二章④ その名はキュリ

 緩やかにスノーモービルを走らせながら、やがて自然に零れた呟き。大人達は、よくヒョウの賛辞を口にしていた。あいつは良い戦士だった。フロストの前では意識していたのだろうが、密かに交わされる言葉を知らない筈がない。

 そんなに強い男だっただろうか。ヒョウが居なくなったのは、フロストが五歳の頃。今の彼と同じように真紅のコートを翻し、純白のマフラーを風に靡かせていた。違うのは二丁拳銃ではなく、一丁のリヴォルヴァーで戦っていたことだけ。

 大人達の中には、フロストは既にヒョウを超えたと言う者も居る。だが、戦士としてフロストを讃えた者は居ない。一体、何が違うのだろうか。


「……意味、わかんねぇ」


 とりあえず、今は目先の仕事をこなすだけ。この仕事を無事に終えれば、大人達だって何も文句は無いだろう。村の出入り口に差し掛かった辺りでスノーモービルを停め、センタースタンドで固定する。

 今夜は光を絶やさないように、と知らせがあったのだろう。どの家の窓からも煌々と明かりが漏れていて、夜にしては辺りは随分明るい。人工的な電気の光が、虚無に対してどれだけ有効かはわからないが。

 屋根から崩れる雪の鈍い音が、やけに大きく聴こえる。村を覆う不気味な静寂。空は曇っているが、何も降ってはいない。それでも、冷え込んだ夜気は鋭く身を裂くよう。

 吐く息は白く、じっとしていると分厚いブーツの底から冷気が伝わり全身が冷え切ってしまう。指がかじかんで、銃が撃てないなんてことがないよう、握ったり開いたりしながらその場を歩く。濃厚な静寂は、フロストの中にあった疑問や苛立ちを押し潰してしまう。

 不意に、自分のもの以外の足音が鼓膜に触れた。


「……あ?」


 誰だろうか。少々高く積もった雪の中を、ざくざくと歩く気配が一つ。野生の獣でも、虚無のものでもない。

 こんな時間に、誰だろうか。その人物は村の外からやってきたので、村の明かりだけでは特定するのは難しい。


「おい、あんた――」


 誰だ? と、暢気に訊いてしまったことをフロストは悔いた。反射的にその場から跳び、太腿のブランシュを引き抜く。

 同時に、闇の中からまるで鞭のようにしなやかな腕が飛び出してきた。咄嗟に空いている左腕で顔面を庇うも、強烈な衝撃でフロストの身体がなぎ払われてしまった。


「なっ、ぐあぁ!?」


 なんとか無様に転げる醜態だけは避けられたが。身を捻り、地面に片膝をつき闇の中の敵を睨む。幸いにも、ブランシュは未だフロストの手にある。ネラは背中に吊ったまま、先程アンナに渡されたリヴォルヴァーもベルトに引っ掛かったままだ。


「キュリ様、このサンタクロースがフロスト・ヒューティア。我々の同朋を蹂躙した、憎き戦士です」

「あら、どんなに屈強な殿方なのかと思えば。ふふふっ、まだこんなに可愛い坊やでしたのね?」


 地面を這うような、低い声。それと、ねっとりと甘ったるい猫なで声。痛みに揺らぐ視界が、ようやくその二人を捕らえる。

 否、フロストに見えるのは一人だけだ。腰をうつ髪はビロードのように滑らかで、ふとすれば吸い込まれそうなまでの漆黒。肌は真珠のようで、唇には鮮やかで蠱惑的な紅。

 氷点下を軽く下回っている気温の中、身に纏うのは深いスリットの入ったドレスにもこもことした毛皮のストール。そして、およそ雪道を歩くには不向きな踵の高いヒールだけ。パーティー会場でも無いというのに、度が過ぎた派手な格好。


「テメェ……まさか、虚無か?」


 油断した。立ち上がり、背中に吊ったネラを引き抜き相手を睨みつける。だが、無理もない。フロストの目の前に居る女は、今までに見たことのない姿であったから。否、ヒトの形をしたものならばさほど珍しくは無い。

 しかし、この虚無は別格である。髪は黒く、瞳は血の紅。それでも他の虚無とは違い、肌は白く衣服や靴を身に付けてる。女優のような美貌は、醜悪な闇の獣とはかけ離れている。項に冷たい舌を這わされているような気味の悪い感覚は狂気の塊だというのに。

 こんな虚無は、見たことがない。


「うふふ、そうよ。初めまして、わたくしはキュリ」

「キュリ……」


 名前を持つ虚無など、聞いたことが無い。だが、わかることが一つだけある。

 一瞬でも気を抜けば、殺される。


「フロスト……いいわ。あなた、とても可愛いお顔立ちをしているのね? わたくしの眷属に加えて、毎日愛でて差し上げたいわ」

「くそ、胸糞悪いこと言いやがる」

「ねえ、スイもそうは思わない?」


 首を傾げ、キュリが夜闇に問う。すると、今まで何も無かったはずのそこから、ずるりと太い触手のようなものが姿を現した。先ほどフロストをなぎ払った鞭は、どうやらこれだったらしい。

 触手は一点に集まり、真黒な球体となる。そして二つの翼となり、やがて漆黒のフクロウとなりキュリの腕に優雅に止まった。

 紅蓮の双眼が、静かに此方を見据える。


「成る程、キュリ様の仰る通りです。戦士の肉体を手に入れられれば、此方にとって非常に有利な状況となります」

「違うわよ、ペットとして飼い慣らしますの」


 自分を睨む二丁の拳銃に全く怯む様子もなく、キュリはまるで新しいドレスを品定めすりかのように見つめる。


「ねえフロスト、どうかしら? あなたはわたくしの従順な犬になるの。その真っ赤なコート、とてもよく似合っているから、同じ色の首輪をはめて差し上げるわ――」


 一発の銃声が村に轟く。キュリの頬伝うのは、真っ赤な滴などではなく。墨のような黒い液体が傷口から零れ、塵となり夜風に攫われた。その頃には既に、傷口は跡形も無く消えていた。

 傍らのフクロウが慌てたように羽をばたつかせるが、フロストに襲い掛かってくる様子は無い。


「……そういう変態思考は大っ嫌いだ。虫唾が走る」

「あら、生意気。躾のしがいがありますわね?」


 恐らく、今の銃声で村中に、少なくともアンナにはキュリ達の存在を知らせることが出来ただろう。彼女は夜中でも関係なく狙撃出来る装備を準備をしていた。援護は期待できなくても、暗視スコープで此方の状況を把握してくれれば良い。

 信号弾は絶対に使わないという意思を解してくれればいい。こいつは、自分の獲物だ。


「キュリ様、大丈夫ですか?」

「ええ。なんてことないわ」


 今の一発はあえて外した。やろうと思えば、この距離だ。額に弾丸を放つことも出来た。だが、フロストの思考には引っかかるものがあった。


「テメェは、何でそんなに『ヒト』に近い格好をしていやがるんだ?」

「綺麗でしょう? 人間界で今話題の人気ピアニストを真似してみましたの」


 口元に手をあて、くすくすとキュリが笑う。違う、フロストの知りたいことは、もっと根本的なことだ。


「違う……俺が訊きたいのは――」

「サンタクロースをお一人と、トナカイを何人か頂きましたが」


 それが何か? 目を細め、優美な微笑み。まるで心を読まれたかのように、キュリは明快に答えてみせた。刹那、呼吸が出来なくなる。

 頂きました、ということは――


「喰ったのか……サンタクロースを?」

「ご存じでいらっしゃらないの? サンタクロースとトナカイには、虚無には無い不思議な力がありますの。わたくし達はそれに焦がれ、取り込むことで貴方達と同じになりますのよ」


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