「わしが川で洗濯をしていると、川上から、大きな桃が、どんぶらこ、どんぶらこと流れてきたのじゃ。わしはひどく驚いた。何せ、わしの身長ほどもある、大きな大きな桃だったのじゃ。わしは無意識にその桃を掴んで、川岸に引き上げた。なぜそんなことをしたのか、自分でもよくわからん。しかし、その桃にはその大きさ以外にも、何かしら人の興味を引く魅力、あるいは魔力のようなものがあったのじゃ。わしはその桃を担いで家に持って帰り、おじいさんの帰りを待った。おじいさんは山へ柴刈りに行っておった。まったく、いつも肝心なときにおらんのは、じいさんの昔からの悪いところじゃ」
おばあさんは深い咳をして、上着のポケットから取り出したチリ紙の中に痰を吐いた。そしてそれをしばらく眺めてから、再び上着のポケットにしまった。桃太郎はおばあさんの上着のポケットの中が一体どうなっているのか気になったが、それについては考えないことにした。おばあさんは続けた。
「三十分ほどして、おじいさんが帰ってきた。わしはその間、台所で包丁を研ぎながらじいさんの帰りを待っておった。家にある一番大きな包丁じゃ。包丁の刃は砥ぎ石に撫でられる度に、薄く、そして鋭くなっていった。あの包丁なら、きっとキリンの首だって一振りで落とせたじゃろう」おばあさんは膝をパンと叩いた。「そして、じいさんと一緒に桃に切り込みを入れたんじゃ。桃の表面に包丁の刃を当てるだけで、ほとんど力を入れずとも桃は真っ二つになった。丁度、巨大な定規でノートに直線を引くような感じじゃ。そして、その桃からお前が生まれたというわけじゃ」
桃太郎はまるで潮干狩りでアサリを探すみたいにパスタ皿から茄子の輪切りを一切れ選り、フォークの先に突き刺して食べた。おばあさんの昔話は、まるでドイツの鉄道みたいにいつも同じ調子で進んでいく。桃太郎はこれまでに何度も同じ話を聞かされたので、おばあさんの話を一言一句違わず暗唱することだって出来る。
「僕が桃から生まれたということは分かったよ」桃太郎は言った。「でも、それが桃太郎という名前をつけた根拠だとするなら、人のお腹から生まれた赤ん坊はみんな子宮太郎という名前じゃないとフェアじゃない」
「黙って食べなさい」おばあさんはピシャリと言った。桃太郎は黙った。
やはり僕は生まれて来るべきではなかったのだ、と桃太郎は思った。大きな桃に揺られて誰にも拾われずに川上から海まで流れ着いて、そのままサメの餌にでもなったほうが良かったのだ。そうすれば、名前のことで思い悩むこともなかったし、鬼退治にも行かなくて済む。
「また、学校で何か言われたんだろう」おじいさんが言った。
「別に、何もないよ」桃太郎は嘘を付いた。
「お前は、体も丈夫で力も強いのに、とにかく気が弱い。名前のことでお前をからかうような奴は、一発殴り飛ばして黙らせてやればいいんだ」
桃太郎は黙って口元をチリ紙で丁寧に拭いた。ティッシュに付いた赤いミートソースは、先日クラスメートがふざけて桃太郎の頬を金属バットで殴った時の、口の中にゆっくりと鉄の味が広がるような感覚を思い起こさせた。彼をからかう奴を殴り飛ばすには、学年の男子を全員、校庭に整列させる必要がある。そして、桃太郎が力いっぱい顔を殴るとクラスメートの頭部はまるで針を刺された水風船みたいに、跡形もなく吹き飛んでしまうだろう。力というのはある一定のレベルを超えると無力であることと同義となるのだ。
パスタを食べ終えた桃太郎は、グラスの水を飲みながらおじいさんとおばあさんが先ほどまでいた居間の様子を眺めていた。居間には、桃太郎のためにたくさんの調度品が仰々しく並べられていた。桃色の地に銀の刺繍の入った立派な晴れ着、長くて重い家宝の刀、そして腰から下げるための丈夫な巾着袋。桃太郎はその晴れ着を着て、刀を右側の腰に、そして左側の腰に巾着袋を下げて旅に出る様子を想像しようと努めたが、うまくイメージすることができなかった。桃太郎はため息をついた。
「ねぇ、おばあさん」桃太郎は言った。「どうしても、鬼ヶ島に行かないとダメ?」
「ダメだ」おばあさんは言った。「お前は明日から鬼ヶ島に行って、鬼退治をするんだ」
「でも、鬼は鬼ヶ島で静かに暮らしているだけかもしれない。人に危害を加えていないかもしれない」桃太郎はできるだけ冷静に言った。「どうして僕は鬼を退治しなくちゃいけないんだろう?」
「桃太郎だからだよ」おばあさんは言った。「桃太郎はきびだんごを持って、鬼退治に行く。昔からそう決まっているんだ」
桃太郎は諦めて、食べ終わった皿を流しに持って行って洗った。おばあさんと議論して勝ったことなんて、これまで一度もないのだ。
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