四章⑧ 親子
※
「ふんっ、ぬぬぬ……こんのぉおおお!」
何なのよ! 突然潜望鏡は見えなくなるし、フロストの声は聞こえなくなっちゃうし。流石に視界が利かない中で銀河号を運転したり、大砲を撃ったりなんか出来ない。状況を訊こうにも、ヘッドフォンからは応答が無い。
こうなったら、と思ってこの状況。操縦席は狭くて、小柄なミカでも思う通りには動けない。出入り口のハッチを、脚でなんとかこじ開けようと試みたわけだがかなり難しい。でも内側から閉められたのだから、開けられない筈が無い。
「この……うぉりゃああぁあ!!」
気合いを入れて、力を込めた両脚でひたすら押す。すると、少しずつだが分厚く重たいハッチが開き始めた。吹き込む夜色の空気は、なんだかやけに静かな気がする。
半分程に開いたそこから、恐る恐る様子を伺う。銃声や悲鳴は聴こえない。虚無はどこに行ったのだろう。
フロストは、無事だろうか。
「…………よーし」
出来上がった隙間に身体をねじ込ませ、外に出る。白色の車体で足を滑らせないよう、慎重に降りる。
外は思いの外穏やかで、やはり静かだった。あれほどまでに荒々しい戦いが繰り広げられていたとは思えない。嫌みな風に髪をくしゃくしゃにされながら、ミカは辺りを注意深く見渡す。
そして、ようやく見慣れた真紅を見つけた。
「フロスト!」
良かった、無事だった。大きくて長い車体の上を走り、雪面にジャンプで飛び降りる。
滑らないように気をつけた筈なのに、何かを踏んづけてバランスを崩す。
結果、前方に思いっきり転んだ。
「うきゃあぁ!?」
「……ミカ?」
「あう……冷たいよぉ」
顔面が冷たい。打ち付けた鼻の頭をさすりながら、ミカは足元を見やる。一体、何を踏んでしまったのだろう。
「あ……」
真っ白な雪に隠れて、最初はよくわからなかった。でも、見ればすぐにわかった。
「これ……」
「ああ、そんなところにあったのか」
掘り返して、雪を払う。いつの間にか、随分疲れた様子のフロストが傍らに立っていた。純白の、ミカの両手の中でずしりと重さを主張する拳銃。
踏んづけてしまったことは、黙っておこう。
「よかった。この戦車の下敷きになって、潰れてたかと思った」
そう苦笑して、ミカから取り上げると右手でくるりと一回転させて太腿のホルスターに収めた。流れるような動作に思わず目を奪われていると、視界に眩しい光が煌めいた。
金色のリヴォルヴァー。フロストの左手にあるそれが、今の穏やかな状況の全ての答えであった。
「……すごい。もしかして、あのオバサンに勝ったの!?」
「ん? ……ああ、そう」
「すごいすごーい! やったね、フロスト。お父さんの銃、取り返せたね。本当にすごいよ!」
すごいすごいとはしゃぐミカ。だが、フロストの表情は妙に暗い。一体どうしたのだろう。
ふと、鉄錆の臭いが鼻腔を撫でる。見れば、左肩から指先にかけて元の真紅とは全く違う紅があることに気が付いた。いつから負っていたのだろう、相当血も流れたし何より痛い筈。
「だ、だいじょうぶフロスト?」
「……何が?」
「その……肩の傷」
「……ああ、これか」
まあ、なんとか。イマイチはっきりとしない返事。ミカの脳裏に、三日前の光景が思い出される。
血だまりの中に倒れたフロストは、どれだけ呼んでも何も答えてくれなかった。もし、またそんなことになったら。得体の知れない恐怖が、ミカの肌をぞわりと撫でる。
でも、違った。
「……ごめん」
「へ?」
差し出された右手と、落ちてきた言葉。微妙に噛み合っていない二つに、ミカは思わず首を傾げる。
そもそも、フロストが自ら謝ること自体が珍しいというのに。
「ど、どうしたの? あ、もしかしてさっきのこと?」
ミカがフロストを見つけた時に、腹の中で轟々と燃えあがっていた怒り。ついさっきまで自らを省みない彼に苛立っていたのだが、こんなにぼろぼろになった幼馴染に今更説教を垂れるつもりは無い。
「いいよ、もう。あのオバサン倒してくれたし、あたしもやりすぎたから。今回は許してあげる」
「……ごめん」
「いや、だから――」
「父さん、もう生きていないみたいだ」
用意していた言葉が、一瞬にして泡のように弾けて消えた。思考が真っ白になって、何も考えられなくなる。代わりに、フロストの思いが痛いほど感じられた。
「そっか……」
「ごめん……せっかく、今まで信じてくれていたのに」
信じてくれていたのに。そう言うフロストの声が、小さく震えている。確かに、ミカは今までヒョウの死を信じてなんかいなかった。絶対に、いつかフロストの元に帰って来てくれると思っていた。
それは、フロストがあの頃からずっと同じロリポップキャンディに執着しているのを見ていたから。単に好きだから、ということもあるだろうが。彼は今まで守ってきたのだ。
ヒョウとの約束を、誰にも言わず頑なに信じて待っていたのだ。
「……そっか」
もちろん、見つかったのは銃だけ。ヒョウの死を確実なものに出来る証拠ではない。でも、彼に諦めるななんて言葉は言えない。
これ以上待たせるのは、あまりにも残酷すぎるから。
「…………そっか」
村の大人達は、ヒョウの生死をあやふやな根拠で勝手に決めていた。でも、ミカはそれを間違いだとして譲らなかった。それを決めて良いのは、本人以外では息子であるフロストだけなのだ。
だからフロストが決めたなら、ミカはもう何も言わない。差し出された手を握り、立ち上がって空いている手でコートや髪についた雪片を払う。
そして、彼の手を離さないまま笑う。目頭が熱くて、溢れ出してくるものを堪えるのに必死で、上手く笑えているかどうかわからないけれど。
「……帰ろ? みんな、フロストのこと待ってるよ!」
大きな手を引いて、ミカが言う。自分だけじゃない、村中が彼を心配していた。
あ、でも銀河号は潜望鏡を取り替えない限り視界が真っ暗のままだ。それに肩を怪我している彼に、スノーモービルを運転させるわけにもいかない。
またフロストに、指示を出して貰うしかないか。そんなことを色々と思案していると、不意にフロストが足を止めた。
「…………」
「……あ、あれ。どうしたの?」
フロスト? と、ミカが振り返る。だが、彼の表情を伺うことは出来なかった。
――力強く腕を引かれて、視界を真紅が覆う。
「……え?」
最初は、強烈な鉄錆の臭いしかミカにはわからなかった。一瞬、視界の紅がそうなのかと思った。
すぐに違うと気が付くと、脳天から指先まで巡る血液が一気に沸騰した。頬をくすぐる銀色の髪に、耳にかかる熱い息。
「ちょっ、ええ!? ふ、ふふフロスト、フロスト?」
背中に回る腕に、心臓が跳ねる。うそっ、何この状況!?
「フロスト……?」
フロストは何も言わなかった。細い肩に顔を埋め、腕の中にミカを閉じ込めるだけ。
自分の鼓動が、ばくばくとうるさい。突然のことにミカの身体が固まる。どうして、彼は何も言わないのだろうか。奔流のように激しく流れる思考の中で、それに気が付いたのは一体どれだけの時間が流れた後だったのだろう。
フロストの肩が、僅かに震えている。ああ、何だそういうことか。
「……鼻水、付けないでよね」
「……お互い様だろ」
やっと返ってきた憎まれ口。やっぱり、さっきはちゃんと笑えてなかったようだ。
「だって……だってさ」
おずおずと、ミカの腕がフロストの背中に回る。思っていたより、大きくて逞しい背中だ。胸の中でそう呟いた時、堰を切ったかのように目から涙が溢れた。
だって、あんまりじゃないか。
「ずっと……ずっと、待ってたのに……フロストは、あの家で、一人で……ずっと待ってたのに……」
ぼろぼろと流れる涙は、もう止まらなかった。何の為に、今まで戦っていたのか。どんな思いで、あの家に居たのか。フロストは、今までこんなに頑張っていたのに。
こんな結果、あんまりだ。
「う、ぇ……うわああぁん!」
真紅のコートにしがみ付いて、ミカは声を上げて泣いた。フロストも、泣いていた。声は漏らさなかったし、涙も見せなかったけれど。
あの夜から十三年。初めて、誰かに縋って泣いたのだ。頑なに隠していた弱さを見せてしまう程に、真実は冷たいものだったのだ。それが、とにかく悔しくて。やりきれなくて。ミカとフロストは、お互いに縋って思いっきり泣いた。
たなびく雲を払い除け、再び顔を出した気まぐれな月が、淡い銀色の光と共にいつまでも二人を見守っていた。
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