猫はさみしくなりません

海未屋あんこう

1.


 ――猫ぱんち。


「……うん、この魚肉ソーセージはちゃんと死んでる」

「本当?食べられる?」

「ああ、大丈夫」

 僕がそう言うと、ビビはソーセージのかけらにそろりそろりと近づいて、鼻先を、その薄いピンクのふにゃふにゃした物体にちょこんと当てた。それから僕の真似をして、ソーセージにジャブを放った。前足の先が、それに触れたか触れないか、微妙なところで、ビビはさっと足を引く。ふう、と息を漏らし、大仕事をした、という満足げな顔でこちらを見てくる。

「ビビは本当にビビりだね」

 ソーセージをちぎって石畳に置いた本人が、にこにこしながら、なんだか嬉しそうに言う。短いスカートの中身が見えるのも厭わず、僕らを向いて座っている人間の少女は――名前は何だったか、仮に少女Nとしておこう、少女Nは僕らにたびたび捧げものを献上する。いつもこの川辺で。

 少女の長い髪が、水面を這ってやってきた涼しい風に揺らされる。目を守るためか、風を無心に浴びるためか、彼女は瞼を閉じた。スカートの端が、ふわりと浮いた。

 ――夏だ。照り付ける真昼の日差しよりも、それに伴うこの暑さよりも、太陽を映した水面の、そのきらきらと輝く波紋よりも、やまない蝉の声よりも、いま、彼女は夏を見せつけた。


 僕らがここをなわばりに決めたのは、二つ前の春だった。川沿いに石畳が続く、美しいこの風景に心奪われたせいだ。こちらの岸にはレンガ色をした地面がどこまでも伸びていて、向こうの岸には青々とした草木が生い茂っている。それに挟まれた川は、きっと人間二人ぶんくらいの深さはあり、藻がびっしりと生えている。川底の緑色がくっきり見えるほどに、水は澄んでいた。しばらく都会暮らしだった僕らにとって、ここは桃源郷のように思えた。

 地面と水面の高さはほぼ平行だ。川に沿って、やけに表面が滑らかな、茶色い柵、というより、手すりが延びているけれど、隙間だらけだ。横にも縦にも。猫はもちろん、人間さえも、川に落ちようと思えば、すんなりと落ちることができる。ただ、そのおかげで向こう岸まで見渡せるのだから、僕としてはこのままでいい。

「光合成、食べないの?」

 少女が僕に声をかけた。猫が人語を解すると本気で思っているのか、彼女はいつも、気さくに話しかけてくる。実際、都会育ちの猫ともなれば、人の言葉くらいはよく知っているから、それはいい。問題は、この純真さだ。一緒に暮らしている猫ならともかく、野良猫に話しかける人間なんて、猫から見てもちょっと変だ。けれども彼女には、そのほかに変なところがない。至って普通なのだ。それこそが一番変だった。少女は、どこかいびつだ。

 ビビにビビと名付けたのも、僕に光合成と名付けたのも彼女だ。どちらもなんとなく可愛らしい名前だと思うが、あいにく僕らは両方オスだ。そう呼ばれるのは正直むず痒いのだが、彼女はそんなこと、まるで意に介していないようだった。気にもせず、歯牙にもかけず、といったとぼけ顔で、彼女はまた、ソーセージの先をちぎってこちらへ、ぽい、と下手したてから投げた。ぺた、という情けない音を立てて、跳ねることもなく、それは着地した。ビビが怯えた表情で僕を見る。息を整え、僕は目の前の魚肉ソーセージ目がけて、渾身の右ストレートを放った。オスらしく。

 ビビのほうを見て、僕は小さくうなずいた。

 ちゃんと死んでるぞ、これも。

「あ、光合成、本日二度目の猫ぱんちだ。今日は気前がいいね、大将」

 わけのわからないことを言って笑う少女に、僕は歩み寄って、サービスしてやることにした。


 右ひざに、猫ぱんち。

 猫らしく。



 〇



 少女、と言っても、もしかしたら彼女はもう、たばこやお酒を嗜む年齢に近いのかもしれない。あどけなさの残る表情をしているが、たぶん人間界では大学生というものに分類されているのだと思う。行動パターンがそうだ。僕には分かる。

 先の春からここに現れるようになったことを考えると、下宿を始めたばかり、なのかもしれない。

「あの子、なんて言うんだっけか」

 少女Nが去ったあと、僕はビビに聞いた。唐突に声を発したせいか、ビビはびくっとして毛を逆立てた。本当にビビりだ。もちろん、だからビビと名付けられた。

「かや、……かよ?みたいな感じ……じゃ、なかった?」

「ああ、なんか、そんなような」

 喉元まで出かかっているのだが、出ない。魚の骨が刺さったときのような、違和、異物感が、もやもやと喉に溜まっている。彼女が友人と二人でここにやってきたとき、名前を呼びあっていたのだが、何だったか。たぶん、二文字だというのは合っているのに。

「名前、つける?」

 ビビは前足を舐めながら、のんびりとした口調で僕に聞いた。白い毛並みが日差しを跳ね返していて、いっそ光を自ら発しているように見えた。僕は俗にいう三毛猫だから、どの季節にもいまいちぱっとしない。ビビがすこし、うらやましかった。

「僕にはそういうセンスがない」

「ぼくもないけど」

 その言葉に、僕はちょっと、自分勝手に腹を立てた。毛並みのことを考えていたせいだ。お前は僕にないものを持ってるじゃないか、ぼくもないとか言うな、と、頭の中で誰かがビビに言う。

 ああ、僕はいやな奴だ。

「――ちなみに僕は、心の中で少女Nって呼んでる」

「え……なんでエヌ?」

 ……なんとなく。意味はない。強いて言うなら――

「語感。かな」

 ビビはあまりぴんとこないという顔をして、呑気に前足を舐め続けながら口を開いた。

「名前があるとさ、なんか、親近感、湧くよね」

 バカ。人間と仲良くなってどうする。そんなもの湧かなくていい。だからやっぱり、名前も付けなくていい。

 と、言いつつも、僕は人間の前で、あざといことをし続ける。喜ばせたくて、という気持ちではない。何だろう、猫らしく行動しておけば、角が立たない気がするからだろうか。好かれることを適当にやっておけば、勝手にちやほやしてくれるのだ。世間はもともと、猫に甘いのだから。

 僕らは人間より遥かに、上手な生き方を知っている。

 ……と、思う。

「所詮は人間だろ、僕らが孤高の存在だってこと、忘れるなよ」

「忘れないよ」

 ビビは怖がりだが、猫であるという威厳は決して失っていない。己の尊厳を傷付けられでもしたら、こいつだって怒ってみせるだろう。……たぶん。

「ていうか、毛玉吐いちゃう」

 ビビは情けない声を出して、あからさまに、何かを我慢しています、というような、しかめ面をしてみせた。それから「猫って不便だよ」なんて言い出す始末だ。威厳はどこへ行ったのやら。

「川に吐いとけ、川に」

「分かった」

 そう言ってビビは水面へと歩きだした。その後ろ姿を見ていると、どじだから川に落ちてしまったりしないだろうかと、いつもはらはらする。見ていられなくて、僕は目を逸らし、右足を舐めることにした。


 ビビが川に落ちたら、僕はどうするだろう。


 ――なんて、すこし怖いことを想像してしまった。顔を上げると、青みがかった目が二つ、僕の鼻先にあって、今度は僕がびっくりした。毛が逆立ったまま戻らない。

「ああ、おどかすなよ」

 僕がそう言うと、ビビは恥ずかしそうに、微妙なはにかみを浮かべた。

「ここで吐いてもいい?」

 やっぱり。いつも通り、水が怖くて戻ってきたらしい。どこかほっとしている自分がいて、そのことになんだか腹が立ったので、ビビの白い額を小突いておいた。

 本日四度目の猫ぱんちだ。

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