天風の英雄譚
風嵐むげん
待ち望んだ平和がどれだけ血に飢えているかを、彼等は知らない
プロローグ
そして、彼等は『英雄』を失った
凄く綺麗な人だと、彼は思った。
長く艶やかな銀の髪。蠱惑的な褐色の肌に、色鮮やかな紅玉の瞳が煌めいて。床に投げ出される身体は女性らしい細身だが、剣を振るう腕に危うい脆弱さは一切ない。
その女は、紅く生臭い血溜まりに力無く倒れこんだ。銀髪が紅蓮と絡み、強気な瞳は目蓋に閉ざされた。悲鳴は、無い。
少年が静かに歩み寄る。柔らかな金の髪を揺らし、足元に散らかる肉片を踏み潰す。白い肌に、幼さが残るものの端正な面立ち。そんな容姿に映えるのは右が蒼玉、左が翠玉の瞳。色違いの双眸を細める、その表情に感情は無い。
辺りは不気味な静寂で満ち満ちている。彼が居るのは、石造りの堅牢な砦の一角。真っ直ぐに伸びる廊下には、華美な装飾などは見当たらず。元から壁や天井に国章が刻まれている程度だったのだが。それさえ、もほとんどが原型を留めていない。無残なまでに破壊されてしまったのだ。
全ては、十代半ばの少年によって。
「…………」
無言のまま、少年は女の前に片膝を着く。元は何色だったかさえ思い出せない程に濡れた絨毯が、踏み締める度に粘着質な水音を立てる。
彼が身に纏う衣服は上等なものだが、既にじっとりと血に汚れてしまっている。今更どれだけ汚れようと、もう気に留めることはない。
血色に染まった棍杖を右手に持ち替え、利き手である左手を女の首に当てる。どくどくと、生を主張している事実に驚愕した。
まだ脈がある。生きているのだ。
殺すつもりだったのに、殺せなかった。これは、彼にとって初めてのことである。
棍杖を強く握り締める。周りに転がる数百の屍、砦の外に重なる幾千の死。今更『敵』を一人屠るくらい、呼吸するのと同じように出来る筈なのに。
理由は、わかる。
一瞬だけ、躊躇ってしまったのだ。
「有り得ない」
思わず、少年が零した。双眸に動揺の色が揺れる。今までに、こんなことは無かった。男だろうと女だろうと、子供だろうと老人だろうと敵は敵。自分の目の前に立った敵を、殺せなかっただなんて。
有り得ない。
どうして。
立ち上がり、もう一度棍杖を振り上げる。綺麗な顔は惜しいが、今度こそ確実に息の根を止めさせて貰う。頭蓋を砕き脳漿を潰す、抵抗も出来ない女相手にこれほど容易なことも無い。
命を踏み躙ることなど、至極簡単なことの筈なのに。
殺さなければ。
「……ッ、どうして」
手が震える。この女を殺す。たったそれだけのことなのに、出来ない。今までに感じたことのない感情が、自分の手を止める。
殺したくない!
頭の中に居る何かが、そう叫ぶ。
相反する二つの声。今までに、こんなことはなかった。自分自身に困惑し、焦燥が脳裏を焼く。有り得ない、どうして。繰り返される思いに、胸が痛む。
その時、背後から声を掛けられた。
「ルイ、ご苦労だったな」
耳障りなしゃがれ声。棍杖をゆっくりと下ろすと、踵を返し視線を移す。痩せてはいるが背の高い、年老いた男がそこに居た。
色褪せた金髪に皺だらけの顔面。ぎょろりと蒼い瞳が少年を見つめ、傍に来るよう暗に示す。抗うことなく、少年は男に歩み寄る。
染みどころか、埃一つ見当たらない、綺麗な衣装。同じ場所に立っていながら、全く違う。
「これでこの砦も我々『聖霊』の所有物だ。よくやったぞ、ルイ」
「……勿体無きお言葉、謹んでお受け致します。陛下」
目線は合わせないまま、膝を着こうと少年が屈む。しかし、主君はそれを遮った。
細い顎を掴み、自分の方を向かせる。頭一つ分低い少年の首が鈍く軋んだ。
「残すは本城だけ。最早敵方に態勢を整える余裕は無い、この戦いは我々の勝ちだ。例えお前が居なくとも、この勝利は絶対に覆すことは出来ない。そうだろう、英雄よ」
「……はい」
少年がそう言うと、男は満足げに嗤う。
そして、告げた。
「ご苦労だった。……これでお前は、もう用済みだ」
「――――え?」
理解が、出来ない。
辛うじて、視界の端で何かが鋭く煌めいたのは見えた。
「『ルイ・セレナイト』はこの世に存在してはならない。もう、お前を生かしておく理由は無い。お前はここで死ぬように」
軽い衝撃。
次いで、爪先まで駆ける冷たい激痛。
「なっ、陛下……セイロン、さま」
「お前の本当の名前は何だったか……ふっ、まあどうでも良いことだ」
おやすみ、幼く愚かな英雄よ。
それが、義父でもある主君から少年へ送られた最期の言葉となった。
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