二章⑦ スピネルの欠片

 力無く笑うアンナ。表情には細かいいくつかの擦り傷と、疲労の色が伺える。とにかく、彼女の脚を手当てしなければ。

 本やテレビの知識しか無いが、止血くらいなら出来るかもしれない。ミカはコートのポケットの中に手を突っ込み、ハンカチを探す。

 その時、指先に鋭い痛みが走った。


「いたっ!」


 反射的に手をポケットから出し、指をさする。何か尖ったものが、指の腹に刺さった感覚がしたのだが血は出ていない。

 トゲにでも触ってしまったのか。でも、皮膚には何も残っていない。もう一度、今度はゆっくりとポケットに手を差し込んでみる。


「あれ? ……これ」


 闇の中でも淡い輝きを放つ乳白色の結晶。どうしてこんなものが? 思い返してみると、最初はトニが持っていた筈。

 それをフロストが手に取って、それからは……ミカに投げ渡された後、急かされて家まで帰ってきたものだから、そのままポケットに入れて持ってきてしまったのだ。別に誰のものでも無いのだが、妙な罪悪感がある。


「……これ、どうしよう」

「――ミカ!!」


 切羽詰まった声。振り向く間もなく、アンナに押し倒される。刹那、頭上の空気が切り裂き、漆黒の鞭が屋敷の壁を貫いた。

 肺を侵す、濃厚な血の臭い。


「くそ……闇討ちとは卑怯なやつだねぇ?」

「闇は元より我々の領域。我等は闇より生まれ、貴様等弱者を喰らう者」


 まるで歌っているかのような、しかし地を這うように低く抑揚の無い声。夜闇に浮かぶ、血色の双眼。

 アンナが起き上がり、きっと闇を睨み付ける。ミカの手から懐中電灯を奪うと、虚無の姿を映し出す。

 ずるりと、フクロウの形をした虚無が現れて、ゆっくりとその場にホバリングする。普通の生き物では不可能な動きに、背筋がぞくりと粟立つ。


「あんた……名前があるんだろ? 言ってみなよ」

「我が名はスイ。崇高なる主が授けてくれた、大切な名前」


 人語を操り、名を名乗る虚無スイ。傍らで、アンナの肩が僅かに戦慄いたのがわかる。


「主……なら、あんたの他にまだ強力な虚無が居るのかい?」

「貴様も見ていた筈だ。フロスト・ヒューティアと対峙する、麗しき我が主を」

「くそっ、やっぱりあの女か!」

「あの時、狙撃していればまだ可能性はあったのかもしれんが……フロスト・ヒューティアに当たってしまうなどと、そんな甘さを捨ててしまえない貴様に元から望みなどなかったが」


 冷たい嘲笑。フクロウの片翼が細長い鞭に代わり、アンナの腕に絡み付く。

 鈍く軋む嫌な音。アンナが苦痛に悲鳴を上げ、懐中電灯を落とした。


「くっ、あぁああ!?」

「アンナさん!」


 やだ、アンナさんから離れてよ! ミカは絡み付く漆黒の鞭を掴み、なんとか解こうと力一杯に引っ張る。しかし、まるで鋼鉄の枷のように絡まる鞭は、ミカの力ではびくともしない。

 それどころか、もう一方の翼から作られた鞭に殴り倒されてしまう。冷たく柔らかな雪に突っ伏すと、頬の内側から生温い血が染み出してきた。


「きゃぁあ!!」

「トナカイの小娘、貴様は後でゆっくりと相手をしてやる」


 大人しくしていろ。頭を押さえつけられ、そう言い放たれて。

 傍でアンナが苦しんでいるというのに、黙って見ているだけだなんて出来ない。ミカは咄嗟にポケットを探り、それを掴むと闇雲に振り回した。


 ――光のスピネルの欠片が、スイの身体を掠める。それだけでも、怯えたようにミカの拘束を解き、悲鳴じみた声を上げた。


「なっ、何故そんなものが――!?」

「しめたっ、ミカ!」


 アンナの声に、ミカは欠片を握り締めると無我夢中で腕を突き出した。鋭く尖ったスピネルはまるで杭のように、逃げ遅れたスイの身体を穿つ。

 断末魔。身の毛もよだつ恐怖に固まるミカを押しのけ、アンナが銃をスイに突き付ける。小型のオートマチックは、振り払おうとした鞭よりも速かった。


「これでトドメだ、くたばりな!」


 乾いた銃声が木霊する。鞭は力無くだらりとうなだれ、虚ろな双眼がミカとアンナを睨んだまま、弾丸の威力に巻き込まれそのまま雪の中へと落ちた。

 埋もれていた懐中電灯を掘り出し、ミカがスイを照らす。スイはぴくりとも動かない。それどころか、既に光を当てた箇所からざらざらとした砂になり始めていた。


「はあ……そいつ、結構強い方の虚無だったんだけど……手負いで助かったよ。つか、自分できっちり片付けろよ」


 バカ弟子。傷付いた脚を投げ出して、横に倒れ込むアンナ。ミカが慌てて駆け寄ると、弱々しいがいつもの彼女の笑みがそこにあった。


「アンナさん!」

「ミカ……正直、メチャクチャ助かったよ。あんたがスピネルの欠片を持っているなんてね」


 ミカの手より少し大きい欠片は、本来のものより力は激減していた。だが、全くの無力というわけではない。小さな欠片でも虚無を惑わし、動きを止めることくらいは出来るのだ。

 様々な偶然が重なり、スイを倒すことが出来た。


「ありがとうね、ミカ」

「そ……そんな大したことじゃないよ」


 信じられなかった。自分が虚無を倒した、その事実が。何せ、ミカは今日初めて虚無を目にしたのだから。

 だが、スピネルを突き刺した感触は生々しい現実を指先からミカに伝えてくれる。


「そっか……粉々になっても、スピネルはスピネルだもんね。電気の光より、よっぽど頼りになりそうだね。なんで気がつかなかったんだろう」


 雪と血で濡れた髪をがりがりと掻いて、アンナが言う。そうだ、いつまでもこうしているわけにはいかない。


「アンナさん、その脚……早く手当てしなきゃ」

「あー、そうだねぇ……じゃあ、ちょっと肩貸してくれるかい?」


 実は、肋骨も何本かイってるかも。目の前にある苦笑に呆れて、ミカもすぐに立ち上がることは出来なかった。

 それでも、アンナに手を貸そうと立ち上がる。しかし、背の高い彼女を支えるにはミカ一人では少々難しい。


「待ってて、お父さんとお母さん呼んでくるから。あたしの家の中で手当てしよ、すぐにユド先生も――」


 不意に、空気が変わったように思えた。とても静かだ。今夜は村人も皆、家の中に入っている。自ら出歩く者など居ない。居るとしても、フロストくらいだろう。

 ――なら、あそこに立っている女の人は?


「スイ……わたくしの、わたくしの可愛いスイをよくも……」


 闇の中に煌めく金色。同時に、様々な音と光がミカを襲う。

 人々の悲鳴に、獣達の咆哮。燃え上がる炎は天高く、色濃い絶望を煌々と照らす。


「――――ミカ!!」


 再び突き飛ばされた。それだけを何とか理解したと同時に、爆音と紅がミカを襲った。

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